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 前回、家族5人で、この「広島平和記念公園」に来たのは、1989年9月24日。観光バスで回ったが、どこを見たのか、思い出せない。ただ、「広島平和記念公園」に行ったのは、記憶している。広島城なども見ていると思うのだが・・・「広島平和記念公園」だけってことはないと思うが・・・?!
 「広島平和記念資料館」と「原爆の子の像」の記憶は、はっきりとある。被ばくによる実に悲惨な姿がとても印象的だったのを覚えている。広島平和記念公園で通りがかりの人から家族の写真を撮ってもらったのを覚えている。
 それから22年間が過ぎたが・・・核の脅威は今も全く消えていない。
 原発は、核を作る過程で出来たもの。それに多くの人が群がった。日本アチコチで原発反対で裁判になっても、最高裁で原発反対派が勝つことはなかった。裁判で負けても、真実は、同じ・・・→一旦、事故が起きると、福島の事故の様に、大変なことになるのだ!
 現在、アチコチで、原発反対運動が起きている。日本でも、もう、7割程の人が、原発推進に疑問を抱いている。イタリアでは、国民投票で、9割以上がノーと判断している。当たり前だ!政治家や経済界の人たちに推進派が多いが、私利私欲を捨てて、ここは、冷静に行動してもらいたい。今から生きる子どもたちの運命がかかっているのだから。
 政治家や経済界の人たちよりも、医療関係者がもっと声高に放射線物質の本質について説明する必要があると思うのですが・・・(医学関係者が少ないのは、何故・・・?!)。
 No more Hiroshima,Nagasaki and Fukushima! 
 

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 県立美術館では、震災をテーマにした展示が開催され、行った日の12日は、その最後の日でした。
 13日は、トコトン、広島平和記念公園を見ました。「広島平和記念資料館」で落ち込んで(泣いている人もいましたが・・・)、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」では、更に落ち込み、又、被爆者の体験談をヘッドフォンでこっそりと聞いていると、(歳のせいか、涙もろくなっていて)涙が出そうになり、こらえるのに必死でした。
 何で核を持とうとするのか!ちょっと間違うとどうなるか・・・→チェリノブイリや今回の福島の原発事故がそれを証明しているかと思う。想定外ではなくて、想定内の話だ!核の恐ろしさを多くの人に知ってもらいたいと祈った。
 米露英仏中、大量の核弾頭を持って正当化しようとしているが、これ正に大国の奢りだ・・・、相手より沢山核弾頭を持っても、ちょっとしたことで使えば、自分も生きられないのになあ・・・核保有国が出来るだけ早く核を放棄して、福島の想定外と同じ感じにならない様に祈るばかりです・・・。

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 平成22年6月8日(火)の午後、家内と一緒に、テクテク歩いて、「佐伯市平和祈念館やわらぎ」に行った。(家内は初めて)
 平成9年に出来た時、直ぐに行ったことがあったが、その時よりもかなりリニューアルしていた感じ。祈念館のガイドの人から、詳しく説明してもらった。最後に、家内と二人だけで、20分の当時の戦争体験記の話をビデオで見せてもらった。
 昭和9年、佐伯海軍航空隊の基地が佐伯に出来た(取り壊された広い土地の一角に、この記念館が立てられているが・・・)。真珠湾攻撃の直前には、佐伯の大入島の地形が、真珠湾とよく似ていると言うことで、そこで厳しい訓練が行われている。つまり、佐伯は、出撃直前の演習基地であり、機動部隊の出撃地でもあったのだ。
 昭和20年、6回も空襲に会い、最後は、終戦前日の8月14日にも、激しい空襲に会い、当時の様子が生々しく語られていた。
 ・・・佐伯中学(今の佐伯鶴城高校)の前の馬場の松に、人の肉片が付いていて、生臭い人間の焼ける匂いで、・・・と語られていた。
 戦争で死ぬのも嫌だが、戦争と言う名の元に、人を殺すことも・・・って感じで、当時の思いが述べられていた。
 佐伯駅からちょっと先にあるこの「平和記念館やわらぎ」、残念なるかな、ホームページがまだ作成されていない。
 国籍を問わず、多くの人に是非見てもらいたいなあ・・・!!
 戦争の悲惨さを再認識すると同時に、平和の有難さを実感した1日でした。
*開館時間:午前9時~午後5時(休館日は、月曜日)大人300円電話0972-22-5700(佐伯駅から徒歩で10分) 

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 平和公園を後にして、「浦上天主堂」に行くことにした。せっかく500円で、「電車一日乗車券」を買ったのだからとの家内の意見で、浜口町から次の電停の松山町まで、電車で行った。で、テクテク歩いて、「浦上天主堂」に着いて思った。以前、家内とここに行ったと思っていたのは「(グラバー亭の近くの)大浦天主堂」の間違いであった。
 で、今回、も一つ、間違っていたことが判明した。被爆後の水分補給を避ける理由のこと。原爆記念館で、解説してくれていた人に、「被爆の後、水を飲んだら(死んでしまうので)いけないと聞いていたのですが、どうしてですか?」と尋ねた。すると、その人は、「それは、軍の教育です。間違った教育です。飲んで助かった人がいますし、飲んでも助からなかった人もいます。軍の方が、飲んではいけないと指導していたんですよ。」と言われた。この時、今まで自分がずっと疑問に思っていたことの扉にやっと光が差した感じだった。
 「大浦天主堂」、驚いたのは、原爆の跡形をそこに如実に残していたことだ。正に、これは、キリストの嘆きの姿だなあと思った。

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 平和公園に、いろんな彫刻があった。どれも、力作だが、やはり、断凸、自分の心に響いたのは、北村西望氏の平和祈念像だ。とても柔和な顔に、逞しい肉体。
 大学受験の時と宮医大勤務前の時にも、今までに恐らく2回も平和公園に来てるはずなのに、この記念像だけ少し記憶にあるだけで、周りの景色など、全く記憶にない。頭は、受験のことや仕事のことで、自分にゆとりが全くなかったのだなあ(1浪の時に長崎を受験して、不合格)。
 真珠湾攻撃に使われた母艦が長崎の三菱造船所で造られ、その長崎に原爆が落とされて、終戦となった。正に、長崎は、大戦の初めと終わりに深く関係しているんだなあ。


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 長崎原爆記念館を後にして、「死没者追悼平和記念館」に行った。(佐伯市とハワイのホノルル市との友情都市調印式の時に行って追悼した)「アリゾナ記念館」をイメージしていたが、ここでは、名前が直接見れなくて、シーンと静まりかえっていて、極めて厳粛な感じに思えた。静寂さの中で、多くの戦没者が強く訴えている感じがしてならなかった。今の平和は、正に、この戦没者の犠牲の上で成り立っていると言うことを、我々日本人は、絶対に忘れてはいけないし、無駄にすべきでない。
 原爆記念館で説明していた人も言われていた、「被爆した長崎や広島が中心になって、核軍縮を勧めないといけない!」と。政府が強くそれをバックアップしないといけないのになあ。
 時計を見ると3時半を過ぎていた。昼食を摂っていなくて、お腹がとても空いていることに気が付いた。で、その敷地内にあるレストランで、私はサンドイッチを、家内は、ピラフを食べた。何故か、特別な味がした感じで、とても美味しかった。
 その後、何かを達成した感じになって(?)、「平和公園」に元気よく行った。

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 1月31日(土)の朝7時前に、病院に行き、気になる細気管支炎の2人(1カ月と5カ月で、RSウイルスの検査で共に陽性)を診察して(不在中は、も1人の小児医に委ねて)、いつもの様に、7:35発の上天草総合病院前からバスに乗って本渡(ほんど)に行った(長崎市のランタンフェスティバルに行く為に)。いつもは少し遅れるのに、9:06到着予定が、バスセンターに早く着いた。でトイレに行った為に、数秒の遅れで、9:05発の富岡行きに乗れなかった。で、次の10:20発に乗った。どっちみち、富岡港からの出発は、11:30になっているので、早くそこに着いていても、1時間余では、富岡を中途半端でした見れないし、ブラブラしているだけだから、同じだと思い直した。
 で、10:20に乗った。バス亭でないのに、母親らしき人が大きく手を振ってバスを止め、途中で止めてしまった事を詫び、「○○まで二人をお願いします」と頭をペコペコ下げながら言っている。田舎のバスの運転手さん、(自分は前の方に座っていたので、そのやりとりがよく分かったが)嫌な顔一つせずに了解して、その子(小学校4年生ぐらい?)が降りる時、上の子が、「アリガトウゴザイマシタ」と深々と礼をしたら、運転手さん、「気を付けて行けよ!」と言った。何か、そのやりとりを見て、胸にジーンと来てしまった。一つ前のバスだと、これ、経験できなかったなあと思うと、何か、旅の醍醐味って、こんな所にあるのだなあと思った。
 数日前からの天気予報では、土曜は雨になっていたが、幸いに雨は降っていなく、又、数日前の寒波と違って、さほど寒くはなかった。しかし、バスから見る海岸の波は荒かった。で、案の定、11:35発のフェリー、大揺れに揺れた。
 私は、その前に五苓散を飲んでいて、乗ると直ぐに横になった。ヘッドホーンをして、半分眠った状態の70分間だったが、家内は、何度もトイレで吐いたそうな。又、着いた時、青年の1人が真っ青になって座り込んでいた。台風以外で、こんなに波が荒れること、年に1回あればいい方らしい。家内は、「もう、この船に乗らない!」何て言っていた(往復券を既に買っているので)。
 茂木港に着いて、バスで長崎市に行った。二人共、食欲全くないまま、長崎駅で500円の「電車一日乗車券」を買って、まず、「原爆資料館」に行った。
 館内で、ある団体に付いて行った。説明してくれる人がいて、よく分かった。30分ぐらい経過したのかなと思っていたら、何と、1時間既に経過していた。ここは、1時間では足りない。少なくとも、3時間は必要だと思った。
 原爆で亡くなった人の1割は、瞬間的に亡くなっている。熱と爆風と放射線で苦しんでいる。衝撃的な写真が沢山あった。戦争でいつも一番の被害に会うのは、武器を持って闘うことのない(罪のない)子ども達や女性だ。
 子どもが瞬間的に焼けて亡くなった写真が2枚あって、(ノーベル平和賞を受賞した)マザーテレサが、この2枚の写真をこの場で指さして、「核を有する国の政治家は、これを見るべきだ!」と言ったとのこと。又、衝撃的な写真の一つに、娘さんがボーッとして焼け野原に立っていて、その足下に、よく分からない感じのモノに人間の髪と思われるものが付いている。写真を撮る人が尋ねると、その娘さんは、「自分の母親だ」と言う。その理由を聞くと、「父が与えたコハクのクシが髪に付いているから」との返事だったとのこと。その写真を撮った人は、それを聞いて返す言葉がなかったとのこと。
 原爆は、新潟・広島・小倉・長崎のどれかに落とすことになっていたらしい。広島のは、ウラン235、長崎のは、プルトニウム239、死者は、広島の方が多かったが、規模は、長崎の方が大きかった。
 現在、地球にいる60億の人間を5回も殺すだけの核を人類は持っている。これは、正に、大国の奢りだ!
 No more Hiroshima and no more Nagasaki!

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2008.11.17 09:06 |  旅行 / 宿  |  原爆の悲劇を繰り返すことなかれ  |  masa  | 推薦数 : 0

はだしのゲン

 

 2008年11月16日(日)15:00より16:30まで、天草国際交流会館(ポルト)で、山中啓治原作、神田香織による立体講談、「はだしのゲン」が、音と映像のシンクロであった。9歳の少年ゲンの見た広島戦争と原爆の真実を演ずる感動の舞台であった。
 天草市・天草市教育委員会後援で、沢山の人が来ていた。講談師は、日本に70名ほどしかいないとのことで、落語と違った迫力を感じた。 道具は、「しゅくだい」と「(自分で作る)はりおおぎ」しかないが、照明や音を上手に使われていて、原爆の状況が実によく再現されていた。 講談では、小さなものでも大きく見せ、何でも大げさに見せ、左にと言うのを「ひんだりに」、右にと言うのを「みぎりに」と言うとか。又、思い出せない時には、何度もはりおおぎを打ち、「講談師、忘れた時にポンと打ち」なんて言っていたが。
 講談師の神田さんは、福島県磐城市出身で、女優を目指していたとのこと。同級生に、女優で同じ郷土出身の秋吉久美子さんがいるとか。
 迫力満点で、講談師の話を聞いていると、正に現実を見ている様で、素晴らしかったなあ。偉いモノを見てしまったって感じだった。これ、カーネギーホールでも、充分に受ける感じで、今のオバマさんなら、世界の平和活動や核軍縮に大いに貢献出来ること間違いないなあと思った。(素晴らしい、大拍手)

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  もうすぐ、広島投下の8月6日と長崎投下の8月9日が来ます。

  1949年生まれの自分は戦争を経験していませんが、小さい時に周りから戦争の話を沢山聞かされました。当時相手を傷つけて戦地から帰ってきた日本人も、今でも罪悪感で悩んでいます。勝っても負けても、両者に傷跡が残ります。もう、戦争は絶対にして欲しくない。

  第9条の平和憲法をどうするか、日本人のアンケ一トでは、変えて欲しくない方が多くなっています。被爆を経験した日本人が、世界で最も平和を愛する国民であって欲しいと常々思っています。

*平成12年11月27日(火)の西日本新聞に掲載されたものを、故人となられた近本芳春様の奥様から私が直に頂きました。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/categories/261

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 全ての国から、核を廃絶してもらいた。もちろん、常任理事国もである。これが、世界平和への具体的な一歩となると思っている。その為に、日本は、積極的に外交をする必要があると思うし、世界で唯一の被爆国の日本は、それをしないといけない(義務)とまで思っている。

 
  核拡散防止条約(NPT)は、1967年1月1日前に核兵器その他の核爆発装置を製造し、かつ爆発させた国を核保有国として定義している。国連安全保障理事会の常任理事国である米国・ロシア・英国・フランス・中国の5カ国をさす。その後に核実験を行い「核保有」を宣言したインド、パキスタンを加えた7カ国が現在の核兵器保有国。


 パキスタン以外の6カ国は長射程ミサイルへの搭載が容易なプルトニウム型弾頭を保有。イスラエルは公式に認めていないが、ウラン型の開発を終えているとの見方が強い。


 核軍縮を訴えるため、日本が提出していた核廃絶決議案が、11月6日の国連総会で採択されたそうである。この決議案は、毎年提出され、94年以来採択されているそうである。今年は特に、北朝鮮が10月9日に実施した核実験を非難する決議案になったのだそうだ。


 この活議案は賛成167、棄権7、反対4で採択され、成立したそうである。国連加盟国は191国であるから、13カ国が欠席ということになる。賛成は全体の83.7 % ということになる。これだけの賛成がありながら、何故、核兵器を開発しようという動きが絶えないのであろうか。


 今回、反対を投票したのは、米国、インド、パキスタン、北朝鮮であった。さらに棄権した国は、中国、イラン、イスラエル、エジプト、ブータン、ミャンマー、キューバであった。反対投票国は、最近、核実験を行ったか、それよりも2、3年早く核実験を行ない、現在、核保有国になるに至った国か、なることを希望している国であると考えれば、彼等は確信犯国家なのだという定義付けが可能である。しかし米国は世界で最初に核を持つに至った国である。インド、パキスタンなどとは同じ範疇に属し得ない国である。大量の核保有国であるロシア、イギリス、フランスが賛成国に入っているのに、米国が反対とは腑に落ちない。


 棄権した国に、イランが入っているのは、イランが各開発中であることを意味し、イスラエルが入っているのは、イスラエルがすでに核保有国になっていることを意味する。エジプト、ブータン、ミャンマー、キューバなどは核開発を計画中だということであろうか。ただ中国が棄権の中に入っているのも理解に苦しむ点である。中国の核保有量はイギリス、フランス並みの保有量に達していると思われるのに、何故であろうか。中国には、国連での日本の活動に反発する何かがあるのであろうか。


 この結果からすれば、米国にせよ、中国にせよ、核廃絶に消極的であることは確かである。中国は本音は覇権主義の国家であるから、核を戦略的手段として温存したいのであろう。中国は、相手国には核を持たせたくないのに、自国は温存しようとする。要は軍事大国のエゴである。


 国連でいくら立派な決議案が可決されても、問題は、その決議がどれだけ実質的に守られ、その決議の方向に向かってどれだけ動いているか確認できなければ、この決議は無意味である。立派な決議をしたからには、その方向へ向かった実行が伴わなければ、全く意味がない。国連は単に決議するだけではなく、その方向に近づくように監視、説得する実質的な力を持つ必要がある。
  (以上は、インターネットから引用)


 私の周りに、広島で被爆した人(近本氏、陸軍)や真珠湾攻撃開戦の時にパイロットとして参加した人(空軍、この人の力で、佐伯市とハワイ市が、友情都市で結ばれ、その調印式に私も出席さえてもらえたが、既に、故人となられた)や、10年ほど前に亡くなった職業軍人であった叔父(海軍兵学校を卒業後に、海軍少尉として活躍、弟が戦死。小学校低学年の時から、当時の話を私は、よく聞いていた)や、東南アジアに赴いて、饑餓生活同然の生活をした叔父などがいる。


 その叔父が書いた「饑餓の島」の一部を、以下に掲載します。


 ・・・今は、極限との闘いで、死を考える前に食うことを考えるばかりだ。戦争をしたくても、銃も弾も食料も体力も気力も底をついている。目の前の作業している姿は、子どもの時にお寺で見た地獄の絵と同じだ。肋骨の数が良く分かるし、胃の部分は膨れ、足首は大きく、栄養失調の状態だ(叔父は、この時、衛生兵として赴任)。付近の椰子林は切り尽くしてしまい、パパイヤの木の芯を食い、雑草や木に「うさぎ」なんて名前を付けて食う。・・・歳は若くても、体は老人だ。野糧収集に出たまま、体力尽きて帰って来ない人もいる。禅僧が栄養失調寸前まで、自分を律し、妻も娶らずに生涯が送れる気持ちが分かる様な気がする。・・・今は、食う為に生きるのであった、生きる為に食うのとは違う。極限の生活をした人のみが分かる言葉だ。・・・戦友や患者が亡くなって埋める時に出る言葉は、いつも、「君達は埋めてくれる人が居る間に死亡して幸せだ。自分が死んだら、誰が埋めてくれるのだろうか?」だ。・・・


 (この本を書き上げて、胃ガンで非常に苦しんでいた叔父は、安心し切った感じになって、他界して行った。) 

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