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  もうすぐ、広島投下の8月6日と長崎投下の8月9日が来ます。

  1949年生まれの自分は戦争を経験していませんが、小さい時に周りから戦争の話を沢山聞かされました。当時相手を傷つけて戦地から帰ってきた日本人も、今でも罪悪感で悩んでいます。勝っても負けても、両者に傷跡が残ります。もう、戦争は絶対にして欲しくない。

  第9条の平和憲法をどうするか、日本人のアンケ一トでは、変えて欲しくない方が多くなっています。被爆を経験した日本人が、世界で最も平和を愛する国民であって欲しいと常々思っています。

*平成12年11月27日(火)の西日本新聞に掲載されたものを、故人となられた近本芳春様の奥様から私が直に頂きました。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/categories/261

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 全ての国から、核を廃絶してもらいた。もちろん、常任理事国もである。これが、世界平和への具体的な一歩となると思っている。その為に、日本は、積極的に外交をする必要があると思うし、世界で唯一の被爆国の日本は、それをしないといけない(義務)とまで思っている。

 
  核拡散防止条約(NPT)は、1967年1月1日前に核兵器その他の核爆発装置を製造し、かつ爆発させた国を核保有国として定義している。国連安全保障理事会の常任理事国である米国・ロシア・英国・フランス・中国の5カ国をさす。その後に核実験を行い「核保有」を宣言したインド、パキスタンを加えた7カ国が現在の核兵器保有国。


 パキスタン以外の6カ国は長射程ミサイルへの搭載が容易なプルトニウム型弾頭を保有。イスラエルは公式に認めていないが、ウラン型の開発を終えているとの見方が強い。


 核軍縮を訴えるため、日本が提出していた核廃絶決議案が、11月6日の国連総会で採択されたそうである。この決議案は、毎年提出され、94年以来採択されているそうである。今年は特に、北朝鮮が10月9日に実施した核実験を非難する決議案になったのだそうだ。


 この活議案は賛成167、棄権7、反対4で採択され、成立したそうである。国連加盟国は191国であるから、13カ国が欠席ということになる。賛成は全体の83.7 % ということになる。これだけの賛成がありながら、何故、核兵器を開発しようという動きが絶えないのであろうか。


 今回、反対を投票したのは、米国、インド、パキスタン、北朝鮮であった。さらに棄権した国は、中国、イラン、イスラエル、エジプト、ブータン、ミャンマー、キューバであった。反対投票国は、最近、核実験を行ったか、それよりも2、3年早く核実験を行ない、現在、核保有国になるに至った国か、なることを希望している国であると考えれば、彼等は確信犯国家なのだという定義付けが可能である。しかし米国は世界で最初に核を持つに至った国である。インド、パキスタンなどとは同じ範疇に属し得ない国である。大量の核保有国であるロシア、イギリス、フランスが賛成国に入っているのに、米国が反対とは腑に落ちない。


 棄権した国に、イランが入っているのは、イランが各開発中であることを意味し、イスラエルが入っているのは、イスラエルがすでに核保有国になっていることを意味する。エジプト、ブータン、ミャンマー、キューバなどは核開発を計画中だということであろうか。ただ中国が棄権の中に入っているのも理解に苦しむ点である。中国の核保有量はイギリス、フランス並みの保有量に達していると思われるのに、何故であろうか。中国には、国連での日本の活動に反発する何かがあるのであろうか。


 この結果からすれば、米国にせよ、中国にせよ、核廃絶に消極的であることは確かである。中国は本音は覇権主義の国家であるから、核を戦略的手段として温存したいのであろう。中国は、相手国には核を持たせたくないのに、自国は温存しようとする。要は軍事大国のエゴである。


 国連でいくら立派な決議案が可決されても、問題は、その決議がどれだけ実質的に守られ、その決議の方向に向かってどれだけ動いているか確認できなければ、この決議は無意味である。立派な決議をしたからには、その方向へ向かった実行が伴わなければ、全く意味がない。国連は単に決議するだけではなく、その方向に近づくように監視、説得する実質的な力を持つ必要がある。
  (以上は、インターネットから引用)


 私の周りに、広島で被爆した人(近本氏、陸軍)や真珠湾攻撃開戦の時にパイロットとして参加した人(空軍、この人の力で、佐伯市とハワイ市が、友情都市で結ばれ、その調印式に私も出席さえてもらえたが、既に、故人となられた)や、10年ほど前に亡くなった職業軍人であった叔父(海軍兵学校を卒業後に、海軍少尉として活躍、弟が戦死。小学校低学年の時から、当時の話を私は、よく聞いていた)や、東南アジアに赴いて、饑餓生活同然の生活をした叔父などがいる。


 その叔父が書いた「饑餓の島」の一部を、以下に掲載します。


 ・・・今は、極限との闘いで、死を考える前に食うことを考えるばかりだ。戦争をしたくても、銃も弾も食料も体力も気力も底をついている。目の前の作業している姿は、子どもの時にお寺で見た地獄の絵と同じだ。肋骨の数が良く分かるし、胃の部分は膨れ、足首は大きく、栄養失調の状態だ(叔父は、この時、衛生兵として赴任)。付近の椰子林は切り尽くしてしまい、パパイヤの木の芯を食い、雑草や木に「うさぎ」なんて名前を付けて食う。・・・歳は若くても、体は老人だ。野糧収集に出たまま、体力尽きて帰って来ない人もいる。禅僧が栄養失調寸前まで、自分を律し、妻も娶らずに生涯が送れる気持ちが分かる様な気がする。・・・今は、食う為に生きるのであった、生きる為に食うのとは違う。極限の生活をした人のみが分かる言葉だ。・・・戦友や患者が亡くなって埋める時に出る言葉は、いつも、「君達は埋めてくれる人が居る間に死亡して幸せだ。自分が死んだら、誰が埋めてくれるのだろうか?」だ。・・・


 (この本を書き上げて、胃ガンで非常に苦しんでいた叔父は、安心し切った感じになって、他界して行った。) 

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  お互いに正座をし、おもむろに「美代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。


 「美代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。


 美代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。


 「この名札は、美代子が胸に付けていたのに間違いはありません。美代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ美代子を連れて来られました。」


 「いいえ、私の当然のことをしただけです。」


 前田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。


 広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。


 被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。

(完)

(ご愛読、ありがとうございました)

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 近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。


 目指す美代子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。


 「この辺と思いますが、前田義夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」


 「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、前田さん夫婦と家族の方ですよ。」


 やっと尋ねて来た前田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美代子さんの遺髪を届けに来て良かった。


 「前田さんですか?」


 「ハイ、そうですが・・・・」


 「前田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。


 「速達を下さった近本様ですか?」


 「ハイ、近本であります。」 


 軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。


 「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。


 可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。

(次回、17回で、完です)

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 7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。


 気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。


 「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」


 「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。


 就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った前田美代子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美代子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美代子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。


 

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   いつ出撃なのか待機中である。今、8月15日の午後である。隊本部が急にざわめき出した。待ちに待った出撃出発かと歯を噛みしめて両拳を握った。


 どうも様子が変である。隊員達も頭を傾ける中、隊長が悲愴な顔をして全隊員集合を命じた。


 「・・・・・・、全隊員の諸君、戦争は終わった。ご苦労さんでした。」 


 日本が勝ったのか、休戦になったのか、・・・ああ、日本は負けたのである。


 全隊員泣いている。隊長も泣いている。


 国の為に一生懸命に勉強して、陸軍兵器学校に入学し、卒業し、船舶司令部に配属され、過去4年半軍務につき、今正に特攻隊員として出撃瞬前に、終戦となってしまった。

 残念無念である。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20061022/1


 

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 10時頃であったろう。本隊に至急に帰隊せよとの伝令が自分に来た。何の要件かわからない。とっさに、負傷している私を休ませようとして、中野隊長殿が気を使われたのであろうか?その事であれば、私はまだ頑張るつもりであるが、命令とあれば、致し方ない。


 浅川兵長に後のことを宜しく頼み、兎に角、伝令と一緒に本隊に帰隊して驚いた。「海田市にある特別隊に編入転属を命ず。」被爆する前から、船舶司令部の名簿の中に私の名前は載っていたのである。


 急いで海田市にある特別隊に赴任する。遂に来た、沖縄決戦の名誉ある特別攻撃隊員である。それも幹部員である。


 船舶司令部の特別な秘密兵器である艇体は、総ベニヤ製にて長さ約6メートル、エンジンは貨物自動車エンジン60馬力、速度15ノット、艇3分の1先は、爆薬がぎっしり詰まり、先端には大きな信管が付いていて、所謂人間爆弾艇で、敵艦船手前500メートルで舵を固定し、搭乗者は、艇外の海中に飛び出し、艇だけが敵艦隊に体当たりして爆発する仕組みになっているが、敵の発見が早ければ、艇もろともに撃沈する恐れが大いにある。


 翌日より、敵艦船に突っ込みする特訓が始まった。遂に念願の原爆被害者の仇を取ることが出来る。500メートル手前で艇外に脱出しても、帰還の望みは先ずない。敵艦船のど真ん中に艇諸共に突っ込めば、私一人で見事に撃沈させることが出来る。最早決死の覚悟は出来ていた。

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  ふと部下から起こされた。もう夜は明けていた。朝の5時半である。直ぐに火葬場を見る。あの赤くて燃えていた火は消えて、白い煙が静かに立ち登っている。場所を替えて、次の火葬の準備を部下に命じる。


 まてよ、防空壕の中で一緒に寝ていた被爆者の方達の様子はどうなっているのだろうか?皆横になってまだ寝ている様である。中に様子がおかしい方がいる。さてはと、一人一人の肩を揺さ振ってみる。4人程、反応がない。瞼を開けて目の玉を見る。瞳孔は開き切り、4人共、死んでいる。これ以上死なせたくない。1人でも助けたい。


 直ちに救助隊に伝令を飛ばす。昨夜、お互いに話をしたばかりなのに、火葬をするのが4人、突然に増して来た。可哀相に、又、涙が出て来た。


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  ふと見て驚いた。私達が火葬をしている火に向かって、さながら幽霊でも集まって来る様子で、水を求めて重傷の被害者が来た。今にも死にそうで、非常に弱っていて、衣類もボロボロになっている。この様子を見て、私は止む得ず、軍令を破ったのである。水を飲ませ、余った食事を与えた。昼間の疲れが襲ってきて、防空壕の中で睡眠を取ることにしたが、その被爆者の方達は、誰一人として立ち去ろうとしない。私達兵隊の側から離れようともしない。それで、一緒に、防空壕の中で寝ることにした。


 「私達は、兵隊さんの所に来たので安心しました。ひょっとして死んだら、あの様に火葬にされるのでしょうか?」 ハッとして、私はどう返事をしていいのかわからない。

 
 「大丈夫ですよ、日本は絶対に負けません!いつ戦死してもいいです。勝つ為に、自分達軍人は、国の為皆さんの為に一生懸命に、死ぬまで軍務に尽くします。」この返事しかなかった。被爆者の方達、疲れ切っている部下達、いつの間にか深い眠りに入る。

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 一刻も早くと焦る感じで、軍令による火葬の行動に入る。近辺より柱・板切れ、燃える物は何でも集め、その上に死体をどんどん並べる。その上に燃え易い木切れを量ね、又その上に持参した石油を振り掛ける。被爆者の皆さん、静かに眠ってくれ。


 くそったれ、一番悪いのは戦争であり、新型爆弾一発である。再び人間として生あれば、絶対に敵の国と作って戦争をしてはいけない。そして、この恐ろしき新型爆弾を使用してはいけない。


 火葬の火は、轟々(ごうごう)と燃え盛り、死体の皆様は、じりじりと焼けて行く。しかも鰯(いわし)を焼き炙(あぶ)る臭いがぷんぷんと鼻をつく。夕食は、握り飯に沢庵と水だけである。死体を焼く前で食事をするのもなかなかである。水で流し込むだけである。夕日は沈み、電灯一つない真っ暗な夜に入る。私達が火葬をしている火は、どんどん燃え続く。真っ暗な周辺を見ると、あちことと真っ赤な火が燃えている。遥か彼方にも、燃えている。何百何千の被爆者の死体が焼かれ、火葬にされている。

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