医療の現場では、医師には、病んだ患者さんの前で、高度なコミュニケーション力が求められる。それって、演技力ってことも含まれるかな?小児科では、母親が、医師の顔の表情を食い入るように見ていることが多い感じだ。
熱で来て、「何も検査しなくて、それも初めから風邪かどうか分からないです。考えらえる疾患としては、・・・」何て言われて、川崎病や髄膜炎などの沢山の病名を並べられたりしたら、患者さんからいっぺんい疎まれてしまうだろう。
例えば、暑い夏休みに、小学3年生の男の子が、その日の朝から発熱し、頭痛が主訴で来院し、無菌性髄膜炎の疑いで外来に来院した場合。
医師:入院をして、腰椎穿刺をして治しましょう。髄液の圧が高いのでこんなに頭が痛いのです。吐くのもそのせいです。外来でこのままにしておくと、大変なことになるかも知れません(親の目を難しい顔をして見ながら言う)。
母親:大丈夫でしょうか(医師の髄膜炎と言う言葉を聞いてとても不安になる)?
医師:外来で出来る場合もありますが、帰っても、夜に又来る可能性があります。入院せずに、じっと家で絶対安静の感じでして外来で出来る場合もありますが(母親の目を難しい顔をして見つめる。母親は、子どもにどうする?と尋ねているが、子どもは当然、入院したくないと言っている)。
母親:(父親に連絡取れなく、どうした方がいいのか迷っている様子で)入院をした方がいいんでしょうか?
医師:はい(難しい顔をしながら)。
母親:(何かのことがあったら自分の責任になるかも知れないって感じで、割り切れないままに)入院お願いします。
ナース:ではこの用紙に、承諾書をお願いします(それには、医療行為に対して、異議を申し上げませんと書かれているが)。
母親:(記入を始めるが、気になって)どうしても入院しないといけない訳ではないんですね?
医師:はい。しかし、それで症状が悪くなって危険な状態になる可能性があります(尚更、難しい顔をして母親を見つめる)。
母親:(自分に納得出来たかのように感じて)そうですよね。
医師:(眼底を見て点滴後に)腰椎穿刺を今からしますが、後で頭がしばらく痛くなったり、刺した所がしばらく痛くなることもあります(厳しい顔付きではっきりと言う)。
母親:大丈夫でしょうか? スゴク痛いんでしょうか?
医師:気を付けてしますが、神様ではありませんから、後で思った以上に痛がることもあります(厳しい顔付き)。
母親:(不安になるも、少し覚悟をしながらも、ここで了解しなければ、先に進めないので)お願いします。
医師:局部麻酔をしますが、これで悪くなることもあります。
母親:(不安一杯で)分かりました。何かの時は、直ぐに対応できますね。
医師:はい。めったにそんなことありませんから。
母親:(もう、こうなったら、この医師を信じるしかないって感じで)先生、お願いします。
・・・で、無事に腰椎穿刺も終わり、診断も無菌性髄膜炎とはっきりして、頭痛もたいしたことなく、1週間以内に退院。
これで、どこにも手落ちはなく、裁判になっても負けない感じになっている。しかし、こんな感じでは、患者側と医療側の間には、心通ったいい医療は存在しない感じに思える(過去の自分は、いつもこんな感じだったかなあ・・・深く反省)。
以下は、私なりの今の対応の仕方・・・。
医師:髄膜炎って、3つの大きな症状があります。こんな感じで急に来て、普段の頭の痛がりと違って痛くて、熱も高くて、吐けば、まず、ウイルスによる髄膜炎と思います。3つ共揃っていますから。ウイルスでの初期では、足や頭をこんな感じで前に曲げても、少ししか痛がらないことも、多いんですよ。まだ、軽いって感じです。じっと絶対安静にしていれば、外来で治療できること多いんで、一応、今から、点滴して、注腸して、様子をしばらく診て、それで上手く行けば、家で飲み薬を飲んで、明日の朝、又、来て下さい。今日帰って、症状が強くなれば、電話して、出来れば、20時までに入院覚悟で外来に来て下さい。どうしてもの時は、深夜でも診ますが、出来れば、今日中に来て下さい(親の目を見ながら、普通の顔で、自信たっぷりに説明する)。
母親:大丈夫でしょうか?(来た時よりも、安心した顔になっている)
医師:(少し笑顔を見せる感じで、自信を持って言う)入院して治療する方法もありますが、軽い時は、外来でもけっこう出来るんですよ。検査出たら、又、説明します(母親、何かの時は、入院すればいいのだと思ってか、医師の言葉を信じる)。
(点滴や注腸をしなくても、絶対安静だけで軽快する場合もあるかな)・・・1号を200ml点滴し、(葛根湯と五苓散を)注腸し(高熱で手足が熱くて顔色が真っ赤な時は、葛根湯+黄連解毒湯の注腸)、血液の検査で、CRPと白血球が高くないことを確認して、葛根湯(のみのこともあり)を処方して帰宅させるケースが私の場合、多いかと思うが。
で、翌日の午前中に、来院。髄膜刺激症状も取れて、元気なっていることが多い・・・かな?!
医師:(こんな時には患者と一緒になって大げさに喜ぶことにしている、満身の笑みで、・・・何故なら、患者さんにも医者の治って嬉しい気持ちも理解してもらいたいから)良かったじゃない、僕、ちゃんと先生の言いように家でじっとおりこうさんにしていたからだねえ。
母親:(ニコニコして)先生、入院しなくて、ホントに良かったです。助かりました。ありがとうございました。
医療は、ケースバイケースで、絶対と言うことは少ないと思う。知識や技術も確かに必要であるが、それ以上に、患者さん側へのコミュニケーション力も必要と思われる。そんな能力は、その医師自身の多くのいろんな経験から生まれたモノで、それによる自信から得られたものが大きいと思う。医療側と患者側が対立関係にあれば、いい医療は出来ない。いい医療をしようとの共通の目標があることをお互いに自覚する必要がある。時には、一生懸命にしても、上手く行かないこともある。そんな時、追い打ちを掛ける感じで患者側が医師に詰め寄ると、医師は
自信をなくし、お互いに不幸な思いになってしまうと思う。今の医療で、不安だから抗生物質、何かあったら大変だから帝王切開、訴訟を恐れて過剰検査、そんなことが少なからずされていないと、誰が言えるだろうか。
医師には、知識や技術、それに、ペーパー試験では測れないコミニュケーション能力、それに、患者を安心させる「演技力」も必要な気がしている。
*患者さん側が医師を見た時に、その時の印象も、コミュニケーションを取る上では非常に大切なこと。以下は、一緒に仕事をしていた先生(私立の医科大学卒の先生で、若いのに頭の髪がとても薄くて、ふけてみえる・・・失礼)の内容。
「イヤー、まだ、研修2年目で、大学でオタオタしている時なのに、同期の研修医が診て、親とトラブって困っていて、ちょうどその時に院内にいた僕に一緒に診てと言われて行ったら、(同期生の研修医のすることが頼りないって感じで憤っていたらしい)父親の顔色が自分を見ると急変して、直立した感じになってしきりに頭をペコペコ下げられて、忙しいのにすみません何て言われて、(自分が同期であるとはとても言えずに)、同期生のしていることでいいと言って、親が納得してくれて、上手くいったことがあって、自分でもその時ビックリした・・・」と。
アメリカの医師(アメリカでは、大学卒業後に医学部に進学する)には、いろんな経歴の人がいて、元ラグビーの選手って人もいるとか。いろんな患者さんを目の前にして、日本の医師にも、受験勉強だけでなく、それまでのいろんな体験が大切だと思いますが。東国原知事の場合、無駄と思えた漫才生活が確実に生きていますね。イヤー、医療は正にアートかな。
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非常事態にあった時、慌てていると、相手に伝わらなくて命を落とすことになりかねない。
例えば、洪水で車から出られなくなって危なくなった時、携帯があれば、119番に誰しも電話をするだろう。
すると、向こうから、火災ですか急病ですかなどと尋ねてくるはず。又、今、どんな状況下にあるのかを尋ねてくるだろう。
そして、場所聞かれるはずだが、向こうの立場にあれば、出来るだけ分かり易く場所の説明をして欲しいはず。しかし、こちらとしては、それよりも、早く来て欲しい状態になっているので、そちらの方が優先する感じになる。そんな時にも、冷静になって、分かり易く、場所を説明する様に心掛けることが大切だ。大きな目印を言って、正確に相手に伝える様に努めることだ。
そして、最後に、名前と携帯の電話番号を言うことになるだろう。電話も切らずにそのままで応答して行くことが大切なことも多いだろう。
しかし、慌てていると、そこまで気が付かないこともあり、つい、直ぐに電話を切ってしまうかも知れない。
孫が発熱すると、子どもさんを抱えて直ぐに病院に来るおじいちゃんやおばあちゃんがいる。人生経験豊かなはずだが、里帰りで、慌てているのだろうか、どうしても朝まで待てないと言った感じで、連れてくるケースが多々ある。
電話では、スゴクひどく感じられたのに、来てみると、ニコニコしてたいしたことのないこと、結構多い。
どんな時にも、冷静になって他人に正確に伝えること、難しいかなあ?!
*以下、インターネットより抜粋
携帯電話からの119は、現在のところ代表の消防本部が一括して受信し、各消防本部へ転送する仕組みになっているため、通報地点(発信地)を特定することができません。また、わずかですが転送のための時間が余分にかかってしまうことがあります。
そこで携帯電話でかける時は、最初に携帯電話であることを告げる。通報地点を管轄しない消防本部に通報がつながった場合、転送のための空白があっても、通話を切らずに待つ。通報者が移動すると場所がわからなくなるので、現場を離れない。途中で切れないように立ち止まって話す。通話終了後もしばらくは電源を切らないなどの注意が必要です。
一般電話の場合
1、局番なしで119へ電話を。
2、「火事ですか、救急ですか」と応答があります。はっきりと「救急」と告げます。
3、いつ、どこで、だれ(とだれ)が、どうしたか、どんな状態なのかをはっきりと簡潔に伝えます。
4、名前、住所、電話番号を正確に知らせます。近所の目標物も教えます。
5、救急車が来るまでの救命手当の方法をたずねます。
6、サイレンが聞こえたら誘導に出ます。夜なら懐中電灯で救急車を誘導します。家族がいなければ近所の人に頼みます。
7、救急車が着いたら、救急隊員に状況をくわしく伝えます。
どんな容体か(通報後の変化も)、病人にほどこした手当、持病があれば病名、かかりつけの医師の名前
8、事情のわかった人が救急車に同乗し、また持っていくものをまとめておきます。
保険証、財布、簡単な着がえなど 、血を吐いたりしたならビニール袋に入れておく
*車の中にていて、急に洪水にあって身動きが取れなくなって、車の中の水かさが増して行く時、どうしたらいいか?・・・→周りの圧が高いので、ドアが開かないことが多い。エンジンが重たいので、後部が浮く感じになっている。で、後ろに行って、ハンマーで後ろの窓を開けて脱出するべし!と言うことは、非常時に備えて、ハンマーを用意するべきかな。
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アフガニスタン東部で武装グループに拉致されていたNPO(非政府組織)「ペシャワール会」のスタッフ、伊藤和也さん(31)が遺体で発見された。
マスコミ各社でいろんな意見がされ、政府も、それなりに述べている。
が、見方を少し変えて、向こうの立場で考えてみた。
そこでの向こうの闘士にとっては、毎日が、緊張の連続で、まともな仕事なんてない。いつ、アメリカの攻撃に会うかも知れない。そこでのある闘士が言っていた、「お金で仕事を請け負う。相手はどこかは関係ない。それで家族を食わせないといけないから・・・」と。闘いのない平和が続けば、職がなくなって、食っていけないのだ。
初めはそれなりのイデオロギーがあったのだろうが、生活が苦しくなると、そうも言ってはおれない。極端な言い方をすれば、銃を持って、ある組織に先導されての人殺しが仕事って感じになっているのだ。
この現実をしっかりと見つめる必要があると思う。
(今回、伊藤氏を襲ったのは、純粋なタリバンではない様だが・・・)
やはり、多くの人は、どこの国でも、優先順位は、最低限の経済的な生活の保証だと思う。アフガニスタンの様な荒れ地では、タイや海辺の南国の様な豊富な食べ物の確保は、困難だ。その必要性を伊藤和也氏は、若くしてちゃんと納得していて、自分が出来ることを考えて、それをちゃんと実践していたのだ。素晴らしい青年だと思う。
タリバン側から攻撃を受けても、中村哲氏は、反撃を周りに決して強制しない。初めは、周囲の反発をかっていたが、中村氏と行動を一緒にしていた現地のアフガニスタン人も、中村氏の考え方が正しいとその後、気が付いている。今回も、中村氏は、アフガニスタンの人達やタリバン側を批判的に言うことをしてない。彼は、本質を見抜いていると思う。
元はと言えば、大国のエゴが、アフガニスタンの多くの人民を苦しめてきている(アフガニスタンだけでなく、アフリカや今回のグルジアの問題でも同じだ)。初めは、アメリカは、敵国ソ連を打つ為に、アフガニスタンに武器を送り、多くのタリバンにも、その様にした。つまり、タリバンは、アメリカ側に付いていたのだが。その後、ソ連が崩壊し、アフガニスタン内部で、抗争が生じた。そして、アメリカに対する反感が強くなった。それもアメリカは、力で抑えようとした。多くの命がそこで失われていった(今も、イラクでも、似た感じでで行われているが)。しかし、太陽と北風の関係と一緒で、力で一時的に抑えても、根本的な自体は何ら変わっていないのだ。
日本は、中東の国々の間では、とてもいい関係にあるケースが多い。アメリカに対しては反感を持っている国々の人も、日本に対しては、(韓国や中国など例外はあるものの)いいのだ。韓国と中国とは、政府間で問題があっても、私の様に個人的に仲良く付き合っているケースは、多い。
日本政府は、もっとアメリカに言うべきことを言って、平和外交をもっと積極的に勧めるべきだ。
今のアフガニスタンでは、再びタリバンの力が強くなっているようだが・・・。草の根外交が最も近道の気がしているが、そのバックには、やはり強い政府の後押しが必要だと思う。直ぐに力でねじ伏せるのではなく、やはり、それなりに時間が掛かるのだ。
政府が世界の情勢をちゃんと判断しなくて、今の官僚の様に場当たり的にことを澄ませてしまおうとすると、益々おかしくなってしまう・・・?!
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日本人が1年間に消化する有給休暇は、何と平均で8日でしかない。
調査した国(フランス35日、スペイン27日、イタリア27日、ドイツ25日、オランダとオーストリア24日、英国23日、米国13日)の中で最低!(エクスペディアの調べ)
有給休暇をすべて消化しているのはドイツが最も多く81%、次いでフランス80%、英国77%、スペイン76%、米国69%、オーストリア59%、イタリア53%、オランダ51%となり、日本は、はるかにはるかに下がって、わずか13%!
日本人は、どうも、休むことを悪いことをしているって感じに思っている人が多いのでは?
私の考えでは、休むとそれでエネルギーが充電できるので、仕事にも張りが出て、会社も、それなりにメリットがあると思うのだが。
給料が上げられなければ、その代わりに、普段の仕事を平日に切り詰めて、多くの職員に有給休暇を完全に消化させるようにしたらいいと思う。普通は、20日間に、年末と年始の休み、それに盆休みがあるので、土日祝を入れれば、まとまった長期休暇が結構もらえるはず。
しかし、現実は、取れていない。ナーゼーカー、ナシカ、どうして・・・?!
有給休暇を消化できない理由として、「仕事が忙しく、休暇を取っている暇がない」、「もしもの病気や急用などの為に、休暇を残しておきたいから」、「上司や同僚があまり休暇を取っていないので、取りずらい雰囲気だから」、「上司や同僚が休暇を取ることを快く思っていないように感じる」などがある。
*インターネットによる調査で、20~59歳までの男女有職者(自営業、公務員含む)516人が回答した。調査時期は2008年7月~8月。
その解決策として、まず、経営者や上司がもっと有給休暇を取ることを職員に奨励することだ!!と思う。次に、各個人が積極的に取ろうと会社に働きかけることだ!と思う。又、その間、(会社が積極的になって)他の人との組み合わせを変えるとか、それなりに工夫をすることだと思う。
*医師採用の時の項目に、有給休暇などの休みがちゃんと明記されているのに、何でこれがちゃんと守られていないのかなあ。そして、何で、病院のドクター等がそれに付いての苦情を言わないのかなあ。(ここらで、意識をはっきりと変える必要があるのでは・・・?!、そうでなくても、医師不足の折、命を扱っている関係で、時間外も拘束されて、ボランティアで働く感じになっているのだから)
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オリンピックが終わった。大きな課題を残したオリンピックだった。 個人が国の威信を背負って闘うって感じにも思えてならなかった。 「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」が、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)であったはず。
そこでは、国との凄まじい闘いがあってはいけないはず。ましてや、政治に使われては、何の為のオリンピックか分からなくなる。厳戒体制で聖火が運ばれたり、オリンピック期間中にも、グルジアで戦争があったりしている。中国国内でも、チベット自治区やウイグル自治区で暴動があっていた。そして、中国政府の約束に反した報道の規制。
相手を失敗すると大拍手、それは、礼儀を欠いている。ヤジを飛ばすのも、礼儀を欠いている。いいプレーをしたら、自国の選手でなくても、拍手を送るべきだ。
男子野球の決勝戦のキューバと韓国戦、韓国に是が非でも勝って欲しかった。勝ってホントに嬉しかった。自分が韓国に今まで4回も行っているし、韓国の人に大変お世話になったからかなあ。彼らが喜ぶ姿が目に浮かんだ。
日本の面積の3分の1しかないバングラデシュでは、人口は、日本よりも多い。しかし、メダルは0。そんなバングラデシュが欧米と闘っていたら、私は、バングラデシュを応援するだろう。
男子マラソン優勝者のワンジル選手のインタビューの初めの言葉が、日本語で、「ありがとうございます」だった。そして、最終日の閉会式での表彰台の上に上がって、日本式に礼をした。何か、最後に、そこに、オリンピックのあるべき姿をやっとはっきりと見た思いだった。
中国の多くの人は、国際的な試合で応援の仕方など、慣れていなかったのだと思う。これを契機に、少なからず学んでくれたと思う。
かなり前の話だが、(義理の姉から聞いた話だが)・・・いやいやながら、家族の説得で、中学2年生の姪がアメリカに行った。英語が分からなく、「帰りたい!」「帰りたい!」としばらく言っていた。しかし、次第に慣れ、英語も上手になり、1年経つと、今度は逆に、「日本に帰りたくない、自分だけもう1年間だけでもここにいたい!」と言い出した。しかし、一緒に家族で日本に帰ってきたが。
行ったカリフォルニア州のロスアンゼルスでは、日本と全く別の価値観だったと言う。「出来ることは?」としばしば尋ねられたそうだ。そんな時、「何も出来ない」と言って逃げていたが、ある時、「ちょっとだけピアノが」と言ったら、ピアノを弾くように言われた。彼女は、ピアノが超上手だが、日本では、自分が上手だとは言えない。彼女の演奏を聞いた友達は、その素晴らしさに驚き(アメリカ人は、演奏することを喜び、人と争って極め尽くそうとする人は、余りいないらしい?!)、クラスの羨望の的となった。又、数学の点数で100点を取ると、それを男子友達がひょっと取り上げて、恥ずかしがる姪を無視してクラスの皆に見せ回っていたとか。
今回のオリンピックを見ても、そんな感じだ。女子ソフトのアメリカの監督も、潔く日本の素晴らしさを認め、北島が優勝した時にも、多くの競争相手が北島を讃えていた。
何が何でも勝て、勝たなければいけないといった感じでマスコミが騒ぎ過ぎると思う。北島は、そのプレッシャーにも打ち勝った。しかし、彼はそのきつさを知っている。今までの苦しいスゴイプレッシャーを考えると、ロンドンでは、もう挑戦しないのではと思う。王者は、勝って元々なのだ。勝たなければ、犯罪者の様に扱われるのだ。北島が子ども達に水泳を教えている姿、あれが、彼には一番合っていると思ったのは、自分だけだろうか。
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ジャマイカの選手がオリンピックでなぜあれ程の成績を出せるのか。人口270万人。大阪市の人口ほどでしかない。国民総所得は日本の1割にも達しない。人口あたりの犯罪率は、日本の60倍、オリンピックでの400m障害で金メダルと取ったジャマイカのウォーカー選手が、金メダル獲得後に、「ジャマイカ(国民)に犯罪を止めるよう」と訴えていた。
貧しさゆえ、国籍を他に移して活躍しているオリンピック選手もいる。ボルト選手自身が、かっては、履く靴も買えずに裸足でよく競技場に出ていたとマスコミに告白している。女子100m金のフレーザー選手も、ジュニアの全国大会で裸足で走っている。
各個人のハングリー精神と政府の異常な力の入れ方で、この偉業が為されていると思われるが、その裏の姿を多くの人が知るべきだ。
それ等の偉業の結果が多くの国民の大いなる自信となって、いい方向に向かってくれればいいなあと思う。
ところで、ある日本選手の話で・・・メダルを取った人は、帰る時はファーストクラスで、日本に飛行場で着いた時には、先頭に立ってタラップを降りて皆の前に顔を出し、インタビューがある。メダルのない人は、(種目にもよるだろうが)エコノミークラスで、着いたら直ぐに、冷たく「はい、ここで解散です」と言われて終わりとのこと。正に、天国と地獄って感じだったとのこと。
4年間もスゴイプレッシャーの元でメダルを取っても、水泳などは、金300万、銀200万、銅100万とのこと。就職活動を犠牲にして銀を取っていたフェンシングの人もいたが、もっと優秀な選手をそれなりに大切に扱ってあげてもいいんじゃないのかなあ。
マスコミが余りにも過剰報道過ぎて、負ければ、周りから犯罪者の様に言われると愚痴をこぼしていた選手もいたなあ・・・?!
*日本の野球チーム、韓国戦で負けた時に全員丸坊主になって帰って来いなんて内容の投稿があるサイトでありましたが、それは言い過ぎだと思います。人間のすることです。勝ちますと言っても勝てないことがあるのは、当たり前です。医療と同じです。予期せぬことが起きるのです。最後のボールを韓国の選手が掴んで、うずくまった姿、印象的でした。女子ソフトボールでのアメリカの監督も、日本のチームを絶賛してくれました。勝つことばかりにこだわり過ぎている。負けても一生懸命にしてきた選手を讃え、又、相手の健闘も讃えること、日本人、少し忘れているのではないかと思いますが・・・?!
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学校での成績でいい点を目指すなら(あまり意味ないかな、点取りり虫って感じの人間になってもらっても困りますけど・・・)、以下が私なりのコメントです(何かの参考になれば幸いです)。
・国語・・・小学校で一番大切なのは、国語。国語の力は、小学校でほぼ決まっているかな。国語の本当の力は、読書力。小さい時から読書することが好きな子どもは、確かに、国語力(現代文)ありますね。古文・漢文は、それなり又勉強しないといけないが、その基礎は、現代文。
・英語・・・英語は、結局は、国語と同じ。つまり、国語の読解力があるかないかが、英語の読解力があるかないかになる。入試では、長い文章が速読出来ることが勝負の分かれ目となる。英会話は、又、別の次元で(右脳を鍛えるべきかな)、日本人に囲まれながら、日本で英会話を勉強するのは、極めて非能率かな。
・数学・・・基礎からの積み重ね。教科書を徹底的にすることから始まる。しかし、残念なことに、今の入試問題は、如何に速く解くかの能力になっている。同じ様な問題を解いていないと、まず、解けない。受験の数学では、側頭葉がより鍛えられ、前頭葉はあまり鍛えられていない感じだ。本当の数学的な頭が入試で試されていない。困ったことだが。
・理科&社会・・・分からないことに興味を持って、それを自分なりに調べて、極めようとする姿勢が大切だが、受験校では、時間が足りないし、それをさせてもらえる学校は、極めて少ないかな。その気になって楽しく覚える気になれば、出来るはず。
その教科が出来ることと(いい点数が取れていることと)、それをよく理解していることとは違うと思う。又、それに非常に興味があるかどうかとなると、もっと別の次元の問題になりそうな気がしている。
受験では、必ず答えがあるが、実社会では答えが何なのか、誰も分からないことが多い。又、受験の為にいやいやながら覚えたことは、受験後、忘れていますね(無意識的に、忘れようとしている感じもしますが)。
受験となると、関係ないものは出来るだけしまいとし、ホントに、頭がおかしくなる感じがしていますが。そんなこと、長くすべきではないと思います。ホント。
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ひとそれぞれの生き方があって当然だと思う。
赤塚不二夫の生き方も、個性的だったなあ。「手術するとしばらく仕事が出来ないんで、それ、僕には出来ないんですヨ」って感じで言われ、禁じられている酒を飲みながら記者会見していた。自分のしたいことを貫き通して生きてこられた人、考えるに、本人はそれで幸せだったのではないかと思う。人間いつかは死ぬ訳だし、それに、彼の場合は、後世へ偉大な作品を残せているし。
戦前の人に多いのだが(団塊の世代の人にもいるが)、いわゆる仕事人で、最後まで上のポストを他人に譲ることが出来なくて仕事をしている人がいる。それはそれでいいとは思うが、他の人が育たないこともあるし、突如、本人が不幸なことになった場合のことも考えておくべきじゃないのかなあ。
一番大切なことは、寛容になることで、自分がその生き方だから、他人もそうであるべきたと主張すると、それは周りとちと問題になるかな。
人それぞれの生き方がある。生きている内にいろんな世界を経験したいと思っている人もいれば、もう、いろんな煩わしいことにチャレンジしたくないって人も当然いる訳で、どちらがいいとか悪いとかの問題ではないと思う。仕事が好きでしょうがない人は、仕事に打ち込めばいい。趣味が主体で仕事が従と思って楽しく過ごせている人は、それはそれで、(他人に大きな迷惑を掛けてなければ)素晴らしい生き方だと思う。
今は、人生80年だ。体力とやる気を維持して行くことが大切で、時には、ゆったりと休んで充電することが必要だと思う。いやな思いをしながら最初に走り過ぎると、体もやる気もその内になくなるんじゃないのかなあ(楽しんでしていれば、そんなことはないだろうが)。昔は確かに、高学歴であれば高収入が約束され、年功序列で終身雇用って感じで、サラリーマンに憧れる人が多かったが、今は、会社に忠誠心を尽くしても突如リストラされる時代で、家族を大切にした方がいいみたいだなあ(当たり前か!)。
この暑い夏休みも、小学生から塾通いで一生懸命に勉強している人もいるが、それ、確かに間違っていますネ。試験なんて、車の免許みたいなもので、その時につじつまが合えばいい。それを、ずーっとその為にしているなんて、それも、何年間もしているなんて失うモノが多過ぎますヨ。世の中、いろんな人がいる訳だし、いろんな人とやっていかないと行けない訳だし、失敗も大きな目で見て上げることの方が大切だと思うけどなあ。
高学歴で官僚になっても、世間の目は厳しく、当の本人もこんなはずでなかったって感じで苦しんでいるのが現状ではないのかなあ?!
大学の教授にしても、昔は、皆の羨望の的って感じだったが、今は、退職後の就職先で悩んでいる教授も時にいるとかいないとか。
医師の免許を持っているのに、一生懸命に研究に打ち込んでいる人もいるけど、医師不足の折、その体力を生かして救急医療などに専念した方がいいと思うのだが、いらんお世話かなあ。それだと、医学部でなく、研究一途の理学部などに行くべきじゃなかったのかなあ。もちろん、山中先生の様に、臨床でアイデアを見つけて、研究して多くの人を救える様な素晴らしい業績を上げている人が時にいて、驚かされることもあるけど。
女性が医師や教師などの専門職の仕事人になると、それなりにいろんなハンディーがあるが、それは、前から予想されていることだ。それを覚悟で、女性は職業を選ぶべきで、もちろん、出産後の環境も周囲が整えて上げることも大切なことだが。しかし、多くの職場で非人間的に酷使されている男性の勤務状況も、早急に改善されるべきじゃないのかなあ。
自分の机の隣りと斜め前には、自治医大出身の女性の医師がいる。その内科の先生(独身)も、その産婦人科の先生(独身)も、実に一生懸命にモクモクと仕事一途って感じで、働かれている。しかし、この熊本県、全国一、自治医大卒の勤務年限後の県内勤務率が、全国最低なのだ。
経験して分かることも多い。経験しないと分からないことも多い。医師の世界では、考え方を余儀なく変更せざるを得ないことも多い。
しかし、変更して生きること、それも人生で、それなりに意義深いと思えば、逞しく生きて行けるかな。
自分の場合は、今からも、いろんな未知の世界へ飛び込んで、いろんなことを経験して、残り(今までの3分の1しかない?)余生を送りたいと思っている。
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(今は、最下位だが何故か人気のある)楽天の野村監督が、先日民放のテレビで、次の様に言っていた。
(今は怖い感じのサッチヤーなる)野村沙知世と付き合っていた時に、「仕事を取るのか、(今の女房と別れて)女を取るのか、どっちかはっきりしろ!」と監督から言われた時に、「女を取ります!」とキッパリと言って、南海を首になったとのこと。で、野村氏は、当時の状況を、「仕事はしばらくすれば別にある。女は、沙知世の代えはない。一人しかいないからね・・・」と言われた(そう言われた時に、周りから大拍手が起きていたが)。
中日の落合監督も同じ感じかなあ。相撲の先代(大関)貴ノ花も、周りから、「その女と結婚するなら、相撲を捨てろ!」とまで周りから強く言われていた。それでも、その女性(今の貴ノ花の母親)と結婚して、(既に故人となってしまわれたが)運良く大関の位置で長く相撲を続けられていたが。大分県出身の千代大海にしても、朝青龍や白鵬の様に早々と結婚していたら、横綱になっていたかも知れないのだが。
イチローが、結婚相手がいることのメリットをかって松井に力説していた(松井も、目出度く結婚されたが)。「いろんな思いや悩んだ時、自分以外に気軽に相談できて一緒に考えてくれるパートナーがいると言うこと、これは生きる上でとても強い味方となる」と。朝は、奥さんの作るカレーを美味しくいつも食べているみたいだが。
結婚なんて、お互いに似たもの同士だと思う。相手の悪口を言っている人を時に見かけるが、そんな相手を選んだのは正真正銘自分だし、自分の愚かさを証明している様なものだ。一番大切にするべき人の悪口を言うことの愚かさに気が付くべきである。
結婚したからには、それに合わせるしかない。どうしても合わすことが出来なければ、別れるしかない。しかし、別れるエネルギーが本当にあれば、結婚を維持できるエネルギーもあるはず。又、別れて、経済的に困ってしまって、トコトン苦労している人も現実にいる。
まあ、価値観が合わないといけないが、性格は、違っていた方がいいみたいだ。共に神経質、ともに攻撃的だと、終始が付かない感じになるかな。
人間って、なかなか本質は、変わらないけど、それでも努力していけば、少しずつでも変わって行けると思う。
男も、一人で自活できる様になっておくべきだと思う。それに、奥さんの話をゆっくりよく頷きながら聴いて上げることも大切かな(今までそれをしてきてないと、少し苦痛になるかな?)。
女性は、喋ることでかなりのストレス解消になるみたいですね。家内から、時々チェックを受けます。「私の言ったこと、ちゃんと聞いてた、じゃ、質問するからね・・・」何て、言われることあります。だいたい答えると、「ちょっと違うけど、(聞いてない振りして結構聞いてくれてるんだと納得できたのか、少し満足そうな顔になって)まあ、いいか」何て言われます。渡辺喜美氏は、家に帰ると、奥さんから(「涙なんか流して、あれ何、みっともない!」などと)小言を言われることが、自分のストレス解消になっていると、ある民放テレビでニコニコしながら話されていましたが。

*下の写真は、長崎の原爆投下近くにある浦上天主堂。
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人間と言うのは、実に不可解な動物である。 アレキシル・カレル(1873年生、ノーベル生理学賞・医学賞受賞)の著書「人間この未知なるもの」の中の最後の人間復興の条件の部分で、彼は次の様に述べている。
人間は、自分自身を改新しなければならない。しかも、それは、苦しまずには改新できない。と言うのは、人間は、大理石であると共に彫刻家でもあるからだ。その真実の姿を現す為には、自分自身と言う素材を、自分の思いハンマーを振るって粉砕しなけらばならない。
必要に駆られない限り、とてもそんな療法は甘受出来ないだろう。科学技術のもたらした安楽さ、美しさ、素晴らしい機械に取り囲まれている間は、どんなにこの手術が緊急を要するものかは、理解できない。自分たちが退化しつつあると言うことが認識出来ない。
ガリレオは、たやすく測定出来る大きさや重さといった第一次的性質と、測定できないもの形、色、匂いのような第二次的性質を区別した。量的なものは、数式で表され、人間に科学をもたらした。質的なものは、顧みられなかった。この誤りが重大な結果を引き起こした。人間には、測定出来るものよりも、測定できないものの方が重要なのである。
http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/2008-6-5-gakudoutosyokujyu.html
平成20年6月5日に、病院の隣の老人施設で、子ども達と施設の人達が一緒になって植樹した「ひまわり」が大きくなった。8月5日の夕方に行くと、少し元気なく垂れる感じになっていた。で、翌日の8月6日の早朝に行くと、元気な姿になっている。ひまわりの小さな苗木が、2カ月でこんなに大きくなり、それも、朝と夕方では、ひまわりの向く方向も格好も随分と違っているのだ。人間も、日々変化し、1日の内でもそれなりに変化のリズムを持って生きるべきもの。
自然の変化に一喜一憂しながら生きたいものである。

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