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2007.07.21 11:17 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

続・為になるかも知れない本(中)

 「続・為になるかも知れない本(中)」の最後の336ペ一ジの内容です(下を一部省略)。



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2007.01.03 17:44 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

謹賀新年

   

私が今年出した年賀状です。今年も、宜しくお願い致します。

 

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2006.12.24 07:10 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

日本人への期待

 日本人は、人との和を非常に大切にしている国民である、これを自分の足で、短い期間だったが、1年間、世界のアチコチに行って、納得しました。


 バングラデシュでは、「何故、日本人は、核を二つも落とされているのに、アメリカ人を恨んでいないのか?」と何度も聞かれました。私の娘は、今、アメリカに住んでいるし、私も家内も、アメリカに行った経験があるし、かと言って、東南アジアやヨーロッパはと言われても、やはり、それなりに、好きである。


 隣の韓国は、大好きで、今までに4回行っているし、来年の11月頃に、ソウルに行くつもりでいる。中国も、中国の太極拳(剣)を8年間してきているし、今も、中国の先生から中医学を教わり、中国の素晴らしさを実感している。


 恐らく、日本人の遺伝子には、数万年前に、日本列島が大陸と陸続きの時、人と争うことがいやで逃れて来た日本人の祖先の遺伝子が延々と受け継がれているからだと思う?!


 ヨーロッパ人は、自分の非を認めることを嫌がる。特に、フランスでは?!アメリカ人にしても、自己主張が強い。それは、歴史を見れば、理解できるが、自己主張しないと、自分が潰されてしまうからである?!


 島国の狭い日本では(7割が山)、物理的に相手の心がよく読み取れ、人々の関係が緊密でお互いに信じやすく、又、謙虚で自分よりも相手を引き立てようとすることが美徳とされて来ている。幕末から明治にかけての大混乱な時でも、桜田門外の変から西南戦争までの死者は、わずか45000人。これは、ソ連や中国での革命の時の1000分の1でしかない。


 日本人は、根本的に他者と争うことが嫌いで、又、他者と争うことは(政治の世界を見ても納得できるが)、下手な国民である。奪い合いよりも分かち合い、対立よりも和の方が得意な国民なのである。


 今、私の住んでいる所では、同じ職場の人の中には、家の鍵を1年中、掛けないと言う人が現にいる。初め信じられなかったが、次第にそれが理解出来る様になった。かっての日本では、特に田舎では、家に鍵を掛ける習慣がなく、それどころか、隣の家の台所のどこに塩があるか何があるかなどさえ、お互いに把握していた。


 そうやって、何かの時には、お互いの家を行き来して、助け合って暮らしていた。競争しても、手心を加えた勝ち方をしていて、それなりに弱者や敗者を大事にしていた。


 こうした分かち合い、助け合い、信じ合いの特性は、世界が最も望んでいる今からのリーダーシップ像である。


 今後、日本人が世界の調停役として、政治の面、教育の面、文化の面、いろんな分野を通じて、世界の平和に寄与することが既に運命付けられている様に強く感じられるこの頃である。


 

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2006.11.23 16:18 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 1

命懸けで取り組んだ新生児・未熟児医療

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2006.11.23 12:33 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

天心堂へつぎ病院での院内茶会

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2006.11.23 12:31 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

高木病院での院内茶会

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2006.11.04 16:43 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 2

思い出

 飲みに、S先生と行った。何故、今、大学を出ようと思う様になったのかを言った。・・・人を本当に説得する手段としては、行動しかない。永くいれば、腕が落ちそうにあるし(専門馬鹿になる)、大学人になり切れば、人間的に駄目になりそうな気がする。自分の信じる道に進みたい。


 以上は、自分が大学を去ることを決意し、その事で、S先生と飲みに出た時に書いた内容の一部(昭和54年6月27日)である。


 S先生は、その時、医局長だった。

 「一人で、そんな救急病院に行っても、苦労する。出なけりゃ良かったと後で後悔する。国内留学には、もうすぐ行けるし、出るにしても、論文を書いて、ティーテル(博士号)を取って、そして出れば、いい所があるし、・・・」


 「もう、決めましたので、佐伯に帰ることを」と、私は言った。  ・・・・・


「もう、決めてしまったのか、・・・、そしたら、仕方ないなあ・・・」
 ・・・・・

 この時、「トムの樹」というスナックで飲んで、二人とも、グデングデンに酔って、翌朝、すごく頭が痛かったことを覚えている。

 それから、がむしゃらに西田病院で働き、数年経って、S先生(小児循環器の専門医で、宮医大がオープンする前に、東京女子医大に1年半いて、心エコーを得意とし、宮医大では、先生と一緒に心カテをし、循環器に関しては、私は、非常によく教えて頂いた)は、大学を去り、ある公的な病院の医長となられた(現在は、開業しておられる)。


 宮崎での学会に行くと、いつも、何か自分に言いたそうな素振りを見せていた。大学を去ったS先生には、医局長時代の威圧さはなく、何となく、柔らかくなった感じに思えていた。機会があって、学会の懇親会の後に二次会に行くことになり、S先生の隣に座った(S先生が、意図的に自分の隣に来たが)。


 「田原先生、先生にいつか言おう言おうと思ってきた。あの時、二人で、グデングデンに飲んで酔った時のこと、あんな言い方をしなければ良かったとずっと思ってきた。・・・田原先生が、大人だったよ。あれから自分も大学を去り、やっとよく分かるようになった。医者なんて、臨床が一番大事。患者さんを大切にしてこそ、医者。臨床が出来なくて、何で、医者か。臨床がちゃんと出来て、そして、余力のある人が研究をすればいい。それも、臨床に直接役に立つ研究を。・・・あの時、もっといい言い方をすればよかった。そのことで、ずっと気にしてきた。すまんかった」と、頭を下げて言われた。


 その時、私は、S先生が、とても素晴らしい、人間味溢れる先生に思えてならなかった。


 「いいえ、僕は、何も気にしていませんでした。気になさらないで下さい」と、私は言った。


 学会で会うと、「田原君、まだ頑張ってるなあ。体こわさんように」と、いつも言ってくれる。


 

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2006.11.02 06:50 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 1

私が最も影響を受けた教師

恩師渡辺清一郎先生


 生きる上で今までにいろんな人と出遭い、いろんな影響を受けてきた。その中でも、教師からの影響は、自分にとっては、非常に大きかったと思う。


  既に、故人になられたが、渡辺清一郎先生、この先生ほど、自分に影響力を与えた教師がいただろうか?


  中学校や高校での教師としての誇りの少ない教師の存在に、いささかうんざりとしていた。卒業する時に、受け持たれた高校の教師の勤務評定を自分でこっそりと付けていた。意欲とか、講義の分かりやすさとか、実力とか、生徒の受けとか、そんな項目に分かれて、それぞれが5点満点で、記載され、その最高得点が、この渡辺清一郎先生であった。


  先生は、上野丘高校で活躍しておられたが、家庭の事情で、佐伯に帰って来られた。自分が高校3年生の時に、佐伯鶴城高校に来られ(昭和42年4月~昭和43年3月まで)、幸いに、先生の授業を1年間、みっちりと受けることが出来た。


  先生は、一言で言えば、「個性の固まり」であった。髪は、ボサボサで、1年に2~3回しか、髪を切っていない様であった。


 「時々、手が出るかも知れん。私も、もう、老人だから、追っかけて打つまでの元気は、もうないから、その時は、逃げてくれ」と、初めの授業の時に、言われた。


  又、最後の授業では、「どんな時代になっても、個性を失くすな。個性のある人間になれ!」と言われた。


  先生には、実に、いろんなエピソードがあり、ある時、駆け落ちした生徒がいて、空港まで見送ったそうで、その時、校長が、「何故止めなかったのか、おまえには、全く開いた口がふさがらん」とまで、言われていた。


  先生の目的は、ただ一つ、「生徒の為に」ということだけであった。毎日、宿題のプリントを与え、模範解答を付けて、直ぐに解答して返していた。先生の私的なコメントも、しばしば加えられていた。先生は、朝、3時過ぎに起きて勉強されていた。その年の大学入試の数学の問題を、夏休みが始まる前までに、全て、解かれていた。又、そうしないと、高校の教師は、出来ないとまで言われていた。口先だけの人間を一番いやがる人であった。


  又、先生は、次の様にも言われていた。
  「自分は、いい影響を生徒に与えているかどうか、よく分からない。悪い影響を与えているかも知れん。しかし、何にも影響を与えないでいる教師よりも、何か生徒に影響を与える教師の方がいいと思うから、・・・」と。


  私が何よりも、その先生の生き方に感化されたのは、その溢れんばかりの生徒に対する愛情と行動力である。そして、不動の信念であった。


  先生の次の言葉もしっかりと私は覚えている、「採点間違いではと言ってくる生徒がいる、つまらん生徒になるな。それに輪を掛けて点数を上げるつまらん教師がいる。・・・生きる上で、3つの大きな関門がある。それは、受験と結婚と死ぬ時だ!」と。


先生の生き方に最も影響を受けた人間、それは、他ならぬ自分であったと思う。


 「生徒の為に」、医師になっても、「患児の為に」、この至誠ほど生きる上で、価値ある強い生き方は、他にはないと言う事を、身を持って教えてくれた教師、それが、この渡辺清一郎先生であった。

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2006.10.06 07:07 |  自己紹介  |  masa  | 推薦数 : 0

小児科を選んだ理由

  「どうして、医者になったんですか?」「どうして小児科医を選んだのですか?」と、今まで多くの人から尋ねられました。
 小さい時から、学校の先生か、医者になりたいと思っていました。自分が物心付いた時、既に、父は、小学校の校長でした。

 父は、私には、決して何になれとは、言いませんでした。私は、父には、「学校の先生、しかし、医者でもいいかな、・・・」と、小さい時に言っていた様な記憶があります。

 教員の裏も見てきました。父は、管理職の為、組合からつつかれて、胃潰瘍で苦しんでいました(現役の時、手術で3分の2ほど胃を取りました)。自分に、「校長先生に宜しく・・・」と、いろんな教員からよく言われました。父は、若くして校長になっていました。あちこちで、よく講演をしていました。学校では、すごく立派で、尊敬できる父なのですが、家では、母の方が強い感じでした。又、父も、その様に、私にも言っていました。

 4人兄弟の末っ子の自分は、小学校にまだ上がる前、隣の赤ちゃんを抱いて、すごく喜んでいて、こんな赤ちゃんが自分の所にいたらどんなに楽しいだろうかと思い、隣の人に聞くと、「よかったら、ボンチャンに上げるよ」(私は、ボンチャンと言われていましたが)と言うのです。自分は、母にも、「ホントにホント?」と聞くと、「隣の人がいいと言えばいいよ」と言うのです。それから、牛乳が飲みたくしかたありませんでした。そんな時、母が、「子どもの無い校長先生がいて、子どもを欲しがっている。そこの養子になれば、牛乳が毎日飲める。行くか?」と母が何度も聞くのです。それでも、大きくなったら、親を楽にさせて上げたいと思っていました(家に今でもある当時の日記にも、そうはっきりと書かれています)。

 そんな出来事が数多くあって、”大人は、嘘つき”と言うトラウマから逃れることが出来ない様になりました。殆ど毎日繰り返される母の近所の奥様方との井戸端会議の話をじっと聞かない振りをして聞いていました。その内容、小学校に上がる前の自分は、殆ど理解していたと思います。大人のずる賢こさを、如実に、頭に叩き込まれました。

 大人が嫌いだから、小児科を選んだ、これが正直な理由です。

 人に興味を抱く様になったのは、小さい時からで、生き物も、大好きでした。先生と医者であれば、人に直に接しられるからいいかなと思う様になりました。

 小学校2年生の時に、父の移動と同時に、蒲江小学校(経団連の御手洗会長の郷里)から、西上浦小学校に転校しました。かってその学校の生徒であった人から、ある時、タクシーの運転手さんとして偶然乗り合わせ、「田原校長先生が、廊下が光れば、心も光ると言われました。今でも覚えています」と言われて、父の教育が今でも生きているのだなあと感無量になりました。

 西上浦小学校に通っている時、住んでいた所は、住民が1.000人もいませんでした。1時間近く掛けて、学校までテクテク歩いて通っていました(そこの学校からは、校区としては、一番遠い所でした)。しかし、そこには、お医者さんがいて、スクーターで往診をしていました。その地域では、テレビがある家は、2軒だけで、夜、時々、そのお医者の所に見に行きました。

 ある時、私は、クループになり、息が止まりそうになりました。夜の10時過ぎでしたが、父が私を背負って、ドンドンとそのお医者さんの門を叩くと、そのお医者さんは、寝巻き姿で起きて来て、診察してくれて、注射を打ってくれました。翌朝、嘘の様に、私は、元気になりました。母が、産婦人科の看護師だったこともあり、私は、医学の道に進むことになりました。

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