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2008.08.05 16:21 |  趣味  |  休憩室  |  masa  | 推薦数 : 0

夏祭り

 

 病院の隣の老人施設で、夏祭りがあり、太鼓演奏を頼まれた。で、外来で忙しくて、点滴も3人ほどあり、6カ月の男児の尿路感染症の入院もあったりして、やっと何とか終わって、ギリギリの13:15に行き、直ぐに演奏した。 「月の砂漠」を篠笛で吹き、自分の持ち曲の「飛翔」を(短縮して)5分ばかり大きなバチを持って打ち、最後に、「龍ヶ岳音頭」の盆踊り曲を打った。
 これが自分のしたいことだなあと思って楽しく打った。
 今月は、8月13日~19日の1週間と30日と31日に休みをもらっている(後は、全て仕事)。まあ、患者さんが昔の様に多くないので、楽してるかなあ。

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 ふと見て驚いた。私達が火葬をしている火に向かって、さながら幽霊でも集まって来る様子で、水を求めて重傷の被害者が来た。今にも死にそうで、非常に弱っていて、衣類もボロボロになっている。この様子を見て、私は止む得ず、軍令を破ったのである。水を飲ませ、余った食事を与えた。昼間の疲れが襲ってきて、防空壕の中で睡眠を取ることにしたが、その被爆者の方達は、誰一人として立ち去ろうとしない。私達兵隊の側から離れようともしない。それで、一緒に、防空壕の中で寝ることにした。
 「私達は、兵隊さんの所に来たので安心しました。ひょっとして死んだら、あの様に火葬にされるのでしょうか?」 ハッとして、私はどう返事をしていいのかわからない。
 「大丈夫ですよ、日本は絶対に負けません!いつ戦死してもいいです。勝つ為に、自分達軍人は、国の為皆さんの為に一生懸命に、死ぬまで軍務に尽くします。」この返事しかなかった。被爆者の方達、疲れ切っている部下達、いつの間にか深い眠りに入る。
 ふと部下から起こされた。もう夜は明けていた。朝の5時半である。直ぐに火葬場を見る。あの赤くて燃えていた火は消えて、白い煙が静かに立ち登っている。場所を替えて、次の火葬の準備を部下に命じる。
 まてよ、防空壕の中で一緒に寝ていた被爆者の方達の様子はどうなっているのだろうか?皆横になってまだ寝ている様である。中に様子がおかしい方がいる。さてはと、一人一人の肩を揺さ振ってみる。4人程、反応がない。瞼を開けて目の玉を見る。瞳孔は開き切り、4人共、死んでいる。これ以上死なせたくない。1人でも助けたい。
 直ちに救助隊に伝令を飛ばす。昨夜、お互いに話をしたばかりなのに、火葬をするのが4人、突然に増して来た。可哀相に、又、涙が出て来た。
 10時頃であったろう。本隊に至急に帰隊せよとの伝令が自分に来た。何の要件かわからない。とっさに、負傷している私を休ませようとして、中野隊長殿が気を使われたのであろうか?その事であれば、私はまだ頑張るつもりであるが、命令とあれば、致し方ない。
 浅川兵長に後のことを宜しく頼み、兎に角、伝令と一緒に本隊に帰隊して驚いた。「海田市にある特別隊に編入転属を命ず。」被爆する前から、船舶司令部の名簿の中に私の名前は載っていたのである。
 急いで海田市にある特別隊に赴任する。遂に来た、沖縄決戦の名誉ある特別攻撃隊員である。それも幹部員である。
 船舶司令部の特別な秘密兵器である艇体は、総ベニヤ製にて長さ約6メートル、エンジンは貨物自動車エンジン60馬力、速度15ノット、艇3分の1先は、爆薬がぎっしり詰まり、先端には大きな信管が付いていて、所謂人間爆弾艇で、敵艦船手前500メートルで舵を固定し、搭乗者は、艇外の海中に飛び出し、艇だけが敵艦隊に体当たりして爆発する仕組みになっているが、敵の発見が早ければ、艇もろともに撃沈する恐れが大いにある。
 翌日より、敵艦船に突っ込みする特訓が始まった。遂に念願の原爆被害者の仇を取ることが出来る。500メートル手前で艇外に脱出しても、帰還の望みは先ずない。敵艦船のど真ん中に艇諸共に突っ込めば、私一人で見事に撃沈させることが出来る。最早決死の覚悟は出来ていた。
 いつ出撃なのか待機中である。今、8月15日の午後である。隊本部が急にざわめき出した。待ちに待った出撃出発かと歯を噛みしめて両拳を握った。
 どうも様子が変である。隊員達も頭を傾ける中、隊長が悲愴な顔をして全隊員集合を命じた。
 「・・・・・・、全隊員の諸君、戦争は終わった。ご苦労さんでした。」 
 日本が勝ったのか、休戦になったのか、・・・ああ、日本は負けたのである。
 全隊員泣いている。隊長も泣いている。
 国の為に一生懸命に勉強して、陸軍兵器学校に入学し、卒業し、船舶司令部に配属され、過去4年半軍務につき、今正に特攻隊員として出撃瞬前に、終戦となってしまった。
 残念無念である。

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 又、8月6日と9日が来る。かって広島に家族で行った時に、原爆ドームなどを見た。とても印象深く、今でもありありと思い出すことが出来る。又、被爆の体験者からも浪人時代に話を聞くことが出来、又、その手記も頂いて、今もその家族とは懇意にしている。
 平成20年8月2日(土)の夜の民放の番組で、終戦直後の63年前にアメリカのマクバガンが長崎原爆投下3カ月後に、現地の様子を撮るために撮影した秘蔵フィルムが初公開されていた。そこで赤ん坊を背負った14歳の美少女が映されていて、マクバガンは、その子がとても気になっていたそうだ。
 マクバガンは、晩年、「子どもは素直で純粋で希望そのものだ」と述べている。又、その時に映っていた14歳の少女が、追跡の結果、生存していた。結婚してわずか7年後に旦那さんを亡くし、28歳から一人で二人の女の子を育ててきていた。78歳になった今、弟さんと一緒に腰をかがめながら取材に応じていた。
 14歳での当時のことをしっかりと覚えていて、「お菓子をもらって嬉しかった。とても(アメリカ人が)優しくて、ホントにこの人が原爆を落とした憎しみのアメリカの人とはどうしても思えなく、別の国の人ではと思っていた。」と言われた。
 又、原爆の投下に関係した(アメリカ)人が、「出来れば、人のいない所に投下していれば良かったのに。」と語っていた。
 当時、原爆が投下するまで、日本もウランで原爆を造ろうとやっきになっていたのだ。又、日本が降伏してなければ、3番目の原爆が、東京にも落とされることになっていた?!とのこと。
 戦争は、人を狂わす。正にそうなのです。

*写真は、広島平和公園(19年前に撮ったもの)。

(その道に通じたある専門家の話によれば、日本の今の高度な科学水準をもってすれば、原爆を直ぐにでも造ろうと思えば、実現可能で、それも、大がかりでなくて、大学院の学生のレベルでも出来るとのことらしいのですが・・・?!、平和憲法を守り抜きたい気持ちで一杯です)

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