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2008.07.19 20:28 |  その他(一般)  |  くだらない話  |  masa  | 推薦数 : 0

息抜き・・・

 昨日(7月18日)の夕方、何とか都合を付けて、熊本市民会館での「DJ OZMA」の公演に間に合う様に行って、家内と一緒に見た。全く「DJ OZMA]に付いての知識がなく、それは家内も同じで、一人7.500円の当日券を買った。それには、3歳未満入場不可と書かれていた。会場では、若い女性が大半で、自分の様な50歳過ぎの男性は、一人見つけたかな?!
 で、18:30開場が、18:40の10分遅れで始まり、いきなり立っての見学となり、何と21:15まであった。で、私はずっと若者に合わせて座ることなく立って、皆に合わせて体を動かしていた。で、翌朝(今日)、起きると足首が痛かった。内容に、ちょっと和太鼓演奏があったのには、驚いた。カナダのトロントで見た「ブルーマン」と、かって中州のゲイバー(最高に面白かったかな)で見たものを足して2で割った感じの内容であったかな。もう、還暦前のこの歳にもなると、自分の場合は、何でも面白く思ってしまうかな?!
 今日(19日)は、午前中、熊本城に行って、新装の「大丸御殿」を見に行った。肝心の所は、写真が撮れなくて少し残念だった。又、秋にゆっくりと来ようと思った。その足で県立美術館に行って、そこにあるレストランで昼食を摂り、まず、「夢とサーカスの世界」に行った。そこでの3つ目の部屋に、シャガールの版画集の「サーカス」の作品が並べられていた。
 それから、本格的に並べられているシャガールの作品展を見た。500円出しての音声ガイドを聴きながら。シャガールのことが実によく理解できた。シャガールは、ロシア生まれのユダヤ人で、故郷ロシアを離れてパリでまず勉強している。それから、ロシアに戻り、結婚している。で、又、ベルリンにちょっと寄ってからパリに行っている。そこでユダヤ人とのことで迫害に会い、アメリカに行き、アメリカでは愛妻を亡くし、そのショックでしばらく仕事を辞めている。娘の勧めで再婚し、離婚して、又、3度目の結婚をしている。その後再びパリで活躍し、晩年は、ニースで落ち着いている。
 97歳まで生き抜き、実に沢山の作品を残している。驚いたのは、先の「サーカス」の作品が、何と彼が80歳の時の時に描いたものなのだ。メルヘンチックに、人生の愛と希望と失望などを折り込んだ作品を、彼は、60歳を過ぎても、いや、80歳を過ぎても、精力的に描いている。シャガールの作品をつぶさに観察して見ると(気をもらった感じにもなったが)、彼の心の中がよく作品に現れていることが理解できる。
 それから、同じ敷地内で、「細川コレクション」を見た。これも、無料の音声ガイドでじっくりと見て行った。この音声ガイド、何と骨伝道式であった(初めての体験)。で、それも自分の場合、iPod toutchで場面に合う感じの音楽を聴きながら、楽しく。
 夕方は、無農薬有機栽培でのヘルシーメニューの所で、夕食を摂った。カロリーや健康を考えた食事だと、そうでない場合と比べると、どうしてもちょっと味が落ちる感じかな・・・。

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2008.07.19 10:57 |  その他(一般)  |  たわいもない話  |  masa  | 推薦数 : 0

続・たわいもない話

 医師として自分が適確か、これに自分は悩んでいた。大学に入学した当時は、自分も受験の落とし子だったかなあと思っている。専門1年と2年で基礎医学を学んでいる時は、医者よりも大学に残って学者になりたいと思っていた様だったが、専門3年と4年で臨床修練をする様になると、臨床医にも憧れる様にもなった。正直、入学時には、クラスの半分近くが、(自分も含めて)医師としてどうかなあと思っていた。
 二期校コンプレックスで、もう一度受け直すと言う人が結構いた(夏休みが終わる頃になると、少なくなったが)。まかり間違ってここに来てしまったって感じで言う人もいた(が、教養1年での前期の試験が終わった頃になると、それも消失)。いつまでも、自分は秀才だと言い続けていた人もいた(が、専門課程でしばしば追試を受けることが多くなると、ピタッと言わなくなっていたかな)。しかし、時間と共に、受験により作られた間違った呪縛が、次第に崩れて行った。
 医学部の場合、6年間もあると、出来る人と出来ない人の差、大きい。(実技のない)医師国家試験の実力と、実際の力は、私自身は、余り関係ないと思っている。例えば、心電図は読めても、コミュニケーションの取り方や患者さんの受けは、別物。医師の場合、病名が付かなくてもそれなりに決断しないといけないことが多い。
 医師になり、30年経って、久し振りに同窓会で会ってみると、何やかんや言っていろんな問題があっていた人も、スッキリと水に流された感じで、皆、立派な医師になっていた。昔スゴイ秀才だった人も、何年も留年し続けていた人も、殆ど関係なしって感じになっていた。つまり、長い年月を伴ったいろんな体験が立派なプロたらしめているのだ。
 勤務医は勤務医で、開業医は開業医で、研究医は研究医で、それなりにプライドを持っている。性格が暗かった人も、別人の様に明るくなっていた。
 教師にしても、同じだと思う。いろんな現場の経験から、一つずつモノにしていけると思う。同僚の教師よりも、受け持ちの生徒から学べることの方が多いはず。出来る子よりも、落ちこぼれの子どもから学べることの方が多いはず。そして、親御さんからも沢山学べるはず。その時に大切なことは、自分が絶対に正しいと思うことをせずに、沢山の人から聴く耳を持つことだと思う。相手の立場に立って考えられるゆとりを持てることが大切だと思う。
 自分が中学の時は、1学年500人以上もいて、県南では最大数の学校だった。11クラスもあったせいか、クラス毎の成績を気にする教師が多かった。
 自分のクラスの担任は、技術家庭科のK先生だったが、野球部の監督をしていて、それに一生懸命って感じの先生だった。数学には、新米のM先生が教えに来た。初めの先生の自己紹介の時間に、黒板に、趣味の所に「パチンコ」と書いていたのを、グルグル回って見に来ていたH校長(その後、佐伯鶴城高校の校長になる)が、サッとその部分を消して何も言わずに立ち去ったのを今でもしっかりと覚えている。この新米のM先生、数学では、採用試験で1番だったとの噂だったが、黒板を見て話し、それも早口で言うので分かりにくかった。授業が終わると自分が質問すると思って走って逃げていて、自分はそんな先生をよく追い掛けていた。で、トレイに入り込んで、出てくるのを待っていたこともあったが、人のいい先生で、尋ねると親切に早口でいつまでも教えてくれていた(クラスでの評判は最悪であったが)。
 隣の担任の先生で、社会が専門のK’先生がいた。自分の社会のY先生も学年長でいい先生だったが、このK’先生の授業は素晴らしいと受け持たれていた隣のクラスの(自分の友達の)S君(彼は、その後、附属中学→上野丘高校→東大→大学教官と進み、今も毎年、個性的な年賀状を頂いているが)が、しばしば話していた。黒板に書かれたのを書き写した彼のノートを見て、凄いなあと感心していた。自分は軟式テニスに入っていたが、このK’先生は、テニス部の顧問で、自分とははるか遠い存在の様に思っていた。案の定、翌年、附属の先生として転勤されて行った。
 学校がマンモス校だけに、警察沙汰になったり、いじめがあったり、いろんなことがあった。そんな中でも、学べることが一杯あったと思う。新米の先生の中でも、理科の第2分野のH先生、初めの試験問題、時間も足りなくて、問題も良くなかったけど、飛躍的に進歩をして、1年後には、全く違った感じの先生に変身していたなあ。
 教師から教えてもらった教科の具体的な内容のことは殆ど覚えていないが、今でもはっきりと思い出せるのは、個性的な先生。それ等の先生の生き方(意気込みや個性的な動作など)が、しっかりと脳裏に刻まれている。

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