
昭和51年に卒業し、その年末・年始は、宮崎県立宮崎病院勤務だった。とても忙しくて、宮崎市内の小児科医がどこもベッドを持っていなく、救急を積極的にしていない関係で、時間外に沢山来ていた。当時は、宮崎医科大学もオープンしていなくて、県下からひどいケースで時々送られてきていた。小児科ベッド数90を、研修医3人を含む6名で、新生児・未熟児医療に振り回されながら、未熟ながらも激務をこなしていた。(当時のナースに会うと、あの時は、一番忙しかったですねえと言ってもらえる)
昭和52年10月1日に、宮医大に移った。診療がオープンしたのは、昭和52年の10月末で、小児科のスタッフは、文部教官だけのわずか7名(教授1名、助教授1名、講師1名、自分を含む助手4名)で、私が一番下で、その年の年末・年始は、正に徹夜状態だった(もちろん、12月31日の大晦日が当直であったが)。
翌年の昭和53年の年末・年始は、自分が主治医の術後の横隔膜ヘルニアの子どもを持っていて、缶詰状態で病院にいた。(この経験から、自分のエネルギーが、多くの子ども達を対象にした小児救急に使えるのではと思う様になっていた)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060911/1
昭和54年の年末・年始は、(大学人であったが、佐伯の救急告示病院・西田病院に就職することが決まっていた関係で)、郷里の西田病院に泊まり込んで、深夜も断らずに小児救急医療を積極的にした。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070830/1
統計の初めは、昭和55年~平成元年までの西田病院でのもので、年末・年始は、医大から応援をしてもらえなかった。一度だけ、ある年に、年明けにしてもらったことがあるが、その時、代診の小児科医が真っ青になっていて、音を上げて帰って行った。(西田病院では、2年間二人体制でしたが、その時には、4:00~14:00までを自分が受け持った。)
平成2年~平成10年は、たはら小児科医院でのもので、もちろん、他の小児科医の応援は、年末・年始以外も全くなく、毎日1日も欠かさずに、19床の入院ベッドを持って一人で頑張った。(佐伯では、約20年間、毎日20:00~21:00まで受け付けて、小児救急を自分なりにした)
平成11年~平成13年は、大川市にある救急指定病院・高木病院でのもので、東大小児科医局からの派遣医師4名と一緒になって、私の提案で小児救急医療を24時間365日していた。確実に数が多くなって行って、最後は、時間外患児が年間8000人近くまでになった。
平成14年~平成15年は、大分の救急指定病院・天心堂へつぎ病院でのもので、平成15年の方が14年よりも少なくなっているが、これは例外的な現象で、たまたま流行が少なかった為。平成15年元旦には、83名も来て、疲れ切っていた。
平成16年は、1年間、全く仕事をせずに世界をアチコチとブラブラし、チェンマイ、オークランド、プサン、ダッカ、クアラルンプール、キャメロンハイランド、バリ、フィレンツェ、ローマ、ピサ、バンクーバー、ヴィクトリア、トロント、モントリオール、ケベックなどに一人で(しばしば太鼓と篠笛を持って)行って、遊んでいた。
平成17年~平成19年は、上天草市立上天草総合病院でのもの。数が少なくて、楽をしている。
しかし、来年で60歳で還暦。気力はあるのだが、いろいろと病気持ちになっていて、体力が心配。
来年4月からは、この先太く短くでなく、細く長くすることに決めている。
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