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その8、仕事に徹する
 かなづち病院長の本の中の朝礼訓話のある1カ所に、「某市で、日曜日の休診日に、喘息発作の患者さんが4軒の医療機関を訪れ、診察治療を受けようとしたが、いずれも断られてついに死亡したと言うニュースが伝えられている。救急病院の西田病院では、年中無休の体制をとり、休日はもちろん、夜間においても、救急や重症に備えて常に、内科と外科の当直医が配置されている。どちらの当直医師にも(忙しくて)都合が付かない場合でも、一応外来患者さんがあれば、他科であっても、待機の医師にお願いするのは当然のことである。どうしても都合の付かない時には、院長まで連絡をする様に。その為に、院長の私は院内の5階に起居しているのである。そのことを忘れないで欲しい。」とある。これが80歳直の人の言った言葉なのである。理事長先生の毎日住んでいる自宅が病院の一番上にあり、救急車の音がすると、「今のは何の患者か?」と深夜でも上の理事長先生から電話が下の詰め所によく掛かってきていたのは、多くの人の知る所である。心臓病の持病を持っても、体の許す限り、いや体の限界を超えて実によく働かれた医者であった。

その9、救急医療に徹する
 理事長先生の医療に対する至誠の中で、私が最も尊敬しているのは、救急医療に対しての異常なまでの意欲であった。80歳になるまで、時間外に来た患者さんのカルテを全て毎朝サインしていた。あれ程までに救急医療を熱心にしてきていたのに、「生死の瀬戸際しか診療せぬ許せない救急病院」とまで小児の患者さんのことで○○合同新聞に掲載され、その為に(理事長先生の長男でやはり産婦人科医の)院長先生は丸刈りになり、理事長先生はそれ以上に悲しんでおられた様子で、私にとっては非常に胸の痛い思いである。県南地域に於いて今までにどれ程多くの患者さんが救急医療をすることによって救われてきただろうか。365日24時間受け付ける体制で、1カ年に1万人以上の救急患者さんを扱い、1日に平均1台以上の救急車が来院している病院は、少ないと思われる。その評価が生前に公にされることなく、しかも、近年になっても二次の救急指定病院になれなかったことは、誠に残念なことと思われる。

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その5、他人の意見に耳を傾ける
 理事長先生は、部下の意見を尊重する人であり、小児科のことは私に任せてくれた。現在でも、使いたい薬を自由に使っているし、私と馬の合わないナースがいたら、遠慮せずに言ってきて欲しいとまで言われいた。私が高い医療機器を次から次へと頼んでも、全てOKしてくれて、しばらく頼みに行かないと(最低限の必要なものは全て買ってしまったが)、ある時、「田原君は最近何々が欲しいと言わなくなったが、何か言っていなかったか」と周りの人に聞いていたそうである。小児科の設計にしても、(理事長先生自身が素晴らしい建築マニアであるのに)必ず私の了解を得ることを気にしていたし、新生児・未熟児センター室設立の時には、何cmまで、私に任せてくれた。

その6、頭が低くて、笑顔を絶やさない
 270名程の職員を抱えるまでに成長し、救急医療を中心にして永いこと多くの人を救って来られたのに、頭は常に低く、話し出すとニコニコされていた。西田病院の3つのモットーの「誠実」「機敏」「笑顔」は、理事長先生のアイデアであるが、正に、理事長そのものであった。医者たるもの、腕があり、患者さんが多くなり、業績が上がると、ともすれば高慢になり、人の意見は聞かずに、優しい笑顔を多くの人に投げかけることをしなくなりがちになるが、理事長先生は、それとは全く反対の崇高な精神の持ち主であった。

その7、記録を執る。
 理事長先生が毎朝、患者統計を執っていたのは周知の如くであるが、その統計を執ること自体が、生き甲斐にもなっていた様である。82歳になっても、よくメモを取る人であった。記録を取ることにより経営者としての力をいかんなく発揮することが出来、又、手を使い頭を使うことによって最後まで冴えた頭で病院の業務に就けていたのかも知れない。忙しい中にも、立派な著書、「かなづち病院長」「続・かなづち病院長」を出版して、それを後世に残したのである。

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