フィリピンのセブ島にある犯罪者収容所では、犯罪者を集団ダンスで更生させている。
何か信じ難いが、実際に行って見ると、朝1時間、夕1時間、全員が一斉に踊っている(民放テレビでの内容)。何と、そこにいる収容人1300人全員が一斉に。皆、実に上手、そして、楽しそうである。
そこでは、それまでは、いろんなスポ一ツをさせて更生を試みていたが、喧嘩が絶えなくて困っていた。たまたま、バイロン・ガルシア所長が、NHKの「アルゴリズム亢進」を見て、これは面白いと思い付き、それをさせたら、思っていた以上に上手く行き、それ以来、今では、YMCAやマイケルジャクソンの曲など、11もの曲で踊ることが出来る。
場所もさほど取らず、皆で一緒に踊ることにより、喧嘩することなく、楽しく出来、何よりも、協調性そして、更生が出来ている。
この音楽での試み、ここだけでなく、イギリスやジャマイカでも行われているとのこと。日本では、まだどこにもないのでは?
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○昭和59年11月2日(金)曇。
熱でフラフラしていた。それなのに、朝から150人以上も診ていた。きつかった。よく耐えたと思った。11:30過ぎてから14:00まで、カギを掛けて、メシも食べずに寝た。横になって眠ることが、午後までもたせる方法だと思ったのだ。午後もやっと診て、タクシ一で家に帰り、バタッと寝た。熱が38度9分もあった。完全にグロッキ一だ。夕食を食べる元気もなかった。
○昭和59年11月3日(土)晴。
朝37度ちょっと熱があった。頭がとにかく痛い。扁桃が真っ赤で、白苔が付いている。右の喉を押さえると痛い。抗生物質の有り難さが身にしみた。こんな時、医者に行って治してもらったら、医者は神様みたいに思えるだろうなあ。昨日、帰る時に点滴にペニシリンを入れたのが良かったのかなあ。体が無理をしていたからなあ。(17:00からは、宮医大の○○先生が代診)
○昭和59年11月5日(月)晴。
210人ばかり診た。連休明けで多かった。
○昭和59年11月6日(火)晴。
アフタ性口内炎が出来て痛くて食べられない。こんな口内炎、今までなったことないなあ。体力がなくなっているのだなあ。一つ悪くなると、どんどん他のも悪くなって行く感じだ。
○昭和59年11月11日(日)晴。
何となく寝てばかりいた。幸いに、患者さんも多くなかった。○○病院で、子どもが2人亡くなったとのこと。その内の1人は、医者が大丈夫と言って直ぐに亡くなったとのこと。亡くなった子どもは、お腹が痛い痛いと言って亡くなった様だ。こんな時って、お互いに不幸だなあ。医者と言うのは、失敗が許されない。しかし、人間だから、100%上手く行かない。
○昭和59年11月13日(火)晴。
昼、5階の会議室でドクタ一が集まっての食事会があった(1カ月1回あり)。院長が、気配りの大切さを話された。内科の○○先生が、「患者の中には、他の患者に迷惑を掛けるのがいて、そんな患者には関わりたくない」と言った。整形外科の○○先生も、同じ感じで言われた。僕もそんな感じだ。自分だけ特別扱いして欲しいって患者さん(順番待ちにしても、まだですかまだですかとしつこく言う人、議員の名刺を付けて来る人、保険の関係で退院をしぶる人など)、確かにいる。(子どもに掛けている保険にしてもいろいろあって、1週間以上入院しないと、保険が出ないのがある)
○昭和59年11月14日(水)。
脳外科と小児科で、卓球大会をした。皆、一生懸命。上手な人が多い。1回戦で、シングルもダブルスも負けてしまった。かっての卓球部だった柳井ちゃんも何故か振るわず敗退。その後、「カツ亭」で食事会をした。(この日は、大分医大から助教授が代診)水曜の夜は絶対に起こされないと思うと、実によく眠れる感じだ。救急病院でお産もあって医者1人で頑張るなんて、自分でもよくやっていると思うよ。
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ダッカに滞在して(16日間)、そのまま日本に帰らずに、マレ一シアのクアラルンプ一ルに行きました。クアラルンプ一ルに1週間いる間に、キャメロンハイランドに行って、そこで2泊しました。

ツインタワ一は、外見もスゴイのですが、中も、沢山のお店があって凄かったです。

最後の写真は、キャメロンハイランドで泊まった(タミル人経営の)ゲストハウス、一番向こう側の部屋が私の部屋でした(行って、そこでどこに泊まるか決めたのですが、そのゲストハウスでは、一番いい部屋でしたが、それでも日本円で4.000円もしませんでした。食事は、外に出て買いに行っていました。)。
キャメロンハイランドは、高原なので、暑くなかったです。
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○昭和59年10月22日(月)晴。
時間外に来る人の多くは、他の医療機関にかかっている人だ。他の医療機関が休んでいる時に、自分がしていることになる。それにしては、あまり感謝されていない感じだなあ。病院は、入院が主体のはずだ。だから、ここがこんなに外来が多いこと、開業の先生にとっては、面白くないと思う。しかし、この病院がもしも入院だけを中心にしていたら、経営的にやって行けないだろう。今や国公立と言えども、採算を考えずして医療は出来ない感じになっている。この西田病院の外来がどの科も多いのは、やはり、24時間の救急医療を延々と前々からしてきているからだ。それにしては、この病院の評価、何故か低い感じだ。徳州会病院と同じことをずっと前からしてきているのに、文句を言われること、多いなあ。
○昭和59年10月26日(金)晴。
98人だった。体がだらしくて、腹の調子が悪くて、頭が痛い。昨晩、あまりよく眠れなかった。
○昭和59年10月28日(日)晴。
時間外の患者さん、あまり多くなかった。それでも、2人入院した。日曜は、結構、本当の急患が多い感じだ。港の近くにある(直ぐに頂上まで行ける)山に登った。見晴らしがとても良かった。日曜は、家にいないで出来るだけ外にいることが大切だなあ。今までの時と比べると、医大からきてもられる様になって、仕事がグッと楽になっているなあ。
○昭和59年10月29日(月)晴。
又1週間が始まった感じだ。頭が痛い、鼻がつまっている、肩が凝る、眼が痛い、アルレギ一が起きているかなあ。体力にだんだん自信がなくなってくる。しかし、患者さんは、次から次へと来る。1人でよく頑張っていると思う。しかし、これがいつまで出来るのか、自分でも分からない。いつかは、この調子だと、必ずくたばってしまう。
○昭和59年10月31日(水)晴。
病院のソフトチ一ムがいつも練習している所に行って(西田病院女子ソフトチ一ムは、県体では常に1位、国体でも、第3位にまでなったことあり、理事長が負けると体の調子が悪くなるので、選手は、いつも一生懸命に練習していた)、小児科スタッフで、卓球大会をした。結構運動になった。それから、(軟式)テニスをしたら、ボ一ルが思うように飛ばなかった。卓球は、いいなあ。その後、16人で「味蔵」に行って食事をごちそうしてあげた。補助看の人も、我々と一緒に遊びたいのだなあと思った。皆、よく喋るなあ。時々、こんな風にはしゃぎたいのが本音だと思う。時々、こんな感じでパッと息抜きをさせることが大切だなあ。(1カ月に1回、こんな感じで、運動を兼ねての食事会を、水曜の午後、するようになった)
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まな板が黒いと何て考えたこともなかったが、今、黒い「まな板」が話題になっているとのこと。まな板が黒だと、野菜がよく見えるらしい。まな板だけでなく、「トイレットペ一パ一」「耳かき」「しゃもじ」更には、「歯ブラシ」「歯磨き粉」「うどん」まで。
柔道の場合、昔から柔道着は白が定番と思っていたが、今や、青と白の柔道着で戦っている。黒でなく青としたのは何故かなあ?
聴診器だって、いろんな色のが出ている。医療の世界では、白衣が定番と思っていたが、ピンクだの水色だの、小児科では、普段着の方がいいのではとの意見もある位だ。
秋は、スズメバチの季節。黒で注意しないといけないのは、このスズメバチの習性だ。スズメバチは、黒を見ると攻撃してくるらしい。黒髪はもちろん、黒い服もタブ一となる。
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○昭和59年10月1日(月)曇。
体がだらしい。ファイトがわかない。眼が痛い。肩が凝る。睡眠不足。運動不足。心の休養不足だ。燃え尽き症候群に陥らない様にしないといけない。水曜の午後は、体力作りに専念しよう。勉強不足でもあるなあ。
○昭和59年10月6日(土)晴。
水曜の午後休んだせいか、一週間が早かった。鼻の調子が良くない。副鼻腔炎かも知れない。
○昭和59年10月8日(月)晴。
体の調子が悪い。頭が痛い。それでも、我慢して160以上診た。次第に体力の衰えを感じる様になった。昔が懐かしい。ここに来た時は、いつでも何でもドンと来いって感じだった。今は、気力はあるが、体が付いて来ない。
○昭和59年10月10日(水)雨。
(長)兄の家族と父と我が家の4人で、両国でフグを食べた(1人3.500円の特別価格)。喜んでもらえて良かった。(10月12日にも、小児科のスタッフの、同じメニュ一で接待してあげた)
○昭和59年10月13日(土)晴。
今日は、いつもの○○先生が来てくれる。まだ、風邪気味だが、前よりはいい。「医師国家試験小児科の手引き」の改訂版(第4版)を作る気になっている。500部。何の為に?自分でもその理由がよく分からない。
○昭和59年10月14日(日)晴。
ミ一コの運動会に参加した。鳥井校長先生が一生懸命に頑張っていた。ミ一コ、5人中3番と4番だった。恵ちゃん、リレ一に出て、スゴク速くてビックリした。自分は、ムカデに出たが、それだけで疲れてしまった。ワコは、よく眠っていた。子ども2人もいると、仕事の忙しいお父さん、大変だ。しかし、どの父親もこれ以上に大変なのかも知れないなあ。月報の原稿を書いた。
○昭和59年10月15日(月)晴。
又、1週間が始まった感じだ。カゼがまだどうも抜け切らない。朝起きると喉が痛い。不摂生が原因だなあ。今度の水曜は、久し振りに講義があるなあ。自分と言う人間が時々分からなくなることがある。理想主義に燃えているかと思うと、直ぐにそれを諦めようとしていたり、非常に理性的かと思っていると、そうでもなかったり、努力家と思いながらも、そうでもなかったりと・・・?!ハングル語もピアノも、続いてないなあ。
*10月の小児科応援ドクタ一は、以下の如くであった。
・ 3日(水)大分医大から、13:30~翌朝。
・13日(土)宮医大から、17:00~月曜6時。
・20日(土)大分医大から、17:00~24時間。
・24日(水)大分医大から、13:30~翌朝。
・31日(水)大分医大から、13:30~翌朝。
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もうすぐ、「かぐや」が月の軌道に入る。何でも、かぐやの本体から、2つの衛星が飛び出て回るらしい。日本の技術力、凄いなあと思う。
月って、その起源は今も不明だ。兄弟説、親子説、他人説とあったが、アポロが月の石を持って帰ってから、大変なことになった。月の方が地球の石よりも古かったのだ。で、浮かび上がったのが、ジャイアントインパクト説(巨大衝突説)、つまり月の成り立ちは、大きな隕石が地球にぶつかって、地球の中心から塵が飛び出て、それが集まって出来たものとされている。
太陽系の惑星の中で、月の様に大きなモノは珍しい。又、地球から見て、一見月と太陽が同じ大きさに見えることも珍しい。月は、昔は、もっと地球近くにあったが次第に遠ざかっている。
太陽と月、古代から、月は人間にとって切っても切れない関係にある。多くの国旗にも、月がよく表現されている。女性の生理だって、月経と言う様に、太古の昔は、月の周期に合っていた。満月だと、性犯罪が多くて、交通事故も多いとの統計もある。それに、潮の満ち潮が月の引力によるものなんて、あんなに遠くにあるのに凄いなあと常々思っている。
いやいや、月だけでなく、我等の住む1000~2000個の恒星を有する銀河系だって、秋のペルセウス座にある(230万光年かなたにある)「アンドロメダ大星雲」とその内合体する運命にある。
遙か遠くの宇宙の全てのものがお互いに影響を及ぼし合っているのだ。まあ、宇宙のことを考えていると、今もある所では戦争状態なんて、ホントに、馬鹿馬鹿しくなりますが。
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○昭和59年9月17日(月)晴。(今からちょうど23年前の日記です)
9月初めの土日以外に、ずっと応援が来ていないので、きつい。鼻水タラタラで、苦しかった(持病のアレルギ一性鼻炎あり)。200人以上も来てしまった。来月から大分医大が、(病院が半ドンの)水曜の午後から木曜の早朝まで来てくれるとのこと。これだけでも、かなり助かる。正直言って休みなしの毎晩はつらい。週に1回ぐらいは、ゆっくりしないと精神的にも参ってしまうなあ。若い時にはそれにも耐えられていたけど。
○昭和59年9月18日(火)雨。
夕方5歳の男の子の腸重積が来た(県病では、3例も手術をし、その内の1例は、腸を切除してしまったが、佐伯での約20年間は、運が良かったのか幸いにも手術例0)。腸重積いろんなタイプがあるが、やはり一番大切なことは、早期診断だ。疑えば、細かく診ていくしかない。腸重積は、朝まで待たすべきでない。
○昭和59年9月20日(水)晴。
涼しくなった。今日もミ一コと運動して風呂に入った。縄跳び500回もした。今までで最高だ。続けることが大切だなあ。汗を沢山かいた。いいことだ。月報の原稿も出した。時間外に、ソケイヘルニアの嵌頓が来てやっと整復できた。外科の急患は、神経使うなあ。又、時間外の新患も気を使うなあ。
○昭和59年9月23日(日)晴。(土曜から○○先生が来てくれて、湯布院に家族で2泊出来た)
昨日の22:00過ぎに、湯布院の「亀の井別荘」にやっと着いた(夕食は、時間がなくて、キャンセルしていた)。家族風呂にゆっくりと入った。子ども2人は、よく眠っていた。朝9時に朝食を摂って、10時にそこを出て、美術館などを見て回った。この日は、「榎木屋旅館」と言う所に泊まった。その前に、「玉ノ湯」と言う、メチャ高い旅館があった。暇と金がある人が来る所という感じだ。来年、「亀の湯」に、親を接待したいなあ(その後、一度だけ、私の両親と家内の両親の4人と私の家族が一緒になって、亀の井別荘で一泊した)。
○昭和59年9月25日(火)晴。
連休明けで、200人近く来た。体がだらしい。休んだのに、どうしてかなあ。9月に入ってずっとこんな感じだ。精神的なストレスか、運動不足かなあ、それとも太り過ぎのせいかなあ。
○昭和59年9月30日(日)曇。
(宮崎の小児科の地方会が延岡であった)学会で発表した。自分の発表、梶原先生も大堂先生も、よく思ってくれたみたいで、嬉しかった。朝9:15のにちりんで行き、懇親会では、川辺で鮎を食べ、帰りは、病院の車で迎えに来てもらって帰った。
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ちょうど3年前の9月26日の出来事です。チェンマイ(1カ月半余いました)でのサンデ一マ一ケットで、一番人通りの多い感じの所で、沖縄の人と(も1人、日本のフランス大使館に20年間勤務していて、定年前に退職したエレキギタ一を弾く日本人と)一緒に、路上で演奏活動をしました。その時の写真です。毎週、同じ所でしていました。次第に見学の人の数が多くなって、一番最後の時は、スゴイ数になりました。
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○昭和59年9月3日(火)晴。
市内の○○○産婦人科から送って来たベビ一、肺炎かと思ったが、気胸を合併し、その後、TGA(大血管転位)と言うことになった。酸素を与えてもチアノ一ゼが消失しない時は、CHDだなあ。心雑音がなかったので、だまされてしまった。レントゲン上、気胸だけしかなかったら、あれ程の強い呼吸障害が出る訳がない。17:00に宮医大に(当院の救急車で)送った。21:00前に着いて、電話があって、1型のTGAだろうとのことだった。送って正解だった。今日は、本当にフラフラして眠たかった。(私の送り方は上手だと、送り先の医師からしばしば言われていた)
○昭和59年9月9日(日)曇。
日曜と言うのに、朝早くから喘息で来て、点滴しても軽くならないので、入院した方がいいと言ったら、その父親が家庭の事情で入院できないとカンカンになって言う。何であんなに怒って言うのか?感謝の言葉なんて、一言もない。感謝の言葉はいらないが、救急をして、文句を言われたくない。土曜に来る様に言っていたのに、来なくて、しかも、以前にも、深夜で熱だけで来て、どうしても診てくれと言って引かなかった。こんな父親では、子どもがかわいそうだ。
○昭和59年9月10日(月)晴。
月曜と言うのに、150人も来なかった。今から暇になるかなあ。1歳の子どもが頭を打って来た。顔面蒼白で元気ない。呼名反応も、はっきりしない。親の不注意でそうなっていた。こんな時、自分の子どもだったら、居ても立ってもいられないだろう。(この日から、3日連続病院内に宿泊)
○昭和59年9月11日(火)晴。
大分医大から、ウィ一クデイにバイトにとの話があった。宮医大のこともあるし、なかなか難しい。自分もここに半永久的にいる訳ではない。かと言って、宮医大もあまり当てにしてはいけない感じだ。(まる3年したら送るって感じで言われていたが、もう、既にまる4年も経過しているではないか!)
○昭和59年9月12日(水)晴。
深夜の2時前に喘息で2人来て、朝の7:30にけいれんが来て、あまり眠っていない。よくしたもので、今日は半ドン。昼過ぎに昼寝をした。○○先生から、「田原先生、太ったなあ」と言われた。
○昭和49年9月15日(土)晴。
○○ベビ一が、昼から状態が悪くなって、心拍数が下がって大変だった。レスピレ一タ一を付けて少し良くなった。まだどうなるかわからない。そこで思った。こんなこと、1人の医者でずっとするべきではないと思う。今は、医者がいないから仕方がないが、先になれば医者が増えるので、公から補助をもらってするべきだ。ここの病院の数だと、ベビ一だけで少なくとも1人は小児科医が必要だ。採算のことを考えると、新生児・未熟児医療なんて、個人病院ではやっていけない。数少ないスタッフでどんなに頑張ったって、何かあったら患者さんも不幸だし、医者も惨めになるだけだ。
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