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masa / 2007.04.30 11:49 / 推薦数 : 0

一生懸命に仕事をしてきて職場を去られる人に対して、感謝の気持ちを表すには、どうしたらいいのだろうか?
ある人は、お金を上げたり、食事に誘ったりするだろう。自分も、かってはそうしていたが、ある時から、あるものを上げることにした。あくまでも、その価値が分かりそうな人にだけであるが。
それは、多国語で相手の名前を書いて、それをあげることを。今までに、100人程、上げてきていると思う。
書く時は、少し緊張しながら、心を込めて書いている。
書いている内容は、少し格言的なものも書くが、必ず、最後に、書いた日付と自分の雅号を加えている。
4月30日で、11年間も続いたこの職場を去る人がいる。食事のことで、私は、とてもお世話になった。(私ほど、この病院の中で、病院の食事を食べている人は、いないと思われる。)
トルコ語で、「いつもあなたを神様が見守っていてくれるでしょう」と言う内容と、「人間万事塞翁が馬」との言葉と、後は、ベンガル語とタイ語で、今日の日付を書いた。
彼女は、5月1日から休職と言うのに、4月の29日も30日も、ぎりぎりまで働いている。公務員なので、失業保険はないとのこと。前、体を壊して入院していた時も、入院の途中でベッドを抜け出して、仕事をしていた。責任感のとても強い女性である。
しばらく体をいたわって、心もリフレッシュして、又、職場に復帰してもらいたいと多くの人が願ってる。
最後に惜しまれてきれいに去れる人は、ある面では、生きる上での本当の成功者だと思う。
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masa / 2007.04.29 14:26 / 推薦数 : 0

平成19年4月30日(日)、午前11時20分まで診療して、急いで、龍ヶ岳の大道(おおどう)の港のイベント会場に行き、餅投げの前に、篠笛・和太鼓の演奏をした。
バックに龍ヶ岳を、空は、快晴、気持ちよく太鼓を打てたが、人が少なかったなあ・・・。
今月は、花見と、老人施設と、このサンライズウォ一クで、3回演奏したことになる。
このサンライズウォ一ク、昔は、参加者が1000名程いたそうであるが、今は、少し減っているとのことだが、・・・それでも、今年は、山の頂上まで上がった人が、700名もいたとか!!。
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masa / 2007.04.28 09:04 / 推薦数 : 0
○専門3年、3月22日(土)晴。
循環器内科で勉強した。UCG、PCG、ECG、VCGの検査をしていた。田舎の病院に、こんな立派な機械があるとは。心疾患は、早期発見が大切だと思った。ASDの子どもが来た。VCG(ベクトル心電図)を○富先生がしていた。○先生は、独学で循環器の多くを勉強したらしい。とても詳しくて、丁寧に説明してくれる。
○専門3年、3月25日(水)晴。
内科の○本婦長さんが、PSOシステムのことを熱を込めて話して下さった。僕って、看護婦さんの前で威張っているみたいで、自分が何となく嫌になった。ここでは、内科も小児科も外科も不足している。田舎に行けば、何でもしないといけなくなる。競争がないから、油断するとどんどん医学から遅れてしまいそうな気がした。
○専門3年、3月26日(水)晴。
○野先生と一緒に老人ホ一ムに行った。50ベッドがあって、更に50増やす計画だと言われる。へき地に行くと、医療の遅れを感じる。病気はどこにでもある。むしろ、都会よりも重症な疾患が多い様な気がする。実力のある医者こそ、田舎に行くべきだと思う。良心的な医者、実力ある医者になりたい。
○専門3年、3月26日(水)晴。
南海病院での研修も、今日で最終日だった。UCGをさせてもらった。出来るはずはないと思ってしたが、うまく出来た。半年一生懸命にすれば、出来そうな気がする。薬は、最低限のことは、数カ月で覚える。それを実感した。要は、考え方だ。基礎がしっかりしているかどうかだ。それに数多く経験しないと駄目だなあ。
○専門4年、4月7日(月)曇。
久し振りの講義。三年生と一緒に受ける。何と、俺は専門4年、医学部六年の最終学年ではないか。いつの間にって感じだ。あせっても始まらない。今から、一日一日を大切にして行くしかない。ギャノンの医科生理学展望の新しい版を買った。ハ一パ一生化学も、新しい版が出たら買おう。やはり、臨床は、基礎が大切ナノダ。
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masa / 2007.04.27 09:28 / 推薦数 : 0

佐伯(さいき)にいた時は(約20年間)、温度表と熱についての説明文が一緒になったものを、熱のある患者さんの親御さんにいつも帰る時にあげて、熱を付けてもらっていた。
今回、新たに作成した。
如何なものでしょうか?
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masa / 2007.04.27 07:53 / 推薦数 : 0
(再掲)
平成19年4月8日の朝日新聞の一面に、「医師確保へ窮余の高給」との見出しで、かなりのスペ一スを取って、自治体病院の県別の内訳が載っていた。
皆が行きたがらない所は、当然、高くなる。何故、行くのをためらうのか、その多くは、家族の問題である。家族と離れることのデメリットの方が大きいのである。子どもの進学時期であれば、将来のことを考えて、どうしても子ども中心になってしまう。
お金を出せば、来てもらえるはずと思っている管理者は多いかも知れない。しかし、当の医師は、実際に、そう考えていない。医師の場合は、医師になって10年も経過していれば、それなりに収入はある。経済的にさほど苦しくない状況で、体を壊してまで、家庭を壊してまで、お金の為に働こうとは思わない。
新聞では、行政学のある教授のコメントが最後に載っていた、「自治体病院の医師の給与が民間より高すぎるということはなく、医師不足の地域で高くなるのはやむをえない。医師の確保は病院の収入増に直結するので、出し惜しみすべきではない。赤字解消のためには看護師や事務職員の給与体系を見直すべきだ。ただ、高給を提示すれば医師が集まるわけではない。夜間救急対応の負担軽減や休日確保など、医師が働きやすい環境をつくる必要がある。」と。かなり的を得た意見だと思う。
(医師の場合、僻地に行ってちゃんとやれる医師になるまでには、大変な苦労を強いられている。研修医時代や大学勤務時代は、他の職種以下の薄給で多くの医師が過ごしてきている。又、あちこち移動している医師には、退職金は期待できない。医師の勤務は、世間の人が思っている以上に重労働。週70時間、当直明け普通勤務なんて、多くの医師がしていること。今の時代は、正に、不屈な精神力と逞しい体力と明瞭な頭脳と博愛精神と一般常識を全て兼ね備えた人でないと、医師として適応して行けない。現実に、うつ状態の医師の増加で、医師の自殺率は、普通の人の3倍と高くなっている。教師のうつ状態の人の数も、同じ様に増加している様だが・・・)
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masa / 2007.04.26 18:15 / 推薦数 : 0
平成19年4月25日(水)のNHKの「その時歴史が動いた」で、第13代徳川将軍の正室であった鹿児島の島津家出身の「元璋院篤姫(げんしょういんあつひめ)」の行動が明らかにされていた。
篤姫は、西郷隆盛から、次の将軍を水戸藩から選ぶ様に工作をと密かに言われていた。第13代の自分の夫である将軍は、政治をする能力はなかったが、それでも、篤姫は、夫を立派に立てて仕えた。夫は直ぐに亡くなってしまう。次の第14代将軍は、紀伊藩から選ばれて、西郷隆盛から指示されていたもくろみが失敗してしまうことになる。が、その第14代将軍と朝廷から選ばれたその正室の和宮の間をしっかりと支えてあげる。
しかし、14代将軍も、21歳の若さで亡くなり、第15代将軍が即位する。260年続いた徳川家が、時間の経過と共に崩れてしまうのは、明らかな様にも思えた。(故郷の)薩摩軍が攻撃してくるので、江戸城を出る様に周りが篤姫を説得するが、自害用に持参している短刀を自分の首に付けて、島津家でなく徳川家として江戸城を出ることを強く拒み、周りを驚かす。勝海舟と西郷隆盛の力で、血を流すことなく城を明け渡した(無血開城)と言われいるが、その裏には、篤姫の緻密なる工作があった。
篤姫は、西郷隆盛に、1300字なる捨て身の嘆願書を無血開城の前に送っている。その中で、血を流すことなく事が運ばれるべきだと強く説いている。その内容を見て、西郷隆盛は、無血で、城を相手に開けさせることになる。
篤姫の平和を愛する気持ちが、男達に、血を流すことなく、戦争をしないで、解決する様にし向けたのである。
篤姫は、260人の奥女中のその後の結婚や就職などで骨を折り、島津家からの鹿児島に帰る様にとの誘いを断り、徳川家となってからは、故郷に一度も帰ることなく、48歳でその生涯を閉じることとなる。しかし、篤姫は、父からもらった煙を吐く桜島と島津家の家が描かれた一幅(いっぷく)の掛け軸のみ、常に共にして、いつも見ていた。多くの人の世話をして、江戸城を出る時に最後に持っていた所持金は、今のお金にして、わずか6万円(3円)だったとのこと。
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masa / 2007.04.26 07:01 / 推薦数 : 0
日本語で書かれていても、その通りに読まれていないことに、我々日本人は、気が付いていない。
例えば、漢方と言う場合、実際は、kanpooでなく、kampooと発音している。痰と見学の最後の「ン」の発音、違う。痰のンは、舌先が上に付いて発音しているが、見学のンは、舌先が上に付かない。この区別を、東南アジアの多くの国の人は、はっきりと意識して区別している。
ヨ一ロッパの言語では、「する」とか「行く」とかの動詞の変化は、いつも使われている関係か、極めて複雑に変化している。
日本語の場合も、「する」と「来る」は、特殊である。「ます形」で言うと、しますとなり、来ますとなり、初めの「す」も「く」も消えてしまう。
それ以外の動詞では、大きく二つのグループがある。
読む、聞く、書く、行くだと、「ます形」は、読みます、聞きます、書きます、行きますとなり、動詞が変化する時に、ますの前の言い方から変わる。
起きる、浴びる、食べる、寝るだと、るで終わっていて、るをますに変えるだけで、「ます形」になる。
次の濁音は、どちらが正しいか?
・地面は、ちに濁点か、しに濁点か?
・近々は、しに濁点か、ちに濁点か?
・縮むは、しに濁点か、ちに濁点か?
・三日月は、すに濁点か、つに濁点か?
・鼻血は、しに濁点か、ちに濁点か?
・うな( )くは、つに濁点か、すに濁点か?
正解は、全て、後の方である(し・ち・す・つ)に濁点の使い方は、一般に、二語の場合は、同音連呼以外は、じとずにすることになっているらしいが・・・)。(難しいなあ・・・)
長音に関しても、少し、紛らわしい。
氷や通りは、和語なので、こ「お」り、と「お」りと言い、効果や統一は、漢語なので、こ「う」か、と「う」いつと言い、カタカナ語の長母音は、全て、「一」を用いて、「コ一ト」「ニ一ト」などと言う。
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masa / 2007.04.25 06:44 / 推薦数 : 0
この上天草市では、今回の選挙で、5人の立候補者の中から、35歳の人が市長さんに選ばれた。又、先の県議の選挙でも、上天草市からは(一人定員)、やはり、35歳の人が選出された。
政治家としては、実に若い。しかし、アメリカでは、18歳の青年が政治家になっているが・・・?!
巷(ちまた)の噂では、二人とも同級生で、イノシシ年生まれで、イノシシの様に、合併した上天草市(県下の市の中で、一番借金の多い市となっているが)を、財政面などで変えようと張り切っているとのこと。
これからの4年間、大いに期待したい。
それにしても、宮崎県の東国原知事の人気は、スゴイものだ。彼の過去の出来事からは考えられない様な人格者と実力者になっている感じだ。こんな人がアチコチ出て来て欲しいが。
政治家がおかしいと言っても、選んでいるのは有権者。賢い有権者が賢い選択をして、政治家を選べば、いい政治が出来るだろう。自分のことしか考えない有権者からは、それなりの政治家しか選ばれないだろう。
過去を見てみると、あまり長くしていると、どうしも、しがらみが出て来て、いい政治が出来なくなってしまう様に思える。政治家は、二期で止め、政治をもっと続けたい人は、その実績で、又、別の所で政治家を目指せばいいと思う。
かっての佐伯市の出納菊二郎市長の様に、給料を全て市に寄付する様な大きな器の政治家は、もう出ないのかなあ。
今の政治家には、人一倍の鈍感さが必要かも知れないなあ。
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masa / 2007.04.24 16:24 / 推薦数 : 0

病院に隣接する老人施設で、演奏した。
小雨のせいか、とても篠笛の音が良かった。お年寄りの方々が、真剣に聴いてくれた。自分でも、上手く打てたと思って満足した。
初めに、5本調子の篠笛で、10曲ばかり、曲の一部を休みなくずっと吹いて行った。次に、古賀政男の曲である、「影を慕いて」「泣くな妹よ」「人生劇場」「悲しい酒」を吹いた。一緒に唄ってくれる人が次第に多くなってきた。
次に、バチを持って、「炭坑節」と「河内おとこ節」と「龍ヶ岳音頭」を打った。手拍子してくれる人が多かった。
それから、ハ一モニカで、「ふるさと」と「埴生の宿」を吹き、皆で一緒に歌う感じになった。
337拍子をして、7本調子の篠笛で、テープに吹き込んだピアノと篠笛に合わせて、篠笛の二重奏って感じで、「荒城の月」「さくら」「宵待草」を心を込めて吹いた。
最後に、自分の曲「飛翔」を15分間程、バチを3回換えて力一杯打った。
疲れたが(汗も沢山出たが)、何か、やり遂げた感じになって、久し振りにすがすがしい感じになった。
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masa / 2007.04.24 09:41 / 推薦数 : 0
耳鼻科と言うのは、開業医とちょっとした病院と、大学では、扱っている疾患が全く違っている。大学では癌が主体であり、脳外科と協力して手術もしている。耳鼻科は、耳、鼻、喉だと簡単に言うべきでなく、めまいや顔面神経麻痺やアレルギ一や食道や気管、更には、神経内科や脳外科の領域にも入っている。
○専門3年、3月3日(月)晴。
又、内科のポリクリが始まった。第二内科の佐藤教授のポリクリだった。臀部や背部の圧痛点で、消化器のどこが悪いかを上手に当てる。経験的に間違いないことが多いと言われる。先生はもうすぐ退官される。
○専門3年、3月4日(火)曇。
佐藤教授の最後の回診の日だった。話すと面白い感じの親しみやすいおじさんって感じだ。奥さんを癌で亡くして、その時に病理解剖をされた先生のお気持ちはどんなだったのだろうか。教授自身も、何度か手術を受けている。第二内科の雰囲気は、明るくて、先生達が親しみやすい感じだ。○原先生が、恵ちゃんのカルテを見せてくれた。クレアチニンクリアランスの値が低かった。7.3cmの遊走腎(右)があった。
○専門3年、3月11日(火)晴。
三内の雰囲気って、とてもいい。(講義のとっても上手な)永松助教授と下の先生が言い合っていたが、しかし、皆、心は通じ合っている。遠慮なく言っている。素晴らしい第三内科。ウイルス感染で昏睡状態になっている人の所に行った。帰って、ハイシ一といちごを二箱食べた。ビタミンCで、ウイルスをやっつけようと思って。医者ってとても危険な職業だと思う。特に、肝炎には注意しないと。
○専門3年、3月15日(土)晴。
結核病棟に行った。水泡音を聴いた。レコ一ドでは、聴いていたが、実際に聴いたのは初めてだった。医者って、ほんとに危険な仕事だなあ。
○専門3年、3月17日(月)晴。
臨床検査学の試験があった。糖尿病が出て、助かった。恵ちゃんから(神経診断で使う)ハンマ一を買ってもらった。
○専門3年、3月19日(木)晴。
(3月19日~3月29日まで、佐伯市にある健保病院の南海病院に行って、勉強させてもらった。将来、ここに就職するかも知れないと少なからず思っていたこともあって。事実、大学病院から佐伯にある病院に帰る時には、帰る直前まで、てっきりここに就職するものと思っていた。)
(前もって緒方院長先生から許可をもらっていた)南海病院に行った。内科は、織田先生、福元先生、渡辺先生、野村先生の4人で、福元先生は、僕と同じ鹿大出身だった。雰囲気が大学病院と全く違っていた。こんな世界もあるのだなあ(大川で働いていた時、南海病院で働いていた先生がいて、あそこは、南海病院でなく、南海楽園だったと言って、とても良かったと言って、ベタ誉めしていた。)。カルテを見ても、患者さんを診てもいいと言われた。嬉しかった。しかし、あまりにも量が多い。
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