masa / 2006.11.04 19:29 / 推薦数 : 1
22年間の、個人的な小児時間外外来患児の統計
時間外患児数 深夜患児数 入院患児数 時間外入院数 深夜入院数
昭和55年 1735 229 212 123 38
昭和56年 4205 396 878 445 108
昭和57年 3510 177 849 433 83
昭和58年 4906 316 1391 517 112
昭和59年 3918 203 1396 308 44
昭和60年 3497 247 972 284 68
昭和61年 3522 297 811 221 60
昭和62年 3696 317 792 198 43
昭和63年 4042 370 696 179 54
平成元年 3644 423 669 161 40
平成2年 3649 294 639 146 43
平成3年 5808 266 1415 601 110
平成4年 5559 178 1615 635 88
平成5年 4332 181 1595 624 84
平成6年 3874 227 1281 497 103
平成7年 4098 225 1217 508 104
平成8年 3587 171 895 352 71
平成9年 2718 125 646 287 56
平成10年 2112 119 685 252 51
平成11年 1523 178 351 145 23
平成12年 5570 818 165
平成13年 7317 968 211
平成14年 2483 311 70
総 計 89305 7036 19451
「西田病院」では、昭和55年4月1日~平成2年11月10日までの数です。
「たはら小児科医院」では、平成2年11月12日~平成11年5月31日までの数です。
「高木病院」では、平成11年10月1日~平成14年4月30日までの数です。
数字は、以上の3カ所での、私の救急ノ一ト上での統計です。
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masa / 2006.11.04 16:43 / 推薦数 : 2
飲みに、S先生と行った。何故、今、大学を出ようと思う様になったのかを言った。・・・人を本当に説得する手段としては、行動しかない。永くいれば、腕が落ちそうにあるし(専門馬鹿になる)、大学人になり切れば、人間的に駄目になりそうな気がする。自分の信じる道に進みたい。
以上は、自分が大学を去ることを決意し、その事で、S先生と飲みに出た時に書いた内容の一部(昭和54年6月27日)である。
S先生は、その時、医局長だった。
「一人で、そんな救急病院に行っても、苦労する。出なけりゃ良かったと後で後悔する。国内留学には、もうすぐ行けるし、出るにしても、論文を書いて、ティーテル(博士号)を取って、そして出れば、いい所があるし、・・・」
「もう、決めましたので、佐伯に帰ることを」と、私は言った。 ・・・・・
「もう、決めてしまったのか、・・・、そしたら、仕方ないなあ・・・」
・・・・・
この時、「トムの樹」というスナックで飲んで、二人とも、グデングデンに酔って、翌朝、すごく頭が痛かったことを覚えている。
それから、がむしゃらに西田病院で働き、数年経って、S先生(小児循環器の専門医で、宮医大がオープンする前に、東京女子医大に1年半いて、心エコーを得意とし、宮医大では、先生と一緒に心カテをし、循環器に関しては、私は、非常によく教えて頂いた)は、大学を去り、ある公的な病院の医長となられた(現在は、開業しておられる)。
宮崎での学会に行くと、いつも、何か自分に言いたそうな素振りを見せていた。大学を去ったS先生には、医局長時代の威圧さはなく、何となく、柔らかくなった感じに思えていた。機会があって、学会の懇親会の後に二次会に行くことになり、S先生の隣に座った(S先生が、意図的に自分の隣に来たが)。
「田原先生、先生にいつか言おう言おうと思ってきた。あの時、二人で、グデングデンに飲んで酔った時のこと、あんな言い方をしなければ良かったとずっと思ってきた。・・・田原先生が、大人だったよ。あれから自分も大学を去り、やっとよく分かるようになった。医者なんて、臨床が一番大事。患者さんを大切にしてこそ、医者。臨床が出来なくて、何で、医者か。臨床がちゃんと出来て、そして、余力のある人が研究をすればいい。それも、臨床に直接役に立つ研究を。・・・あの時、もっといい言い方をすればよかった。そのことで、ずっと気にしてきた。すまんかった」と、頭を下げて言われた。
その時、私は、S先生が、とても素晴らしい、人間味溢れる先生に思えてならなかった。
「いいえ、僕は、何も気にしていませんでした。気になさらないで下さい」と、私は言った。
学会で会うと、「田原君、まだ頑張ってるなあ。体こわさんように」と、いつも言ってくれる。
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masa / 2006.11.04 10:37 / 推薦数 : 3
医療の世界でも、何かおかしいと思って、やはりそうだったかってこと、度々ある。
例えば、解熱剤に、ボルタレンなどの強い薬剤をあげていて、冷たくなって来院した子、かなりいた。何で、こんな強いのがまかり通るのかなあって感じに思っていたら、やはり、インフルエンザだけでなく、(幸いに)普通の上気道感染症にも、使えなくなった。
ペリアクチンも、痰が引っ掛かって、危ない。特に、小さな乳児は。これも、早めに、国の方で指針を出して、適切な注意書きが必要になると思う。喘息発作だけでなく、乳幼児の細気管支炎や肺炎では特に。
又、咳が止まらないからとの理由で、小児に、リン酸○デ○ンなどの強い咳止めを処方して、痰が引っ掛かった状態で、苦しくなって来院したケースを何度も経験している。強い咳止めは、極めて慎重にするべきだと思うが・・・。
かって、下痢に、ロペミンの様な下痢止めの強いのがよく処方されていた。幸いに、今は、O-157の経験から、細菌性腸炎には、使用してはいけないことになったが。理論から考えれば、当然であったのだが。
喉が赤くて熱があると言うだけで、3歳未満の小児に抗生物質が投与されるケースがまだあると思う。しかし、その後、そんな子ども達を沢山診ていると、どうも、抗生物質を上げた方が、その後、何度も受診していることに気が付く。そんな経験を持っている医師は、結構、多いと思う。個人的には、セ○ゾ○は、凄く強いので、怖い感じを持っている。
親が医師を信じないと、親が子どもに強い愛情を持っていないと(親が付き添っていないと)、親が慌てていると、熱が、なかなか下がらない気がしている。これを証明するのは、大変だけど、年齢が小さければ小さい程、経験的に、そんな気がしている。
早く、インフルエンザ桿菌のワクチンが出来る様に、国が動いて欲しい(何で、先進国で、日本だけ、こんなに、遅れているのか?!)
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masa / 2006.11.04 08:40 / 推薦数 : 0
平成18年11月3日、民放で21時から、モーツアルトのことが2時間も放映されていた。この番組で、別の角度でモーツアルトを見ることが出来た。
遺伝と環境と教育、この3つが運よく揃っていた。モーツアルトは、7人兄弟で、その内、5人もが小さい時に、病気で亡くなっている(この時代は、ヨーロッパでは、二人に一人が死)。モーツアルトも、天然痘や腸チフスにかかり、又、リウマチ熱には、死ぬまで悩まされていた様だ。
母が旅先で亡くなり、モーツアルトの長男、三男、次女が、亡くなり、そして、父が亡くなって、モーツアルトは、亡くなっている。
父が宮廷演奏家であったことより、又、父がモーツアルトの才能を早くから見抜いていたことより、生まれる前から、お腹の中でいい音楽を聴き、英才教育が小さい時から父により始められている。父は宮廷演奏家であると同時に、モーツアルトにとっては、最高の教育者であったのだ。絶対音感は、3歳~4歳から始めると、50~60%、8歳~9歳では、わずか5~10%しか育たないとのこと。
彼は、5歳の時から、馬車で旅をしている。その期間は、10年と2ヶ月、35年間生涯の3分の1も、旅行生活をしているのだ。旅により、いろんな発見や人との出遭いや別れを経験し、創造性が生まれている。
小さい時から、自分の力で積極的に曲を創ることで、皆の絶大なる賞賛を得ることが出来ていい思いをすることが出来ることを沢山体験し、それ故、自分の技術を卓越したものにしたいとの強い追求心を死ぬまで持ち続けた人、それがモーツアルトであった。
つまり、小さい時から誰も経験できない様な現場主義での経験が、扁桃体と海馬と感性の中枢の脳の部分を能率的に強固に結びつけ、更に、その後、失恋や親や子どもの死や経済面での生活難や世間の冷たさなどのいろんな経験が、最高の名曲の数々をモーツアルトにプレゼントしてきたと思われる。
小さい時から、神童と言われ、6歳の時に、女帝の前で、演奏している。皆を驚かせ、皆から大拍手をもらい、愛され、認められる。これが、彼に自信を持たせ、彼を非凡な人間へと成長させることになっている。脳は、小さい時であればある程、その様な体験をすると、もっともっととそれ以上のことを望む様になる。音楽脳では、左右の脳をつなぐ脳梁の前方が大きく、モーツアルトの場合、側頭平面が小さい時からの訓練により、著しい左右非対称の状態にあったと思われる。
今の多くの日本の子ども達の様に、いやいやながら小さい時から勉強をさせられ続け、それも、他人よりも出来ることで優越感を持ち(他人を傷つけ)、大学に入るまで、単なる受験テクニックだけの秀才で終われば、その先、悲しい運命が待っているかも知れない。
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