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masa / 2006.09.30 19:34 / 推薦数 : 1
・昭和24年5月28日生。大分市。
・昭和43年3月、大分県立佐伯鶴城高校卒
・2年間予備校(英数学館&修猷学館、今は、両校共に廃校)
・昭和45年4月 鹿児島大学医学部入学(ニ期校)
・昭和51年6月~昭和52年9月 宮崎県立宮崎病院小児科研修医
・昭和52年10月~昭和55年3月 宮崎医科大学文部教官助手
・昭和55年4月~平成2年11月12日 大分県佐伯市西田病院小児科部長
・平成2年11月14日~平成11年5月31日まで、 「たはら小児科医院」院長 として、19床の小児科単科で、小児救急を中心に診療。
・平成11年10月~平成14年5月まで 福岡県大川市 救急指定病院:財団医療法人「高木病院」小児科部長
・平成14年5月~平成16年7月 大分市 戸次
救急指定病院:特定医療法人「天心堂へつぎ病院」小児科副部長
・平成16年8月~平成1 7年7月 無職(一人で、チェンマイ、オークランド、釜山、ダッカ、クアラルンプール、バリ、フィレンツェ、バンクーバー、トロントを語学研修の為に旅をする。チャンマイとオークランドとダッカでは、篠笛・和太鼓演奏する)
・平成17年8月~現在 熊本県上天草市龍ケ岳町 救急指定病院:「上天草市立上天草総合病院」小児科部長
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masa / 2006.09.30 07:55 / 推薦数 : 3
月曜(○月25日)の午前中から不在にし、金曜の17時から、仕事をしている(金曜の18時半過ぎに帰り着く)。その間、入院が5人いて、金曜も、17時から、5人来て、一人クループで入院した。
金曜の深夜と今日(○月26日)の0時過ぎに、小児科二人来ていたが、当直の先生が診ていた。朝、病棟に行くと、昨日入院した子ども、少し元気になっていた。
10月と11月は、スーパーローテートの研修医が、小児科で研修する。その先生のことで、昨日、も一人の小児科の先生と、又、研修する本人とも話した。
小児科の入院、2カ月だと、50人を超えると思われる。その全ての主治医になってもらうことで、ほぼ、話が決まりそうだ。
今は、二人主治医制にしていて、初めに診た小児科医が、第一主治医になるが(指示をし、まとめを書き、何かの時は、連絡がそこに行く)、も一人の第二主治医も、時々、勝手に診察して、カルテに書き込んでいる(一緒に診ることもある)。ここでは、カルテは、皆のもの、患者の経過は、オープンにしている。
10月から2カ月間は、三人主治医制にしようと思っているが、一応、研修医の研修担当の医師と院長の了解を得ないといけない。私達小児科医二人がみっちりと指導して行けば、実りある研修が出来ると思う(状況を見て、第一主治医にも、なってもらおうと思っている)。
問題は、やる気と周りの状況がよく理解できること。知識や技能は、若い人であれば、すぐに身に付く。既に、1年半の研修を他の科で終えている。
ところで、この研修医、笑顔がいいし、とても礼儀正しいし、高校生の時に、全国制覇の(個人での)クイズ王になっている(スゴーイ)。昨日、内科の上の先生と将棋を2番指していて、2番共、堂々と勝っていた。自分がしても、負けそうだなあ・・・(いつか、この先生と指すつもりだが、当たり前だが、将棋の世界には、研修医も指導医もない)。
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masa / 2006.09.29 06:32 / 推薦数 : 0
佐伯市とホノルル市が、友情都市の関係になり、その為に、フレンドシップシティ調印式が、平成15年12月8日に行われることになり、市長以下佐伯市民約40名が、その調印式の為に、参加した。
この時、私は、5カ所で、演奏することが出来た。
・12月7日の午前中、「カネホヘ空軍基地」の飯田(いいだ)中佐の墓の前で。
・12月7日の午後、「パンチボウル(共同墓地で、普段は、車は、走行中に、止めることが出来ない程の神聖な場所)」の頂上で。
・12月7日の夜、松尾ハワイ親善大使の自宅で。
・12月8日の午前中、ホノルル市庁舎での「佐伯市・ホノルル市のフレンドシップ調印式」の時に。
・12月9日の夜、最後の集まりで。
その中で、一番思いで深いものとなったのは、飯田房太中佐(山口県出身、享年25歳)の墓の前での演奏。
飯田中佐は、自分の飛行機が既に母艦に戻ることが(自分の飛行機の燃料タンクの個所がアメリカ軍に攻撃された為に)不可能と判断すると、まず、部下に帰る方向を指示し、部下が戻って行くことを確認して、自分だけ方向転換して、「カネオヘ空軍基地」の弾薬庫に(相手の被害を大きくする為に)突っ込んで自爆したのである。そんな彼を、アメリカ軍側は、その場所に、墓を作って弔っていた。アメリカ軍の心温まる厚意に感謝すると共に、若くして部下を思い、国を思い、戦争の為に、尊い命を無くした、名も知れぬ一人の日本人の存在を知って、私は、(上手に吹こうとか、格好良く吹こうとか、そんなことは、全く頭にない状態で)その時の状況を察しながら、彼のことを真剣に考えて、(太鼓の黒い服に着替えて、靴も換えて)心を込めて演奏した。
小雨の降る中、篠笛から「さくら」の曲が流れた。ある女性(60歳)は、言った「先生、涙が止まらなかった。」と。又、ある男性(57歳)は、言った「自然と涙が出て来た。」と。そして、ある年配の人(ウナバラカイの会員の人)は、「飯田中佐は、こんな所まで見知らぬ日本の人が来て、自分の為に演奏してくれたことに対して、凄く喜んでくれたと思いますよ」と。
今まで、あちこちで演奏して来たが、この時ばかりは、今までと違った感じに思えた。
その後、その時から、凄い大雨となった。1996年以来とのことで、高速道路の一部が通行止めとなり、子どもが4名流され(幸いに、助かったが)、今まで断水で苦しんできたホノルル市が、全く逆の状態となった。
同行していた教育長は、私に言った。「先生、これは、彼の涙ですよ。嬉し涙ですよ。」と。
*赤松さんが、真珠湾で飛行機からアメリカの艦隊を攻撃した時、フィスケさんは、艦隊の上でトラッペットを吹いている最中だった。突然、海の中へ投げ出され、九死に一生を得ていた。赤松さんも、その後、何度か、戦争で海に投げ出され、多くの旧友が死んで行く中で、奇跡的に生き延びて来た。その二人が、ホノルルの自宅に行き、病床に就いているフィスケさんを赤松さんが見舞いに行き、涙ぐんで握手していた。
以下は、平成15年12月4日の西日本新聞に掲載された内容。
真珠湾攻撃
1941年12月8日(米現地時間7日)、空母を主力とした旧日本海軍の連合艦隊を飛び立った攻撃機が、米ハワイ・ホノルル市の米軍太平洋艦隊を攻撃。戦艦4隻を撃沈し、米兵約2300人が死亡。真珠湾攻撃を引き金に太平洋戦争に突入した。佐伯市史などによると、連合艦隊は11月上旬、佐伯湾を真珠湾に見立てた最後の訓練後、佐伯湾を出航。北海道・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結し、真珠湾へ向かったとされる。
「真珠湾」平和の砦に 出撃地・佐伯市 ホノルルと友情都市 9日締結 日米元軍人の交流が縁
太平洋戦争の引き金となった真珠湾攻撃から六十二年。連合艦隊の主力部隊が出撃した大分県佐伯市と米ハワイ・ホノルル市が九日(米現地時間八日)に「フレンドシップ・シティー」(友情都市)の調印を行う。イラク情勢の泥沼化やテロの多発など国家、民族間の紛争が絶えない中、真珠湾攻撃の“怨讐(おんしゅう)”を超え、地方都市から平和の砦(とりで)を築いていく。
両市を結んだのは、佐伯市在住の旧海軍パイロット、赤松勇二さん(83)。真珠湾攻撃で米戦艦に魚雷を投下した。
戦後五十年の節目を迎えた一九九五年八月。ホノルル市であった日米合同慰霊祭に招かれた。真珠湾攻撃で九死に一生を得た元米兵リチャード・フィスケさん(81)と出会い交流が始まった。
「二十一世紀にわだかまりをひきずってはいけない」。赤松さんは地元の子どもたちをハワイに連れていくなど草の根交流を続けた。二人の行動に行政も動かされた。佐伯市が友情都市締結を持ち掛ける親書をホノルル市に送り、「歓迎」の返事が今年六月に届いた。
佐藤佑一・佐伯市長を団長とする訪問団は五日、ハワイへ出発。パールハーバー式典に出席した後、九日(現地時間八日)の調印式に臨む。
両市で交わされる「平和友好交流協定書」は「真珠湾を共有する両市が英知を結集し、ミニサイズの交流推進に努め、世界に向けて平和友好交流の範を示す」とうたっている。佐藤市長は「不安定な国際情勢のなかで、世界中の人々に力強いメッセージを送りたい」と平和交流をアピールする。
フィスケさんは九七年、佐伯市の平和祈念館にネムノキ四本を贈った。そのネムノキは今年五月、初めてピンクの花を咲かせた。
追加:残念なことに、赤松さんもフィスケさんも、今は、故人となられています。ご冥福をお祈り申し上げます。
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masa / 2006.09.29 06:23 / 推薦数 : 0
熊本駅の近くのホテルのロビーでこれを入れ込んでいる。すごい時代になっているなあと思う。タイやインドネシアやバングラデシュに行っても、インターネットが出来た。気の利いた日本のホテルでも、もちろん、インターネットが出来る。
携帯も凄いと思っていたが、このインターネットの普及は、正に、多くの日本人の生き方を変えていると思う。インターネットの普及は、カナダやニュージーランドでは、日本以上で、中国や韓国も、日本以上になっている気がしている。何せ、日本では、小学校や中学校で、まだ、上手にパソコンが出来ない先生方が時々いる様だ。もっと、それぞれの学校のホームページを充実させるべきだと思っているが・・・。
団塊の世代が、その前の世代と大きく違う所は、このパソコンを使っているかどうかだと思う。ワードやエクセルを少なからず使える団塊の世代は、結構多い。
今からは、情報の時代。自分で確かめるのが一番確かではあるが、それには莫大な時間が必要。如何にして有益な情報を得るかだ。その手段として、インターネットは、必需品である。
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masa / 2006.09.28 10:35 / 推薦数 : 0
徳川家にとっては、世継ぎの問題は、極めて深刻であった。何せ、幕府予算の4分の1は、大奥に当てられていた。そこへは、将軍以外、男は誰も入れなかった。
徳川家の直系は、5代で途切れ、甲府の家宣(いえのぶ)が6代目の将軍になった。家宣の妻は、煕(ひろ)子。夫婦は、甲府で睦まじく生活していたが、江戸に入るとその生活は一変し、煕(ひろ)子は、将軍の正室として大奥のトップとして君臨し、家宣には、4名の側室があてがわれた。正室と言えども、夜は、30才以上にもなると、将軍と一緒に夜を過ごすことは出来なかった。
家宣の側室のお喜世25才に、男児が生まれた。家宣は、51才で亡くなり、7代目に、お喜世の子である家継が継いだ。しかし、家継は、まだ、その時わずか4歳であった。
慣例では、将軍が亡くなれば、煕(ひろ)子は、そこを出なければいけなかったが、家宣は、幼い家継が一人前になるまで、煕子に、ここに残る様にと、亡くなる前に告げた。
煕(ひろ)子は、天英院(てんえいいん)と名乗り、そこで、家継の世話をした。お喜世は、月光院(げっこういん)と名乗り、意の欲しいままに振るまい、天英院を冷たくあしらい、男に興じ、それは、江戸中の庶民の噂にもなった。
家継は、体弱く、幼少でなくなる運命にあり、次の8代目の問題で、幕府存亡の危機に陥った。家継がこの様に、か細く病弱に育っているのは、大奥の責任だとの批判がなされ、大奥の存在を否定する意見までも出た。
直系がない為に、やむなく、徳川御三家から選ぶ事になった。尾張、水戸、紀州のどれから選ぶか、江戸の幕府は、大いに振れた。
その時、天英院は、こともあろうに、武士の上役を呼び、紀州の吉宗を8代にと提案した。その理由を、「家宣が普段から、その様に願っておりましたので」と説明した。その意見に逆らう者はなく、すんなりと、8代目に吉宗と決まった。
紀州から吉宗が江戸城に出向き、吉宗にその旨を言うと、吉宗は、断った。しかし、ここでも、天英院は、「家宣が普段から、その様に願っておりましたので」と言うと、吉宗は、その言葉に逆らえない感じとなり、すんなりと承諾してしまった。
女性が将軍を誰にするか決めたこと、日本の歴史上、極めて珍しい出来事。
(平成18年9月27日のNHKその時歴史が動いたより)
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masa / 2006.09.28 07:23 / 推薦数 : 0
日本の名字は、中国や韓国と比べると、比較にならないほど、多い。
多い順に、佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、山本、中村、小林、加藤と10番まで続き、以下、吉田、山田、佐々木・・・と続く。
名字の由来の中に、1700年前の古墳時代に、仕事(地位や役職)から生まれた名前がある。
村主(すぐり)は、村長から。矢作(やはぎ)は、矢を作る人から。鳥飼(とりかい)は、鷹の調教師から。犬飼(いぬかい)は、犬の調教師から。錦織(にしきおり)は、錦の製作者から。公文(くもん)は、公文書の管理者から。
一番多いのは、地名から出来たもので、全体の8割も占める。そのルーツを解くのは、難しいが・・・。
渡辺は、大阪の渡辺橋から。南原は、香川県高松市南原町から。小杉や小倉や柴田や竹内も同じ感じで出来ている。藤原もそうであるが、元は、平安時代に栄える藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から。あちこち、その子孫が散ったが、藤原の血を残したいが為に、その地方の名と藤原の藤を一緒にして、栃木県の佐野からは、佐藤が、三重県の伊勢からは、伊藤が、石川県の加賀からは、加藤が、静岡県の遠江からは、遠藤が、滋賀県の近江からは、近藤が、広島県の備後からは、後藤が、栃木県の那須からは、須藤が、愛知県の尾張からは、尾藤の名字が生まれた。
風景から生まれた名字もある。
田中は、田んぼの中から、鈴木は、和歌山県の方言で、稲を干したものをスズキと言い、それから生まれていて、その総本家があり、残念なことに、122代目で、途絶えている。
三河地方に行った鈴木家が繁栄して、徳川家康と親しくなり、その家臣になってものが多く、徳川家康と江戸に付いて行った関係で、愛知県、静岡県、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県では、今でも、そこでは、一番多い名字になっている。
珍しい名字としては、鼻毛、肥満、一(にのまえ)、九(いちじく)、日本、金持、正直、無敵、黄金、浮気などがある。
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masa / 2006.09.27 21:02 / 推薦数 : 0
陶芸展で、偶然に、家内の華道(草月流)の先生に会った。先生の名字は、佐倉。草月流の先生でもあり、お茶の先生でもある。NHKの夜の「トップランナ一」の番組で、つい最近、息子さんが出演されていた。
息子さんの名前は、「サクラ・ヤスユキ」、今や、日本だけでなく、世界のアーティストとして有名になっている。
佐倉先生に私は言った、「息子さん、NHKのトップランナ一で、見ましたよ。凄いですね。息子さんの言われたことで、2つ、とても印象に残ったことがありました。一つは、アーティストとして大切なことは、どうしてもそれを表現したくてたまらないと言う強い衝動を持ち続けられること。もう一つは、どちらかに選択しなければいけない時、どちらかに決定を下したことに意味があり、そして、決めた選択に後悔をしないことと言われました。素晴らしいですね。」と。
佐倉先生にそう言うと、とても嬉しそうだった。
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masa / 2006.09.27 15:40 / 推薦数 : 0
お茶の師匠(裏千家名誉師範)と、昼、食事を共にした。85才で、元気そのもの。師匠は、「周りから、元気に生きていてくれるだけで、有り難いので、出来るだけ長生きして欲しいと言われる。これも、お茶をしてきたお陰だと思う。」と言われる。
今年の10月から、佐伯東小学校に行って、bボランティアで茶道を教えることになっているとのこと。今、佐伯市では、6ヶ所で、総合学習の一環として、お茶の先生方が、お茶の作法を教えている。東小学校では、茶道以外に、お花とマンガも、総合学習の中に今回から入るとのこと。
先生は、歳をとっても、気がしっかりとしていれば、ある程度まで、元気でいられることを周りに示したいと言う。85才では、まだ、青春。100歳で、やっと年寄りの仲間に入れると思っていると言われる。過去のことを余り話そうとしない。先のことを話されることの方が多い。
今日の師匠の話の中で、次の2つのことが、とても印象的に残った。
その1、しつけとおしつけ
「しつけ」と「おしつけ」は、全く違う。躾は、身を美しくすると書いて、字の如く、親が子に、生きる上での基本的なことを教えること。挨拶をすることや箸の持ち方などは、躾。おしつけとは、押付と書いて、教えられる方は迷惑に思っているのに、周囲から押しつけられること。子どもに小さい時から塾通いさせたり、いやいやながら英才教育をさせ様とするのは、おしつけ。正に、しつけにおがついたものは、不必要のおしつけ。
今の時代は、「しつけ」と「おしつけ」を混同している親が多い。昔の様に、三世代が同居していると、いい躾が出来ることが多い。しかし、核家族では、それは、難しい。核家族で、親が仕事に出ているとなると、尚更難しい。それに、飽食の時代で、モノが豊富になっているから。理想的には、ほどほどの金持ちか、ほどほどの貧乏がいい。
その2、教育では、上と下の関係を、はっきりしておくべし。
○○高校の校長先生が、学校の前の道路の掃除をしていた(師匠の家は、道路を隔てて、この高校の前にある)。で、師匠は、「ここの学校は、生徒に掃除させないで、先生にさせるのですか?校長先生は、自分の校長室を掃除するのはいいかも知れませんが、それ以外は、生徒にさせるべきですよ」と言った。そしたら、しばらくして、校長先生の姿はなくなり、生徒がホウキを持って門の前の掃除をしていた。しかし、掃除機にしか慣れてない生徒達、ホウキの基本的な使い方も出来てなかった。ホウキの使い方ぐらいは、家庭で躾けておくべきこと。
教育では、上と下の関係をはっきりさせておかなければいけない。教わる方が上に立っていて、教育が上手く行く訳がないと。
ムムッ、師匠の意見、なるほどと思った。
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masa / 2006.09.27 05:08 / 推薦数 : 0
動物村に、カバの歯医者さんがいました。待合室では、今日も、治療を受ける沢山の動物達が、ヒソヒソ話をしています。
「全然、あの先生、笑わないね」
「恐そうな目付き、してるね」
「道で会っても、笑わないよ」
「おっかないなー、もう、帰ろうか」
しかし、この村には、歯医者さんは、このカバの歯医者しかいないのです。交通の便利も悪く、皆、仕方なく、ここに来るしかないのです。
実は、このカバの歯医者さん、長い事、歯の痛みで、苦しんでいたのです。歯医者さんは、自分一人だけの為、休む暇なく、ずっと我慢してきました。いろんな事を試みました。逆立ちしたり、痛みがとれると言う薬を飲んだり、温めたり、口を動かさなかったり、しかし、どの方法を取っても、日増しに悪くなるばかりでした。
とうとう、我慢できなくなって、意を決しました。「よし、隣の村に行って、歯の治療をしてこよう」と。そう思うと、何年か振りに、休診の張り紙を入り口に貼って、隣村のワニの歯医者さんの所に何時間も掛けて行きました。
すると、どうでしょう。そのワニの歯医者さんの待合室で、沢山の動物達が、話していました。
「ここの先生、恐いってなあ」
「一言も、説明がないらしいよ」
「笑った事、誰も、見たことないなあ」
「どうしようかなあ、もう、帰ろうかなあ」
カバの歯医者さん、恐くなりましたが、しかし、この村も、歯医者さんは、このワニの歯医者さんだけです。後は、数日間掛けて、舟で大きな町に行くしかありません。
「ここまでせっかく来たのだから、治してもらおう」、そう思ったカバの歯医者さんは、そこで、長い順番を待ちました。
会うと、ほんとに、ワニの歯医者さん、とても恐そうでした。しかし、痛そうな顔をして話していることに、カバの歯医者さんは、仕事柄気が付きました。
「歯が痛いんでしょ」と尋ねました。
実は、このワニの歯医者さん、永い事、口が開けられないくらいに歯が痛くて、我慢していたのです。
お互いに、歯医者さん同士で、歯を見ました。お互いに、「どうしてこうなるまでほおっていたの」と驚いて言いました。そして、お互いに治療しました。
それから、カバの歯医さんの待合室でも、ワニの歯医者さんの待合室でも、笑顔の患者さんが多くなり、カバの歯医者さんもワニの歯医者さんも、ニコニコして仕事ができる様になりました。
これ、歯医者さんの待合室にあった絵本の内容です。題は、「わらって、カバのはいしゃさん」で、さくらともこ作でした。
このプログも、同業者同志、カバの歯医者さんとワニの歯医者さんとの関係の様に、傷を舐め合っているのかも知れないなあ、・・・?!
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masa / 2006.09.26 11:19 / 推薦数 : 1
昨日遅く、佐伯に帰って来た(11時40分のバスに乗って、松島まで行き、そこで乗り換えて、熊本駅までバスで行き、そこから九州横断特急の電車に乗って、大分に17時37分に着き、そこで、家内と食事をして、20時15分に佐伯駅に着いた)。帰る直前、勘違いしていて、医師会の学会に出すべき抄録を書いていなかったことに気が付いた。期限が、昨日までだった。
で、今日、それを書き、ファックスで午前中に送り、メイルでも送った。便利のいい時代だなあ。どこにいても、それなりに、仕事が出来る感じだ。
ある会社の社長が、殆ど会社にいなくて、ゴルフなどで忙しい日も、ちゃんと、それなりに、社長のメッセージが社員に通達されていた。 どういうことかと言うと、ゴルフをしながら、秘書が社長の言うことをメモしているのだ。で、それが、社員に通達されているのだ。
ある社長は、社長室を持っていなく、常に、パソコンを持ち歩いているとのこと。今は、そんな時代になっているのだなあ・・・。
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