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江戸城は4月11日をもって
正式に引き渡された (慶喜は水戸藩に)
(しかし、幕臣で恭順を喜ばないものは)
上野に拠って彰義隊と称し
兵力三千を数えた・・・討伐したのは隆盛と大村益次郎
(略)このあと、奥羽に、北越に
いわゆる戊辰戦争が行われた(178~179p)
慶喜はひそかに大坂城を抜け出し
その夜は米国軍艦にかくまわれ
ついで海陽艦に移って
江戸へ逃げ帰った(173p)
慶喜をかくまったのは米軍だったんすな・・・
山内容堂が、まず大声を発して
武力討幕派と渡りあった(164p)
(ウィキペディアより)
同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した。また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したことに対して、徳川氏を中心とする列侯会議の政府を要求した。松平春嶽が同調したが、ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖があり、その上に酒乱状態の容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」などと発言してしまった。堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されてしまった[1] [2] [3]が、泥酔状態の容堂にまともな返答ができるはずもなく、会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派すなわち討幕強行派のペースで進んだ[1] [2]。
安藤英男著人物文庫1997(単行本は1988)
岩倉・大久保・木戸らが欧米から帰朝する前の
(いわゆる西郷内閣での)
西郷・江藤・副島らの政治は
大久保らの政治に比べ
はるかに近代的・民主的であって・・・(15p、はじめに、より)
1862・・・久光、軍を率いて上京・・・一橋慶喜が将軍後見職に・・・(外様大名の父が幕府の最高人事に介入)
会津藩主松平容保が京都守護職に
久光の帰路に生麦事件@横浜
京都では長州が「天誅」
1863・・・将軍家茂上洛・・・攘夷決行を朝廷に迫られて・・・これをきっかけに政治の主導権は幕府から朝廷に
(政治総裁職松平春嶽は怒って越前=福井に帰ってしまう?)
5月10日に攘夷決行の号令・・・長州は下関で砲撃
長州は討幕まで計画するが、気乗りしない天皇の意向で
「8月18日の政変」@薩摩&会津・・・長州追放
(家茂とともに上京した「浪士隊」は尊王攘夷を旗印に江戸へ戻ろうとしたが、反対した近藤勇らが京都に残り会津藩の下に「新選組」を結成)
高杉晋作の騎兵隊旗上げもこの年
(当時アメリカは南北戦争、中国は太平天国の乱)
(当時の朝鮮半島はどんなんやったんかな?・・・)
磐城平藩主で井伊時代末期に老中に
御三家のひとつ水戸藩と譜代筆頭の彦根藩の争いを
公武合体路線で乗り切る
1860・・・和宮降嫁が決まる
1861・・・外国人襲撃相次ぐ
1862・・・安藤暗殺未遂・・・坂下門外の変
老中(今でいえば閣僚?トップ格の老中=総理大臣というカンジか)の定員は4~5名
(水野忠邦は老中になるため浜松に国替えしてもらっていた・・・1828年35歳で老中に)
1844年通商国オランダの国王より開国勧告・・・復権していた水野忠邦は受け入れる方向だったが
保守派の新進気鋭の老中阿部正弘は強硬に反対
1852年オランダ商館からのペリー来航警告も握りつぶし
1853年にペリー来航・・・その場しのぎ的な対応
(しかし攘夷にうるさい水戸斉昭を懐柔してゆるやかな開国路線でまとめた)
1856年・・・日米和親条約・・・総領事ハリス下田に
1857年・・・阿部正弘39歳で没
(次の実権者は9才年長の佐倉藩主・堀田正睦)
(ウィキペディアより)
安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、堀田は手ぶらで江戸へ戻ることとなった・・・(失脚 )
(大老というのは老中より上というわけではなく彦根藩の名誉職のようなものだったが、井伊直助が条約調印と将軍後継問題を一挙に解決・・・憤る反対派を大粛清=安政の大獄1858~1859・・・収まらない水戸藩は直弼を暗殺=桜田門外の変1960)
県民性ものが大流行だが
上杉鷹山(ようざん)はどこの出身かというと
(山形県米沢?・・・マチガイである)
(日向高鍋藩秋月家からの養子ゆえ・・・それなら宮崎県人?)
それもマチガイ・・・なんとなれば、江戸生まれで
高鍋には足を踏み入れたことすらない
(略)阿部正弘など福山に滞在したのは一度きり(半年だけ)で
現在の二世代議士とそっくりである(16~17p)
前掲書95~112p
前回:http://blog.m3.com/saikodoku/20100201/7
明治元年のことである
官軍が江戸城を攻撃するため
上方から東上してきた
(新選組は鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻っていた)
幕府は(近藤勇を甲府に行かせ)官軍を食い止めるよう命じた(97p)
官軍の先鋒は戦(いくさ)上手で知られた板垣退助・・・
(戊辰戦争の緒戦が鳥羽伏見の戦い)
さて、一方の明智光秀は
(略)10日には筒井順慶の参会を待つため
山崎を見おろす洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を敷いていた
もちろん、順慶はやってこない(385p)
13日に山崎の合戦が始まる
筒井順慶: