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2010年代の日本で
闘えない少年を闘争の方向に導くのは
カルト教団ではなく
排外的ナショナリズムの可能性が高い
ひきこもったシンジが
脳内彼女と仮想恋愛を続けうるなら
世界は依然として平和だ(35p)
ルルーシュ@コードギアス:
江戸城は4月11日をもって
正式に引き渡された (慶喜は水戸藩に)
(しかし、幕臣で恭順を喜ばないものは)
上野に拠って彰義隊と称し
兵力三千を数えた・・・討伐したのは隆盛と大村益次郎
(略)このあと、奥羽に、北越に
いわゆる戊辰戦争が行われた(178~179p)
慶喜はひそかに大坂城を抜け出し
その夜は米国軍艦にかくまわれ
ついで海陽艦に移って
江戸へ逃げ帰った(173p)
慶喜をかくまったのは米軍だったんすな・・・
1866年6月・・・第2次征長・・・この年正月すでに薩長は結んでいた・・・龍馬の斡旋
大村益次郎率いる長州軍に石州口で浜田城が陥落させられるなど敗報相次ぐ中で
7月・・・将軍家茂、大坂城にて亡くなる・・・休戦に
12月・・・孝明天皇が崩御・・・慶喜には大打撃(68~69p)
京都では尊王攘夷派のテロが続き
開国派のイデオローグ佐久間象山などが犠牲に
対して6月には新選組が反撃して長州浪士らを切った池田屋事件
7月・・・禁門=蛤御門の変・・・久坂玄瑞ら長州兵敗れる
(久留米出身の真木和泉は天王山にて新選組により・・)
8月・・・四国艦隊の下関砲撃
11月・・・第一次征長・・・大将は松平容保の兄・尾張慶勝
(会津の長州への処分の苛烈さは、京都市民や諸藩の長州への同情を招いた)(62~64p)
1865年:http://plaza.rakuten.co.jp/azabird/diary/201205100007/
1866年:http://plaza.rakuten.co.jp/azabird/diary/201205110003/
1862・・・久光、軍を率いて上京・・・一橋慶喜が将軍後見職に・・・(外様大名の父が幕府の最高人事に介入)
会津藩主松平容保が京都守護職に
久光の帰路に生麦事件@横浜
京都では長州が「天誅」
1863・・・将軍家茂上洛・・・攘夷決行を朝廷に迫られて・・・これをきっかけに政治の主導権は幕府から朝廷に
(政治総裁職松平春嶽は怒って越前=福井に帰ってしまう?)
5月10日に攘夷決行の号令・・・長州は下関で砲撃
長州は討幕まで計画するが、気乗りしない天皇の意向で
「8月18日の政変」@薩摩&会津・・・長州追放
(家茂とともに上京した「浪士隊」は尊王攘夷を旗印に江戸へ戻ろうとしたが、反対した近藤勇らが京都に残り会津藩の下に「新選組」を結成)
高杉晋作の騎兵隊旗上げもこの年
(当時アメリカは南北戦争、中国は太平天国の乱)
(当時の朝鮮半島はどんなんやったんかな?・・・)
磐城平藩主で井伊時代末期に老中に
御三家のひとつ水戸藩と譜代筆頭の彦根藩の争いを
公武合体路線で乗り切る
1860・・・和宮降嫁が決まる
1861・・・外国人襲撃相次ぐ
1862・・・安藤暗殺未遂・・・坂下門外の変
老中(今でいえば閣僚?トップ格の老中=総理大臣というカンジか)の定員は4~5名
(水野忠邦は老中になるため浜松に国替えしてもらっていた・・・1828年35歳で老中に)
1844年通商国オランダの国王より開国勧告・・・復権していた水野忠邦は受け入れる方向だったが
保守派の新進気鋭の老中阿部正弘は強硬に反対
1852年オランダ商館からのペリー来航警告も握りつぶし
1853年にペリー来航・・・その場しのぎ的な対応
(しかし攘夷にうるさい水戸斉昭を懐柔してゆるやかな開国路線でまとめた)
1856年・・・日米和親条約・・・総領事ハリス下田に
1857年・・・阿部正弘39歳で没
(次の実権者は9才年長の佐倉藩主・堀田正睦)
(ウィキペディアより)
安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、堀田は手ぶらで江戸へ戻ることとなった・・・(失脚 )
(大老というのは老中より上というわけではなく彦根藩の名誉職のようなものだったが、井伊直助が条約調印と将軍後継問題を一挙に解決・・・憤る反対派を大粛清=安政の大獄1858~1859・・・収まらない水戸藩は直弼を暗殺=桜田門外の変1960)
幕末というのを「天保の改革」からと考える・・・1941年=天保12年
(アヘン戦争は1940年)
1942・・・薪水給与令・・・(無二念打払令は1925)
水野忠邦は肥前唐津藩主の子として江戸屋敷で生まれた
(将軍家斉の死後実権を握る・・・48歳)
狙いは国防のための財源の確保
それゆえ日本のビスマルクというべき人物だが
富国強兵路線に失敗
「上知令」への非難囂々の中で解任される(42~44p)
県民性ものが大流行だが
上杉鷹山(ようざん)はどこの出身かというと
(山形県米沢?・・・マチガイである)
(日向高鍋藩秋月家からの養子ゆえ・・・それなら宮崎県人?)
それもマチガイ・・・なんとなれば、江戸生まれで
高鍋には足を踏み入れたことすらない
(略)阿部正弘など福山に滞在したのは一度きり(半年だけ)で
現在の二世代議士とそっくりである(16~17p)