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< 自我の病理と他者の出自 | メイン | つつぬけ体験 >
「私は無くて、機械に動かされているのが私」という分裂病者の言明を
「私は私」というフィヒテ的命題と比較してみると
空虚な同語反復的命題である後者を、前者が実に的確に充実させているのが見てとれるであろう
「私」はもともと無くて、言語という「機械」によって造られた物が「私」なのである
「私」はもとの「私」の側からは消えた代わりに「機械」の向こう側の空間において実現したと見なせるのである
(もとの「私」と造られた「私」との間には交換法則は成立しない)
ヘーゲル以来の「見る」ことによる融和の思想は、この両者の間に擬似生命を導入することによって(略)相互性を回復させようとした
(しか自己差異の構造@キルケゴールは本来「生命」とは重ならない)
もとの「私」の部位に現れた他者が、機械=言語によって造られた自己を迫害することをやめないのである(124~125p)
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