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老松克博1998
(パニック障害の「パニック」はギリシャ神話の牧神の「パン」に由来する)
この点を手がかりとして
パニック障害の中で自我が経験することを考えてみたいと思う
パンはたとえば、それと知らずに近くを通り過ぎた者によって午睡を妨げられると
その相手を突然の混乱に陥れて意趣返しをする(104p)
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私についての私の考えが真理であるのは・・・
(私の考えを立ち聞きしている「他者」を前提として
未来において、私が考えを発話し、他者がそれを聞き終ったとき)
ここで我々はつつぬけ体験まであと一歩のところに来ている
(略)「前未来」の形で、私は私についての真理を私の中に組み込み
自己意識を成立させているのである
自己意識は言語の中で自己を先取りする構造である
(略)前未来的構造は、いったん成立してしまえば
あたかもすでに共時的な構造であるかのように振る舞い
あの自我の分裂を支える
自己の外に出た自己が、内側の自己を、罪ある
苦しむべきもののように扱うのである(125p)
他者を自己意識の中に導入しながら、知らぬふりを装い続け、自己意識の自然さを信じ生きていく=「キルケゴールの絶望」・・・それが出来なければ病むかヒキコもるしかないわけだ
著者:http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/36/talk_index.html
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「私は無くて、機械に動かされているのが私」という分裂病者の言明を
「私は私」というフィヒテ的命題と比較してみると
空虚な同語反復的命題である後者を、前者が実に的確に充実させているのが見てとれるであろう
「私」はもともと無くて、言語という「機械」によって造られた物が「私」なのである
「私」はもとの「私」の側からは消えた代わりに「機械」の向こう側の空間において実現したと見なせるのである
(もとの「私」と造られた「私」との間には交換法則は成立しない)
ヘーゲル以来の「見る」ことによる融和の思想は、この両者の間に擬似生命を導入することによって(略)相互性を回復させようとした
(しか自己差異の構造@キルケゴールは本来「生命」とは重ならない)
もとの「私」の部位に現れた他者が、機械=言語によって造られた自己を迫害することをやめないのである(124~125p)
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