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鳥越碧著2007・・・序章の鏡子は80歳を超えている
2男5女の7人の子どもの中で、末の雛子は2歳でなくしたが
(略)今では孫も14人になる
(略)三女の栄子だけは独身で通し
60歳を目前にした近頃は、白髪も苦にならない様子である(9p)
漱石・・・1867~1916
鏡子・・・1877~1963・・・東京オリンピックもテレビで見ているわけだ
「あだじっで、不幸でじょ~」とドンヨリ不幸自慢をするというのも
一つの生き方だと思います
しかし、いいわけをすることによって自分を納得させ
「ああ、本当に私は幸せなんだ」と思おうとする人を
私としてはどうしても、憎めないのです(189p)
正解というのはどのみち無いのだから、「私はこれで幸せ」と「いいわけ」してしまう・・・というのはいいですな
言いわけと言いぬけ・・・
29歳というのは、高校生活で言えば、高校三年生のようなものなのです
(略)「高校生」というブランドは一応掲げているけれど
(略)渋谷の街に行っても(略)大御所扱いされてしまう(85p)
高校生というのはブランドだったんですな・・・全く知らなかったな・・・
酒井順子著1998・・・著者は1966生
思えばずいぶん長い間、私は「ギャル」をやっていました
(略・・・ギャルとは)若さと無責任さと奔放さと未熟さをウリにして世の中を練り歩いている女性(というのは)
昔も今も存在し続けています(冒頭)
ベストセラー「負け犬の遠吠え」は2003年・・・著者37歳
大患の修善寺に出掛ける直前に脱稿したのが『門』である
(略)三四郎は『それから』の代助となり
高等遊民の代助がなんとか役所に職を得て
『門』の宗助となったのだといえる(前掲書234p)
修善寺の大患は1910年・・・漱石大吐血して生死の間をさまよう
漱石は1911年、大阪の湯川胃腸病院にも入院している
漱石は1916年没・・・享年49・・・存外若いんですな
小川三四郎は1907年9月はじめに九州から上京した
(略)夏目漱石「三四郎」の主人公である(202p)
関川センセ~はこの汽車旅をフォローされるわけだ・・・素敵な発想ですな・・・鉄道の国有化は1906年に始まったらしい
日露戦争後の日本は不況であった・・・アメリカ仲介のポーツマス条約では賠償金がゼロで日本は多額の戦費を補えなかった・・・漱石の小説はその時代に書かれている
仲介した当時のルーズベルト大統領は、その功績でノーベル平和賞受賞
日露戦争の帰趨を決定づけた日本海海戦に勝利したのち
日本軍は1905年7月、樺太全土を占領した
ポーツマス講和条約によって、その北緯50度以南が日本領になることが確定すると(略)軽便鉄道を敷いた
(略)当時の樺太長長官は平岡定太郎、三島由紀夫の祖父であった
(略)(1923年)(宮沢)賢治は大泊から栄浜までの99.6キロを4時間かけて旅した(115p)
このときの旅で「銀河鉄道の夜」が発想されたのだろうと関川夏央センセ~は書いている・・・
長屋王の父が高市(たけち)皇子である・・・
豊田有恒センセ~の本書では
皇子を殺害したのが役行者、黒幕が藤原不比等となっている
柿本人麻呂の詠んだ皇子の挽歌は有名のようだ
挽歌:http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kakinomotohitomaronobanka.html
現在の三江(さんごう)線は島根県江津(ごうつ)から広島県三次(みよし)までを結ぶ陰陽連絡線である
江津を出ると江川(ごうのかわ)沿いに一両だけの汽車は進むのだが、これがなんとも遅い
108キロの全線を、無数の駅に停車しながら
いったい何時間かかるのだろうと不安になるほどのんびり走る
(略)いまこの全線を走る列車は一日に三本しかない
(略)高校生とおばあさんというローカル線おなじみの顔ぶれのほかに
明らかにわざわざこの線に乗りにきたと思われる客が
私を含めて七人いた(前掲書218~219p)
鉄ちゃん、鉄子さんは最近多いらしい
浜原・・・かっての北線の終点・・・を出ると急にスピードが増すらしい
しかし口羽(くちば)・・・南線の終点から30キロに戻る・・・接続部だけ速い
おまけ:木次(きつぎ)線http://www.ufm.jp/special/toroko/index.html
「或るとしの春、私は、生まれてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが
それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった
私は津軽に生まれ(・・・略)」(太宰治「津軽」冒頭)(94p)
太宰の生地は金木(かなぎ)で、青森中学、弘前高校へと進む
太宰34歳の上野発の(旅行記を書くため)旅は1944年5月・・・戦争末期のため、長距離切符には証明書が必要で、寝台車も食堂車も廃止されていた
「私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない
姿こそ(略)乞食にも似ているが、私は真理と愛情の乞食だ
白米の乞食ではない!」(96p)
太宰治は蟹田で好物の蟹を食べた