| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
| 31 |
システム理論も同様に考えます
「私は苦しい」と思うのは誰か
私じゃないのではないか
私としての私ではなく
システムとしての私が苦しがっているのではないか
とすれば「私は苦しい」から死ぬしかないとの思いは
周到な被作為なのではないか・・・
(略)私が経験する私は、必ずしも私でなくてもよいはず・・・
(略・・・話が難しいので)実践的な場面に移りましょう
(略)結論から言えば、名状しがたい強度が「訪れる」のは
①「これは私だ」と思いこむ主体が私ではなく他者であること
②「私だ」とされた客体は実は錯覚で、私は「よそよそしい他者」でしかないこと
を経験できたときなのです(109~110p)
世界の中に私がいる
この私を「経験的主観」と言います
では「世界の中に私がいる」と思うのは誰か
私?・・・普通はそう答える
このとき「世界に中に私がいる」という構図の全体を
「世界の中の私」という部分に帰属する操作が行われています
世界の全体を、世界の部分である身体像に対応させる操作は、自明だろうか
確かに身体像の内側に視界の座(パースペクティブ)がある
その視界の座から「世界の中の私」が認識されているのは確かだとしても
論理的にはその座が私(経験的主観)である必然性はない
認識しているのは(世界の中の)私だ、と思っているのが
(世界の中の)私である必然性はない
ここから経験的主観と区別される「超越論的主観」(世界の外)の観念が生まれます
(後にこれは再び「世界の中」に回収されて間主観性と呼ばれます)(前掲書108~109p)
成熟社会となり、多くの人々が「目標消失」のアノミーになると
一般的に言って「癒しの言説」に対するニーズが高まります
オヤジ連中の「日本は立派な国だ」から始まり
私の同世代の「僕らはこのままでOK」に至るまで(略)
しかし(略)人々が癒されてしまえば
癒しを必要とする人々を大量に生み出すシステム自体は
手つかずで残ります(前掲書71p)
そこで「世直し」に乗り出す宮台センセ~・・・