さいのこどくだ
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Doctors Blog

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 システム理論も同様に考えます

 

 「私は苦しい」と思うのは誰か

 

 私じゃないのではないか

 

 私としての私ではなく

 

 システムとしての私が苦しがっているのではないか

 

 とすれば「私は苦しい」から死ぬしかないとの思いは

 

 周到な被作為なのではないか・・・

 

 (略)私が経験する私は、必ずしも私でなくてもよいはず・・・

 

 (略・・・話が難しいので)実践的な場面に移りましょう

 

 (略)結論から言えば、名状しがたい強度が「訪れる」のは

 

 ①「これは私だ」と思いこむ主体が私ではなく他者であること

 

 ②「私だ」とされた客体は実は錯覚で、私は「よそよそしい他者」でしかないこと

 

 を経験できたときなのです(109~110p)

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 世界の中に私がいる

 

 この私を「経験的主観」と言います

 

 では「世界の中に私がいる」と思うのは誰か

 

 私?・・・普通はそう答える

 

 このとき「世界に中に私がいる」という構図の全体を

 

 「世界の中の私」という部分に帰属する操作が行われています

 

 世界の全体を、世界の部分である身体像に対応させる操作は、自明だろうか

 

 確かに身体像の内側に視界の座(パースペクティブ)がある

 

 その視界の座から「世界の中の私」が認識されているのは確かだとしても

 

 論理的にはその座が私(経験的主観)である必然性はない

 

 認識しているのは(世界の中の)私だ、と思っているのが

 

 (世界の中の)私である必然性はない

 

 ここから経験的主観と区別される「超越論的主観」(世界の外)の観念が生まれます

 

 (後にこれは再び「世界の中」に回収されて間主観性と呼ばれます)(前掲書108~109p)

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成熟と目標消失

さいのこどくだ / 2008.08.08 11:37 / 推薦数 : 1

 成熟社会となり、多くの人々が「目標消失」のアノミーになると

 

 一般的に言って「癒しの言説」に対するニーズが高まります

 

 オヤジ連中の「日本は立派な国だ」から始まり

 

 私の同世代の「僕らはこのままでOK」に至るまで(略)

 

 しかし(略)人々が癒されてしまえば

 

 癒しを必要とする人々を大量に生み出すシステム自体は

 

 手つかずで残ります(前掲書71p)

 

 

 そこで「世直し」に乗り出す宮台センセ~・・・

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