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認識論の唯一の可能性は観念論にある(フッサール「論理学研究」)
フッサールが「志向性」という言葉によって
ハイデガーが「気遣い」という言葉で示そうとした
実存的な「意識」存在のありようを
私はここで「欲望」といいかえてみたい(竹田青嗣「欲望論の現象学」)
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カントはコペルニクス的転回により認識の限界を分析して
認識できない「物自体」を発見した
しかしよく考えてみると
「認識できない物自体」というのも脳内の観念にすぎない
そこで哲学は再び観念論化した・・・ヘーゲルとフッサール
しかし、ヘーゲルは哲学に「社会」と「歴史」を導入
フッサール(現象学)の「間主観性」も社会だ
それは「孤独」の発見でもあった・・・ニーチェ、実存主義
実在論(唯物論)は自然科学として発展、かつ「経済」学化した(マルクス主義)
現象学と実存主義を結合したのがハイデガーとサルトル
サルトルはマルクス主義でもあった
ニーチェはポストモダニズムの祖
そしてフロイトは・・・エディプス・トライアングルも「社会」だな
ショーペンハウアーの「マーヤーのヴェール」
「個体化の原理」と統合失調症・・・
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精神分析家ラカンの有名なテーゼである
と思っていたが
実は、コジェーブ(ヘーゲルの弟子)のテーゼであるようだ
ラカンはコジェーブの講義をうけている
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死を恐れてはならない
なぜならエレウシスの秘儀に加わったのだから
つまり神々の親戚となったのだから (プラトン)
プラトンの「メレテ・タナト:死の修練」の実演
死の死
ペリアゴーゲー:たましいの構造改革
死を濾過してイデアを見る:アナムネーシス
一と不定の二(アオリストン・ディアス):脱ディコトミー
リエンチャントメント:世界の再魔術化
タウマゼイン:存在の驚愕
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脱人間化(ケノーシス)のすすめ
人間的理知や意欲の裁量権に得々としている
ぼくたちの健全な良識や立派な道徳性を
さらにかなたへ超えた次元(非同一性)へと
連行しようとする誘惑者
それがソクラテスということになる (154p)
「現代思想としてのギリシア哲学」古東哲明
非同一性、というのはアドルノのようだ
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オントロジーとは存在論である
音は空気の振動であり、鼓膜の振動であろう
しかし脳内で音と認識されないかぎり
音とは呼ぶに値しないであろう
すなわち認識論(エピステモロジー)の問題でもあるわけだ
なお耳科学はオトロジーである
耳のラテン語がオト(oto)であるわけだ
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「論理哲学論考」より
思考し、表象する主体など存在しない(5・631)
主体は世界の一部でなく世界の限界である(5・632)
ここにおいて、独我論は厳密に遂行されれば、純粋な実在論と一致することがわかる。独我論の自我は延長なき点に縮小し、対応していた実在があとにのこる(5・64)
(この直前、彼は有名な「眼と視野の関係」のに比喩ついて記述している・・・視野には眼は入っていない・・・視野から眼の存在は推論できない)
時間についても引用しておこう
時間の経過など存在しない・・・単に(時計の進行といった)別の出来事と比較できるにすぎない(6・3611)
(主体も時間も存在しないのだから、あと世界が存在しなければ完璧だと思うが・・・)
世界は成立するものごとの全体である(1)
世界は事実の総体であって、物の総体ではない(1・1)
世界に実体がなかったとしたら、命題に意味があるかどうかは、他の命題に依存してしまうことになる(2・0211)
そのときは世界の像を描き出すことが不可能になるであろう(2・0212)
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わたしには、ハイデガーが存在と不安ということで何を考えていたか、十分に想像することができる
人間には、言語の限界へ向かって突進しようとする衝動があるのだ
(中略)かかる突進は、キルケゴールもまたこれを見ていたのであって、よく似た言い方で(逆説への突進として)言い表している
かかる突進こそ倫理なのである
私はひとが倫理についてのあらゆる無駄話に終止符を打つことこそ本当に重要だと思う
1929年12月22日(日曜日)シュリック邸での談話
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死は生の出来事ではない。死をひとは体験しない
永遠ということは無限の時間持続ではなく
無時間だということが理解されているなら
現在に生きるものは永遠に生きる
われわれの生は、視野に限界がないように
終わりがない (6・4311)
そもそも、永遠に生き永らることによって謎が解けるか
そのような永遠の生も、現在の生と同じく謎にならないか
時空内における生の謎の解決は時空の外にある(6・4312)
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それゆえ、倫理の命題も存在しえない。 命題は高貴なことを何一つ表現できない(6・42)
倫理をいい表すことができないのは明白である。倫理は超越的である。(倫理と美学は一つである) (6・421)
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