ずっと前のことになりますが、ふとした行きがかりである男性に相談を受けたことがあります。
(普通の外来診療ではありません、知人の紹介でとりあえずお話を伺うことになりました)
その男性のお母様は90歳を目前にして、がんのためにある病院で亡くなったのでした。
そんなとき人は「天寿を全うされましたね」と慰めたりするのでしょうが、彼にとってはいくつになっても大事なお母様、とても悲しい出来事だったと思います。
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さて、彼の場合、お母様が入院されてからの様子(治療内容や薬品名も含めて)を克明にノートに記録されており、それをお持ちになってのご相談でした。
黒いペンで記録されたノートに、おそらくご自身で調べた赤の書き込みがびっしりと並び、それは壮観でした。
その最初のページから、
・ここでこの薬を使うのは妥当か?
・この状態にはこの治療法しかないのか?
・この病気になると普通はどのくらい生きられるのか?
・ここで栄養状態が悪くなっているのはなぜか?
・この段階での医師のこの説明は正しいか?
・最終的に死を避ける方法はなかったのか?
などなど、矢継ぎ早に質問され、私の答えが今度は青で書き込まれてゆきます。
数時間はお話を伺ったでしょうか?
私が拝見する限り、すべての診療過程において、医療スタッフはベストを尽くされ、説明も丁寧で完璧な治療と対応であったと思われました。
しかし、お母様のご病気と、ご年齢からくる身体の衰えから、最終的には残念な結果になってしまったものと思われます。
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すべての質問と説明が終わると、彼はノートを閉じて、「わかりました、納得しました。病院を訴えることはできないんですね。ありがとうございました。」と言って帰って行かれました。
「訴える」という言葉を、私はその後しばらく消化できないまま、月日は過ぎてゆきました。
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私はその病院のドクターも存じ上げませんし、医師同士かばい合うつもりで真実を曲げてご説明したわけでもありません。
ただ、その分厚いノートと、病院でもらった様々な説明書類を私なりに一生懸命拝見して、思うままをご説明しただけです。
しかし、万が一その記録の中で診療上問題があると思われる場所があり、それをそのまま彼にお伝えしたら、おそらく彼は病院や医師を相手取って民事訴訟を起こすつもりであったのでしょう。
事実、悪徳医師と悪徳弁護士がタッグを組めば、勝てるかどうかは別として診療上の出来事について民事訴訟を起こすのはそう難しいことではないと思います。
同時に刑事告訴をおこなえば、その真偽や妥当性は抜きにして検察は捜査をせざるを得ませんし(刑事訴訟法242条)、告訴された医師や医療機関は取り調べを受けることになります。
最近は民事訴訟を有利に進めるために刑事告発も同時に行って医師に心理的プレッシャーをかけ、早期に有利な和解に持ち込む手法も横行していると聞きます。
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さて、そうした世知辛い話題はともかく、彼の「訴える」がお金目当てでないことは最初からよくわかりました。(そもそもそんな雰囲気があれば最初から相談には乗りませんし)
彼は、大好きなお母様の死が「悲しく」「納得できず」「受け入れがたい」のだと思います。
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精神分析で「防衛機制」という概念があります。
受け入れがたい出来事に出会ったとき、不安定になった自我に安定を取り戻すために自分の心の中で起きる様々なメカニズムのことです。代表的な防衛機制は、
・抑圧・・・苦痛を無意識的に意識から締め出そうとする作用。
・合理化・・・「酸っぱいブドウ」のたとえで有名。得られなかったものが価値のないものだと思いこんで安定をえること。
・補償・・・勉強でうまくゆかないからスポーツでがんばる、など、劣等感をほかの方法で補うこと。
・退行・・・一人っ子に弟や妹ができると赤ちゃん返りする、などが代表的。
・転移・・・抑圧された感情を本来とは別の対象に振り向けること。
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さて、話の趣旨はお察しいただけたでしょうか?
人の死は必然です。
昔から、人は愛する人の死をいろいろな方法で乗り超えてきました。
これについては多くを語る必要はないでしょう。
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Wikipediaで「防衛機制」を調べると、「転移」の例として、
「例:父親への憎悪を抑圧し、より安全に攻撃できる教師に向ける。」
と出ています。ちょっと笑ってしまいました。
モンスターペアレンツの方々にとっても、社会での鬱憤を晴らす対象としては、学校の先生が「安全」なんでしょう。先生方には本当にお気の毒です。
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そう、最近は医師も「安全に攻撃できる」対象になりつつあるのでしょう。
「悲しく」「納得できず」「受け入れがたい」お母様の死を、医師や病院の責任とすることによって彼は心の安定を得ようとしたのだ、と、数年かかって私は気がつきました。
これはまさに「転移」の機序に他なりません。
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医療の危機が叫ばれています。
これを、医師不足、財政不足、などなど、単一の原因に「転移」して済ませるのではなく、社会心理学的な観点からも整理し、議論し、対策を考えてゆく必要を感じました。
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