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2010.04.21 11:17 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  office  | 推薦数 : 0

子どもの心により沿って(6)

子どもの心に寄り沿って(6)

 多くの人は未だ気付いていないけれど、不登校の子どもは学校や学校に関する物、先生や友達、勉強、勉強道具、学校からの印刷物などに反応して辛くなります。この事実に気付けば、不登校の子どもに登校刺激をしたり、学校を連想する様な場所、例えば学校内の保健室、校長室、図書館、空き教室や、学校外でも適応指導教室で、不登校の子どもが辛くなる事実が理解できると思います。これらで不登校の子どもが辛くなれば、不登校問題の解決を遅らせてします。

 この事実は不登校の子ども全てに当てはまります。それでいて不登校の子どもが保健室や適応指導教室に行くのは、その所まで子どもが辛さに耐えて、無理をして行っているからです。それだけその子どもは未だ無理が効くという意味にも成ります。それだけ無理が効くなら、その無理をさせないで、子どもが元気になるように子どものエネルギーを使った方が、遙かに得になります。

 担任が不登校の子どもの問題を解決しようとして、一生懸命不登校の子どもに関わろうとする場合がよく見かけられます。それは先生の義務感から、先生の優しさから、先生は一生懸命に対応しようとします。又周囲の大人もその様な先生の姿を良い先生であると、教育熱心な先生であると、褒め称えます。

 上述のように、不登校の子どもは学校や学校に関する物に反応して、とても辛くなって拒否をしてしまいます。先生は不登校の子どもを辛くします。いくら先生が子どものためを思っていても、いくら先生が優しく振る舞っても、先生がなさる対応から得られる喜びを打ち消して、辛さから子どもは苦しむようになります。ただ、先生の前で不登校の子どもはよい子を演じてしまう場合がありますから、先生には子どもが苦しんでいると理解できない場合が多いです。

 大人が不登校の子どもへ対応をするとき、子どもが先生を意識したときには逆効果になります。子どもが大人に先生というイメージを持ったときには、それだけでどのような物でも打ち消すことのできない辛さを、子どもは感じてしまいます。不登校の子どもへ対応をする大人は、少なくとも子どもに先生をイメージさせない大人でなければなりません。基本的に学校の先生は、不登校の子どもへ近づいてはいけない、どのような対応もしてはならないことになります。 

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2010.04.21 11:16 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  office  | 推薦数 : 0

子どもの心により沿って(5)

子どもの心に寄り沿って(5)

 不登校の子どもを育てた経験のある親が、子どもから学んだこととして、「大人達が子どもの心の声を丁寧に聞き、子どもに寄り添う必要がある」と言いました。子どものあるがままの姿を認めた発言です。言葉では確かに子どものあるがままを認めようとしていますが、実際にどうしたらよいのかよく分かりません。子どもの心の声とは具体的に何を指しているのでしょうか?子どもが発した言葉なら、子どもの知識を表現した場合と、自分の姿や感情を認識して、その説明をしている場合があります。

 子どもの知識を表現した言葉なら、それは大人から与えられた知識ですから、子どもの本心を表現していません。大人の思いと同じですから、大人にはわかりやすいですから、子どもは良く分かってくれていると判断してしまいます。しかしその言葉に沿って対応をしたときにはますます子どもが苦しくなってしまいます。

 子どもが自分の姿や感情を認識してその説明をしている場合には、かなり子どもの本心を表現しています。しかし子どもの本心は潜在意識にあるので、子ども自身も自分の本心がわかりません。また、子どもの認識の仕方も、大人から与えられた知識を利用している場合が多いですから、子どもの本心と異なっている場合が多いです。素直に自分を認識して表現している場合は少ないです。たまたま子どもが素直に自分の本心を認識して表現している場合、その言葉に沿った対応を大人がすることで、子どもが元気になる場合があります。

 このように大人が子どもの心の声を丁寧に聞いたつもりであっても、実際の子どもの言葉は子どもの本心を表現していない場合が多いです。子どもの言葉を子どもの心の声と考えて対応をすると、ますます子どもを苦しめてしまう場合が多いです。子どもの方では子どもの言葉を信じて大人に寄り添われても、その大人を拒否せざるを得なくなります。

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2010.04.09 15:56 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  office  | 推薦数 : 0

子どもの心に寄り添って(4)

子どもの心に寄り沿って(4)

 不登校、引きこもりの子どもが成長して、元気になり、社会に出て行けた人についてです。その人が不登校の会などに呼ばれて、自分の経験談をする場合があります。その際に、会うと自分が辛くなった人を含めて、人との関わりがだんだんできてきて、自分が元気になれたと言う人がいます。会うと自分が苦しくなった人を含めて、人との関わりが自分を元気にしたと説明する人がいます。

 常識的にはその様に説明すると、学校の先生や自分に関わってくれた人の必要性を説明するのに、とてもわかりやすいでしょう。それは今心が元気になって、大人の心から過去を振り返って言えている言葉です。引きこもっていて辛かった時期には、とても人との関わりができなかったはずです。引きこもりの子どもが人との関わりができるようになったのは、それだけ心が元気になっていたからです。心が元気になっていないと、引きこもりの子どもは人との関わりができないです。

 心が元気になると、自分を辛くしない人と関わるようになれます。その関わった人から支えられてより元気が出るようになります。心がより元気になると、自分を辛くしていた人ですら関わられるようになります。自分が周りの人から支えられていると認識できるようになります。心が元気になる良い循環に入ります。その心が元気になる循環の出発点は、まず引きこもりの子どもの心が元気になることであり、人と関わることではないです。

 引きこもりの子どもが心が元気にならない内に人と関わろうとするとますます辛くなります。周りの人に辛さを感じ、怒りをぶつけるようになる場合もあります。ますます引きこもらなくてはならなくなります。ますます心の元気さを失います。辛さの悪循環になってしまいます。

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2010.04.04 11:18 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  office  | 推薦数 : 0

号令で動く子ども達

号令で動く子ども達

 混んでいる電車の中で、高校生ぐらいの子ども達のグループが椅子に座って、わいわいがやがややっていました。引率の大人が「みんな立って、席を譲りましょう。」と言ったところ、子ども達が椅子から立って、通路に立っていた大人達に席を譲りました。私も、他に空いた椅子に掛ける大人がいなかったので、「有り難う」と言って掛けさせてもらいました。

 私の側に掛けたご婦人が「素晴らしい子ども達ですね。このような若者達が居ると思うと、日本の将来が明るいですね」と言いました。私も「そうですね。」と短く答えて、それ以上のことを言いませんでした。その車中にいた大人達は腰掛けられて、子ども達に感謝をしていたでしょう。しかし素晴らしい子どもという評価にどことなく違和感を感じました。

 確かに席を譲らないよりは譲る子どもの方が、私たち大人から見たら好ましい子どもでしょう。しかし自分たちの前に年配の人がいるのに、号令を受けるまで席を譲ろうとしない子ども達を、私は必ずしも誉めるわけにはいかないと感じていたからです。本当に素晴らしい子どもなら、本当に心が優しい子どもなら、号令を掛けられなくても席を譲るはずだと思ったからです。

 運動会などで、号令に従って機敏に動く子ども達を見るのは、頼もしいです。良くここまで練習に耐えて、上手に動けるようになったと感心します。しかし日常生活は別です。指示を受けたらその通りにできることも大切ですが、指示を受けなければ動けない大人がいます。自己中心的で、その人らしい意志がない大人、指示を受けなくては動き出そうとしない大人が世の中に多いように感じます。心が元気な子ども達についてですが、他人に何かを言われる前に、自発的に自分の意志から動くような子供が増えてくれることを願うのは私だけでしょうか?
 

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2010.04.01 16:27 |  診療  |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  office  | 推薦数 : 0

子どもの心に寄り添って(3)

子どもの心に寄り沿って(3)

 不登校を説明するのに、いろいろなことに例える場合があります。例えば学校で疲れたから一休みするためなどです。不登校を何かに例えることで、当面学校を休むという説明にはなっても、その後の対応には好ましくないです。子どもの潜在意識にある本心を説明していないからです。不登校の子どもの本心は何かの例えで説明できる物ではないからです。

 「不登校は、誰にでも起こり得る」と文科省が言っています。「誰にでも」と言うからには、不登校になった子どもに原因がないという意味と、どの子どもにも不登校になる原因があるという意味と、二つの意味があります。

 不登校になった子どもに原因がないという意味なら、昔の学校と違って、今の学校に子ども達が不登校になる原因があるという意味になります。不登校が子どもの問題行動なら、不登校が今の社会問題なら、今の学校のあり方が間違っているという意味になります。

  どの子どもにも不登校になる原因があるという意味なら、今の子どもは不登校がなかった頃の子どもと違っているという意味になります。その違いが何であれ、昔と違う今の子どもには、昔ながらの教育が行われている、今の学校が今の子どもに合っていないという意味にも成ります。

 子ども達は楽しさと未知の事柄を知る喜びを求めて学校に行っています。しかし今の学校の多くは、子ども達に競争を求め、教師への隷従を求め、失敗を許しません。「学校は楽しい」と言葉で子ども達は表現しますが、多くの子ども達は学校で息が詰まる思いをしています。

 特に子ども達の間での競争は、子ども達から子どもらしさを奪ってしまっています。どんどん勝ち抜いていける子どもは恩恵を受けます。勝ち抜けない子どもは相手を蹴落として勝ち抜こうとします。蹴落とされる子どもは辛く成りすぎて、学校に行けなくなります。どうしても勝てない子どもは周囲から否定されて、意欲を失い、学校で問題行動をするようになります。その問題行動の被害者も学校に行けなくなります。

 昔も子ども達の間に競争が有りました。あってもそれは一部の子ども達の間だけでした。中学卒業で社会に出て行く子ども、高校卒業で社会に出て行く子どもが多くて、大学の狭き門を争う子どもは一部だけでした。その競争に負けても社会に出て行けました。しかし今のどの子どもも幼稚園の内から、小学校の内から、中学校の内から、競い合わなくてはならないのです。負けることを許されないのです。子ども達が激しく競い合う(競い合わされていると表現する方が正しいです)限り、どの子どもにも不登校になる可能性があるのです。

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