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子どもの心を正しく理解する
正しいという言葉は魔物です。子どもの心を正しく理解したと思っても、子どもを観察している人が、その人の経験から正しいと思っただけです。その正しいと思ったことに共感する人が多くいても、現実には子どもの心について、正しさを証明する方法がないです。子どもの心には正しさなど無いと考えた方が間違いがないかも知れません。
子どもの心はこうなっているとか、子どもとはこうあるべきと言う大人の考え方は、大人の希望的な観測であり、一部の子どもに当てはまりますが、全ての子どもに当てはまりません。正しいという概念で子どもの心を見たときには大失敗をしますし、一人一人の子どもの心を理解できません。子どもへの対応で子どもが苦しむようになります。
子どもは自分の心で成長し、自分の心も成長させていきます。子どもの心は子どもが置かれている環境で千差万別です。子どもへの対応を行うときには、子ども一人一人の心に沿った対応が必要です。子ども一人一人の心に沿った対応は、ある子どもの心に沿った対応でも、他の子どもには好ましくない場合があります。
子どもの心に沿った対応は、その時々の子どもの心の動きを推測して行います。子どもの心に沿っているかどうか、子どもの反応(表情や行動)から判断します。言葉も子どもの心を反映している場合もありますが、多くは子どもの知的な理解を表現しているだけです。子どもへの対応で、その子どもが元気になってくれば、その子どもの心に沿った対応であろうと思われます。その子どもへの好ましい対応になります。
子どもへの対応が好ましいかどうか(対応が子どもの心に沿っていなくても、子どもの方でその対応を受け入れられるかどうか)、対応をする人によってその許容範囲が大きく違います。その許容範囲は、子どもの母親が一番大きくて、その他の人にはとても厳格です。学校の先生について一見子どもの許容範囲が大きいのは、子どもが先生の後ろにいる母親に無意識に反応しているからです。
学校で問題行動を起こす子どもには、その子どもの母親が母親の機能を果たしていません(学校で辛くなった子どもの心を、母親が癒そうとはしていないという意味です)。その子どもは先生の後ろの母親を配慮していません。ですから担任にとても厳しいです。とても強く反応して、無意識に問題行動を起こしてしまいます。一方で、その子どもは自分の辛い心を何かで癒そうとします。その子どもの辛い心を癒そうとする行動が、大人が正しいと思っている対応で否定されると、その子どもは益々辛くなり、問題行動を強めたり、病気の症状を出したりします。
ある小学校で子どもが荒れて、授業が成り立たなくなりました。学校は男の先生が荒れる子どもを力で押さえつけたり、親が学校に来て子どもを監視するという方法を採りました。それで一見子どもは大人しくなったように見えましたが、男の先生がいないとき、親がいないとき、その子どもはより一層荒れてしまいました。そこで担任は教室の一角を区切って、その子どもが自由に過ごせられる場所を作りました。子どもが荒れ出したら、その子どもをその場所に導いて、そこでその子どもが自由に過ごせるようにしました。それ
」だけで根本的な解決には成りませんが、少なくともその子どもの荒れ方が減って、授業ができるようになりました。
子どもの心について、正しいと考えられる物は生物学的な心、脳の機能を科学的に解析した事実だけでしょう。どの子どもにも共通して言える正しさとは、子どもが持つ本能、本能に含まれるかも知れませんが、嫌悪刺激に対する神経学的な反応の仕方だけでしょう。今の心理学や精神医学はこの脳の機能に基づく正しさを認めないで、大人の思いを子どもに押しつけていますから、子どもの心の問題が解決しないのです。