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「外見で子どもを評価する」が11月3日朝日新聞声の欄に載ります。
要約化されています。
神奈川県立神田高校で、髪型、ピアス、服装などの外見から入学合否を決定していたというニュースが新聞で報道されました。教育は先生方が子ども達から信頼されて成立します。子ども達からの信頼を裏切るようなこの種の学校側のあり方では、子ども達は学校での教育を受ける気持ちになりません。多くの生徒は不信感を押しこらえて、高校卒業という学歴を得るために、勉強したいと思うこともなく、只単にこの高校を通過していくだけでしょう。
このニュースと同じように私を驚かせたのは、神奈川県の教育委員会に送られてきた120通の電話とメールの内容です。「学校のやり方に賛同する電話やメールが目立った。子どもの立場を認めようとする意見は少数だった」と報道されています。これらの意見が日本国民の意見を代表していると言えませんが、多くの大人が子どもの方に問題と考えるから、学校側の対応を認めようとする大人が多いと推測されます。
髪型で、ピアスで、スカートの丈で、子どもを評価する問題点は既に間違っていることは議論され尽くされていると思います。それでもまだ子どもの心を見ないで、子どもの外見だけで子どもを評価しようとする教育者がいるのに驚きます。子ども達はいろいろな形で自分を表現しています。その中には髪型で、ピアスで、スカートの丈で、自分を主張している子どもがいます。それが教師の捕らわれた見方に反しているから、問題だと考えるのが教育者として間違っています。子ども達は自分たちのあり方が認められたら本当に優しいです。子どもの心に余裕が出来たら、自分の主張を止めて、教師の希望に合わせてくれるようになります。
子どもが認めてくれと自己主張をしている姿を、教師の捕らわれた見方から否定して、教師の見方を矯正しようとする(学校では生活指導、又は生徒指導と表現している)と、子どもはますます辛くなります。自己主張を強めて、生活指導に反発してきます。教師は生活指導が難しくなると感じます。生活指導が難しくなるのは、子どもに問題があるのではないです。子どもを信頼しないで、教師の捕らわれた見方を矯正する教師に問題があります。この高校のように、生活指導が難しい子どもは拒否をするという教育のあり方は、学校として失格です。公教育は教育をする教師の立場から考えるのではなくて、教育を受ける子どもの立場から考えるべきです。
心が辛い子どもが話す話の聞き方
心が辛い状態の子どもは、自分の辛さを信頼する大人に話して、少しでも楽になろうとします。しかし話を聞こうとする大人が子どもを責めて、かえって子どもを辛くするようだと、子どもは大人を信頼しなくなり、話をしなくなります。心が辛い状態の子どもが自分の心の内を話してくれないという事実を、大人は子どもに問題があると考えがちです。心が辛い状態の子どもがその辛さを話さないのは、子どもの話を聞こうとする大人の話の聴き方に問題があります。
大人は心が辛い子どもが話す話を、子どもの方で話を止めるまで聞き続けなければなりません。子どもは話したいから話しています。子どもが話したいという意志を、大人は尊重する必要があります。大人の都合で子どもが話すのを止めさせると、子どもの話したいという欲求は満たされません。それは子どもが大人を信頼しなくなります。子どもはそれ以上、大人に自分の心の内を話さなくなります。
大人は決して心が辛い子どもから、話を聞き出そうとしてはいけません。子どもから話を聞き出そうとすると、子どもは大人に対して身構えてしまい、よい子を演じてしまいます。子どもが本当に話したいことを話せません。大人は子どもが話したいことを、ただただ聞き続けることが大切です。
話を聞いているとき、大人は子どもの話を聞いているというサインを送る必要があります。子どもの話を聞いているという態度が必要です。しっかりと子どもの目を見て、ひたすら聞き続けます。子どもの話には、自然な形で相づちを打ってあげる必要があります。決して子どもの話を遮ってはいけません。しかし聞きそびれたり、理解できない言葉を使ったときには質問をしても良いです。
子どもが話すのを止めたときには、話を止めたという事実を尊重してあげてください。子どもが何も話さないという時間と事実を大切にしてください。沈黙の時間を大切にしてください。子どもが次に話し出すまでじっと待ってあげると良いです。子どもの沈黙の時間とは、子どもが話したいことをまとめている時間か、話を聞いている大人に話したくないときです。子どもは自分の思いがまとまったら話を再開してくれるでしょう。子どもは話したくなかったらいつまでたっても話さないでしょう。子どもが信頼できなくて、話したくない大人なら、いくら子どもから話を聞こうとしても、子どもは話をしてくれません。大人は話を聞くことをあきらめるべきです。
聞き手の大人から発する言葉は、ききそびれた時に聞き直す言葉と、理解できない言葉の説明を求める言葉が可能です。子どもが辛さを表現したときに、大人は共感の言葉を加えると良いです。また、子どもがその子どもなりに重要な言葉を発したときには、その言葉をオーム返しに繰り返してあげるのも良い方法です。
子どもが質問をしたときには、その質問の範囲で、大人は「私はこう思う」という形で答える必要があります。答えられないときには「わからない」と答える必要があります。それ以上のことは言わないでください。子どもの話を分析し、解説してはいけません。分析や解説は聞き手の大人の思いを押しつけることになるからです。まず子どもなりの理解を認めて、その子どもなりに考え方をまとめさせてあげる必要があります。
哺乳類が嫌悪刺激を受けたとき、その動物は逃げます。逃げられないときには暴れます。暴れられないときには、すくみの状態(人間では自律神経症状や精神症状を出している状態)になります。人間の子どもでは、嫌悪刺激を受けると、刺激を受けた瞬間は辛くなり逃げます。逃げられると辛くはないです。逃げられると、子どもはその時の辛さを信頼する大人に、多くは母親に話します。しかし信頼する大人が子どもが辛くて逃げてきた理由を理解しないと、辛くなる原因に出会っても、子どもはだんだん逃げられなくなります。
逃げられないときには、子どもを辛くする原因が人間である場合、子どもはいわゆる”よい子”を演じます。見かけ上はとても大人や周囲の要求を受け入れて何も問題がないように振る舞います。子どもが”よい子”を演じると、子どもを辛くしている大人は子どものために良いことをしていると判断しますが、子どもはとても辛い状態にあります。その辛さに耐えています。”よい子”を演じているこどもは、いつもよい子を演じているのではないです。子どもを辛くする大人がいない所では、子どもはそれまでの辛さを昇華して心を安定させる必要があります。多くの場合、子どもは自分を辛くした大人が要求したことの逆をします。大人から見たら問題行動をすることが多いです。つまり陰で物を壊したり、万引きなどの盗みをしたり、いじめをしたりします。
”よい子”を演じる辛さに耐えられなくなったとき子どもは暴れます。暴れられてその後処罰を受けなければ、子どもは辛くなりません。しかしまたよい子を演じなければなりませんが、すぐに限界が来ます。子どもが暴れたときに、子どもが破壊する物の多くは、子どもを辛くしている大人自身ですが、力関係で大人を攻撃できないことが多いので、その大人が大切にしている物であったり、暴れることでその大人が困るようなことです。それは大人がすぐに、子どもの暴れているのを力で押さえ込むことになります。暴れる子どもを問題のある子どもとして矯正しようとします。大人から見たら子どもが暴れることが問題ですが、子どもから見たら、暴れなければならない程辛い状況に、大人が追い込んだことが問題なのです。
その子どもが暴れるのを大人の力で押さえつけて暴れられなくなると、子どもは自律神経の症状や精神症状を出して動けなくなります。見るからに辛い状態ですが、子どもは辛いと言って理解して貰える大人にしか辛いとは言いません。親は子どもが辛くなっている原因を理解しませんから、子どもは原因もなくこれらの病気の症状を出していると判断して、子どもが病気だと判断して、子どもを病院に連れて行きます。現在の医者の多くは子どもが神経症状や精神症状を出していると、病気だと考えます。病気だから治療をしなければならないと考えて、子どもに薬を飲ませ始めます。親も医者から子どもが病気だと言われると、子どもの病気を治そうとして一生懸命薬を飲ませようとします。
子どもの立場から言うなら、子どもには辛くなる原因があるが、それを親が理解しない。子どもが辛いから病気の症状を出しているのに、子どもを病気として治療することは、子どもは病気の症状すら出してはいけないと潜在意識で判断して、ますます辛くなります。ますます病気の症状を悪化させていきます。
子どもは大人の理解できない理由で辛くなっています。子どもは自分の辛さを言葉でも言っているけれど、大人が理解できないから、子どもの言葉を信用しないで、子どもに辛い原因を与え続けています。だから子どもは行動や症状で自分の辛さを表現して、言葉では辛いと言わなくなります。
心の中は外から見えません。他人は子どもの心の中を直接知ることは出来ません。子どもが言葉でその辛さを表現したとき、子どもが辛い状態にあることを知ることが出来ます。心の辛さとは潜在意識の反応です。体に表現された辛さから当の子どもは辛いと言うことは分かっても、なぜ自分が辛いのかその理由が分かりません。
子どもが言葉で自分が辛いと表現したとき、大人はその子どもが辛いなら、辛くなる原因があるはずだと考えます。しかし辛さは潜在意識の反応ですから、子どもはその原因を言えません。原因が分からないということは原因がないと大人は考えます。そこで大人は子どもが嘘を言っていると理解します。子どもがおかしいと考えます。
子どもが自分の辛い原因を言ったとしても、子どもが言った原因とは必ずしも子どもが辛くなっている原因ではないです。子どもが言った原因を解決しても、子どもの辛さが無くならない場合が多いです。多くの大人は子どもが辛い原因を言ったとき、その原因を解決して、子どもを守ろうとします。そこで子どもが言った原因を解決する努力をして、子どもが言った原因を取り除きます。しかし多くの場合、子どもの辛さは無くなりませんから、今度は子どもがおかしいと考えるようになります。
大人が子どもの辛さを理屈から理解しようとするときには、大人は子どもの辛さを知ることが出来ないか、十分に知ることが出来ません。それは子どもに問題があるのではなくて、大人が子どもの辛さを理解できないからです。子どもは自分の辛さを理解できない大人に、自分の辛さを訴えなくなります。訴えれば訴えるほど子ども自身が辛くなるからです。子どもは言葉で辛さを訴えないで、症状や行動で辛さを訴えるようになります。
あくまでも現在の試験の点数や、教師の主観から、子どもが評価されている場合です。子どもについての話です。芸術などの、点数で評価できない物については当てはまりません。
勉強が好きだと子どもが言った場合、子どもは勉強が好きだと言わされている場合がほとんど全てです。親が子どもに勉強をさせようとするので、その親にいわゆる”よい子”を演じている場合が多いです。子どもの中には音楽が好きだ、理科が好きだ、社会が好きだという子どももいますが、それも他の科目よりそれらの科目が好きだという意味であり、友達と遊んだり、ゲームを見たり、テレビやビデオを見るより好きだという意味ではないです。子どもの方から進んで勉強をすることは基本的にないです。
一見子どもの方から勉強をしているように見えても、それは子どもが好きこのんで勉強をしているのではないです。勉強をしない後親が叱るから、勉強をしておかないと教師に叱られるから、受験に合格しないと親が叱るからなどと、何か子どもを勉強に追いやる力が働いています。本当はテレビを見たい、ゲームをしたい、遊びたいという思いを我慢して、机に向かって勉強をしています。勉強自体がゲームやテレビや漫画よりも楽しいから、勉強をするという子どもは皆無に近いです。
それでも、勉強をすると親が喜ぶ、勉強した後にテレビを見られる、ゲームができる、漫画を読めるなどと、勉強したことについての代償が得られる場合には、子どもは勉強に興味を失わないですることができます。場合によっては勉強をすることが習慣化してくる可能性もあります。
子どもに勉強のやる気を起こさせるとは、子どもが勉強の必要性を感じたときに、勉強をし始めるのでよいです。学力の遅れがあると、いざ勉強をしたくなっても勉強ができないと心配する親がいます。それは間違いです。子どもは勉強をしたくなったら、何かある目的を持ったために勉強をする必要を感じたときには、勉強の遅れなど問題にしません。勉強の遅れは短時間に取り戻して、勉強をどんどん進めて、勉強の実力を付けていきます。
小学生、中学生時代には、試験の点数でなくて、その子どもが打ち込める何かが必要です。何にもましてそれをしたい物を見つけさせてあげることが大切です。その何にもましてしたい物がある子どもは、必要に応じて必要な勉強を自分の方から効率よくしてくれるからです。今の学校はこれを認めようとしていません。
注釈
>子どもが成長して社会に出て、会社の一つの歯車として生きるのには十分なようです
この言葉は一般の社会で一生懸命働いている人を否定していると、多くの大人は感じるでしょう。勿論大人がこのようにして働くから、日本社会が成立していて、とても大切なことであることは間違いありません。大人がこのようにして働くから、家庭も安定して維持できています。働いている大人も、プライドを持って会社を運営する一つの役割を必死で担ってきています。大人は自分の意思で、子どもが歯車と表現する立場に納得できるようになれるのです。
ところが受験戦争で辛い思いをしている子ども達、勉強などの競争で辛い思いをしている子ども達は、会社のために、生活のために、身を粉にして働いている大人を批判的に見ています。学校で辛い思いをしている子どもは、自分を辛くする物を許せないのです。親や学校から要求される学業。興味もなく、やる気もなく、それでいてやらないと尻をたたかれる。子どもはその辛さに耐えながら、与えられた物をこなしていきます。このように苦しみながら成長していって、その先に見える物は大人社会の歯車になっている自分です。今の子どもの辛さが延々と続くと理解してしまうのです。
子どもは子どものしての本能、自然にわき出すエネルギーに富んでいます。同じ事の繰り返しや、辛いことから逃げ出すしか、自分の心を維持できません。歯車になるのは嫌だ、自分らしく生きたい。自分らしく生きようとしても許されない。唯一許されることは、大人の掌の中で、そこからはみ出さないようにするだけです。歯車となる大人の生活が刻々と近づいてくる。そうしたときに、子どもは自分の思いを捨てて、大人の要求に添うようにしか生きる方法がないと、諦めるしか生きる生き方を見つけられないです。自然にわき出すエネルギーをその辛さに耐えるためにしか使えないです。辛さに耐えるためにエネルギーを使い尽くしてしまいます。
大人の思うように生きてくれる子ども、よい子を演じ続けてくれる子どもは、大人にとってとてもありがたいです。一番ありがたいのは為政者や企業の経営者、親でしょう。節度を守って為政者や経営者、親の思うように人々が動いてくれるから良い国民と評価されます。良い子どもと評価されます。その評価と裏腹に、子どもは陰で何か辛さを解消する物を捜しています。