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やる気を起こさせる
「子どもにやる気を起こさせる」が今の小学校、中学校教育に不足している重要な問題点の一つです。親も教師も子どもがテストで取った点数ばかりに注目して、その点数を取った子どもの心に全く注目していません。今テストで良い点数を取っても、将来子どもの知識が伸びなければ何もなにもなりません。今テストの点数が悪くても、将来知識が伸びて高い点数が取れた方が、その子どもにとってずっと意味があります。現在の社会通念には、今テストでよい点を取ったら、将来もっとテストでよい点を取れるようになるという誤解があります。
現在の高校や大学で、勉強をする気のない子どもの多い事実があります。小学校や中学校で身に付けているはずの学力が身に付いていない子どもが多くなっていると指摘されています。それはテストの点数でだけ子どもが評価されているという現実から、子どもがその場しのぎの勉強しかして来なかったからです。子どもに勉強をしたいという気持が湧いてこないことが原因の一つです。
現在の学校教育のあり方は、多くの子どもに与えられた状況に対してその場しのぎをして、うまく順応して生きる伸びる方法を身につけさせています。子どもが成長して社会に出て、会社の一つの歯車として生きるのには十分なようです。今の日本では一部の競争に勝ち抜いたエリートが社会をリードしています。多くの歯車を形成する人が日本社会の経済的な繁栄を維持しています。競争に耐えきれなかった人が辛い毎日を過ごす結果になっています。場合によっては社会問題を生じるようになっています。
子どものやる気はテストで取った点数では分かりません。子どもの中には既にやる気を持って小学校、中学校に通っている子どもがいます。多くの子どもについて、そのやる気を延ばすには、子ども一人一人の心を子どもの立場から見つめる必要があります。親や教師は一人一人の子どもの思いを、その子どもの心に沿って聞き、その子どもが興味を持っていることを利用して、興味を伸ばし、やる気を高めてあげる必要があります。
一部の学校では教師が子どもに興味を持たせるような授業の仕方を研究し、試しています。それは今の授業とは格段に子どもに沿った授業のあり方です。今の学校教育を大きく変える授業の仕方です。多くの子どもを勉強に興味を持たせるのに良い授業法です。しかしそれでもまだ、子どもが興味を持つように教師が働きかける授業の仕方ですら受け入れられなくて、授業について行けなくて、勉強に興味を失っていく子供がいます。子どもが持っている興味から勉強を発展させてあげる必要のある子どもです。
子どもの心に沿った教育とは、教室で子どもをひとまとめに教育しようとしてもできないことです。決して教師の教えた経験量やテクニックでもないです。教師が一人一人の子どもを、その子どもの心に沿って理解しようとする教師の意欲です。この教師の意欲は現在の学校では全く要求されていません。実現しようともしていません。現在の教師も、子どもにテストでどれだけ良い点数を取らせたかで評価されているからです。
辛い子どもはなぜ辛いか(1)
登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれている子どもは、辛い状態になっています。しかし子どもは、登校拒否だから、不登校だから、引きこもりだから、ニートだから辛いのではないです。子ども自身は何か理由がわからないけれど、体の奥底から何か辛い物がわき上がってきて、耐えきれなくなっていて、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートになっています。
登校拒否、不登校、引きこもり、ニートの子どもをよく観察してみると、子どもはいつも辛い状態ではないです。絶えず辛い症状を出している子どもも、辛くないときもあります。辛くないときから辛いときに変わるとき、きっかけがあることがわかります。登校拒否、不登校の子どもは、学校や学校に関する物を認識(意識しないときには認知)したときです。引きこもりの子どもは学校や学校に関する物、自分の周囲の大人の存在を認識したときです。ニートの子どもは自分の周囲の大人の存在を認識した場合とか、自分の存在を他人から、または自分自身で否定されたときです。
登校拒否、不登校、引きこもり、ニートの子どもは、これらの刺激を受けないと、これらの刺激を認識しないと、普通の子どもとして生活し、成長ができます。しかしこれらの刺激を受けたとたん、子どもは急に辛くなります。辛い症状を出します。辛くなることと辛い症状を出すこととは同時です。辛い症状と辛さとは体の表現の違いであり、原因は同一の物です。
子どもは自覚的に辛さを感じ、子どもによっては言葉で辛さを表現します。周囲の人は子どもの言葉から子どもの辛さを知り、子どもが出す辛い症状を認めることができます。子どもの辛さを推測します。子どもが出す辛い症状が軽微なとき、周囲の大人は子どもの言葉を信じないことがあります。子どもが出す症状が強い場合には、周囲の大人は子どもが病気ではないかと考えて、子どもを病院に連れて行きます。多くの医者は子どもの出す症状から、病気だと診断してしまう傾向にあります。原因まで踏み込んで考える医者はほとんど居ません。医者が病気だと診断すると、周囲の大人はその子どもが病気だと信じ込んで、子どもが辛くなる刺激を受けて辛くなっているという事実を考えようともしなくなります。
文化情報は辛い子どもの心を癒している
子どもたちはテレビやネットから、有り余る情報を得ています。この有り余る情報が子どもたちを弱くしていると指摘する人たちがいますが、必ずしも子どもたちを弱くしているとは限りません。確かにこの有り余る情報を利用して、犯罪行動に走る子どもがいます。また一方でこの有り余る情報を子どもから突然取り上げると、子どもは辛くなってしまいます。子どもがこの有り余る情報から見つけて使っている物を、大人から見て必要ないという理由で突然取り上げると、子どもは葛藤状態になり、より辛くなります。
現在の多くの子どもは有り余る情報から自分に都合の良い情報を選んで、その子どもなりに利用しています。その利用の仕方が、その利用する物がその子どもなりであり、今の大人の思いと異なっています。大人は子どもがその子どもなりに情報を利用する意味を理解していませんから、子どもが親の思いと違った形で情報を利用する姿を、良いとは考えないようです。否定的に見ています。
昔の子どもと違って現在の子どもは、大人には理解できないストレス刺激にさらされ続けています。大人には理解できないけれど、辛くなった子どもは有り余る情報の中から自分に都合の良い情報を取りだして、その子どもなりに辛い心を癒すのに用いています。
子どもが辛ければ辛いほど、自分の辛い心を癒そうとして有り余る情報から自分の辛い心を癒すのにちょうど良い情報を見つけようとします。自分の辛い心を癒すのに適当な情報を見つけて、その見つけた楽しみにふけったり、大人に向かって今自分がどれだけ辛いのかを訴えるための情報を見つけて、大人がびっくりして顔を背けるような問題行動をしてしまいます。
大人が希望する姿とは違う子どもの姿を大人が見て、子どもには有り余る情報が害になると考えるようになります。大人は有り余る情報が子どもをだめにして辛くしていると考えやすいです。子どもの心とは逆な感じ方、原因と結果を取り違えた考え方をしています。
有り余る情報を作っているのは大人です。子どもに好ましくない情報を作っているのも大人です。子どもは有り余る情報から、その子どもにとって好ましい情報を見つけて利用しているだけです。元気でどんどん能力を伸ばしている子どもは、大人から見て好ましくない情報を用いようとはしません。自分の能力を伸ばす情報を探して利用しようとします。
元気そうに見えても、大人から見て好ましくない情報を選んで利用しようとする子どもは、その見かけと違って心は辛い状態なのです。子どもが見つけた、大人から見て好ましくない情報を子どもから取り上げるのでは、ますます子どもの心を辛くします。子どもの心を辛くしている物を取り除くか、大人から見て好ましくない情報から得られる物以上の喜びを、親は子どもに与えてあげる必要があります。そうすることにより、子どもは自分から大人が好ましくないと思う情報を利用しようとはしなくなります。
子どもたちの生きづらさはどこから来るか
ある講演会である大学教授が「子どもたちは、学校でも大変ですが、もっと大変なのは消費社会です」と述べました。テレビや雑誌からの情報に振り回される子どもたちの姿を指摘していました。情報に振り回されるから、子どもたちが辛くなると言っていました。
子どもたちは自分の周囲にある物を、その子どもなりに上手に使って成長をしています。それは情報についても同じです。子どもたちはその子どもなりに上手に情報を利用して成長しています。けれどなぜ情報に振り回される子どもが出てくるのか、その部分の分析がこの講演ではなされていません。この講演では、情報があれば子どもはその情報に振り回されるものだとの前提で話されていました。
子どもたちが現在の管理された学校では大変だという事実があります。管理、管理で、子どもたちは窒息しそうになっています。子どもたちが自分たちの子どもらしさを放棄して、親の、教師のロボット化しなければならない事実は、子どもにとって子どもとしての成長をやめろと言われるのと同じです。多くの子どもたちはそれでも耐えていますが、一部の子どもたちは、体は生きていても、心を殺してしまっています。そのような子どもたちにとって、学校が心の屠殺場になっています。親や教師や大人たちからはそのようには見えないけれど、一部の子どもたちには学校がとても辛い所になっています。
辛さの程度に差があっても、子どもたちの辛い心を、学校の中で、学校の外で、子どもたちは癒して、また翌日学校に来て、その子どもなりに一生懸命成長を続けています。けれど辛さの程度が著しくて、学校の中で、学校の外で、その辛い心を十分に癒せなかった子どもが出てきます。そのような子どもたちが身の回りに有り余る情報を利用して、他の子どもたちと遊びに没頭することで、辛い自分たちの心を癒そうとします。そのような子どもたちの姿が、今の大人たちには情報に振り回される子どもの姿として映っています。そして時にはその子どもたちの遊びが他の子どもをいじめるようになる場合があります。