情動耐性
ある大学の教授が、「近年の子どもは情動耐性が育っていない」と指摘しています。本当にそうでしょうか?情動とは受けた刺激に対して感情を含めた体全体の反応の仕方です。それは潜在意識から生じます。意識的にできることではないです。大人になって自己コントロールができるようになると、情動の発動を押さえることができます。感情を抑えることができます。感情の真似は情動ではないです。学習した反応の仕方を利用しているだけです。
脳の解剖学的な構造から子どもが幼ければ幼いほど情動の調節はできません。思春期以前の子どもは情動の調節はできないと考えた方が間違いがないです。強い情動刺激でしたら、二十歳代の子どもでも情動の調節は不可能だと考えた方が間違いがないです。大人になっても情動を調節する練習をしないと、とっさに自分の情動を、感情を調節するのが難しいです。
情動は大脳辺縁系で処理されます。大脳辺縁系は二、三歳で完成し、それ以後変化することはまず無いと考えられます。情動を調節する機能は前頭前野です。前頭前野の神経繊維の髄鞘化の完成は二十代の後半になります。ですから人によっては二十歳代の後半まで情動の調節、感情のコントロールが下手な子どもがいてもおかしくないです。
情動耐性とはこの情動を意識的に調節する機能を指しています。情動耐性が育っていないというのは情動調節ができないという意味です。情動調節について大人には可能でも、前記のように子どもが自分の情動を調節することはできないか大変に難しいです。情動耐性という概念を子どもに用いること自体が既に子どもの心を理解していないことになります。
子どもの情動が安定していると言うことは、子どもに普段加わる刺激で子どもが情動反応しないという意味です。子どもの心が傷ついていないという意味です。「近年の子どもは情動耐性が育っていない」という意味は「近年の子どもは心が傷ついている子どもが多い」と言い換えることができます。それほど学校を含めて近年の子どもの環境は、子どもにとって辛い状況にあります。
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「早々に”学校放棄”をする親」
この言葉は、子どもの不登校問題について、学校に行きたがらない子どもを、親が子どもが学校に行けるようにと努力をしないで、子どもが学校に行かないことを許してしまう。それは好ましくないという意味で、そのような親を非難する言葉です。子どもが学校に行けないのは子どもに問題があり、その問題を親が解決して子どもを学校に行かせるべきだという意見です。
不登校の子どもは学校や学校に関するもので疼く心の傷を持っています。この心の傷が癒えない限り、不登校の子どもが学校に行くとその心の傷が疼き続けて、心の傷を深めて、広げていってしまいます。不登校の子どもの心を守るためにも、心の傷が浅い内からその心の傷を疼かすものから子どもを守ってあげる方が、子どもの不登校問題を解決する早道です。
教師や学校に関係する人たちから見たら、不登校の子どもの存在は自分たちの汚点のように関しています。子ども達の心の状態はどうであれ、不登校の子どもが学校に来れば不登校でなくなりますから、外見上は不登校の子どもがいないことを望んでいます。不登校の子どもが無理をして学校に行った結果、学校を卒業してから子どもが大変に苦しい生活を続けると言うことよりも、目先の子どもが学校に来ると言うことを重要視しています。
教師や学校関係者の言うように、親が不登校の子どもを学校に行かせる対応を続けると子どもは大変に辛くなり、親に暴力を振るったり、いろいろな病気の症状を出すようになります。その責任を教師や学校関係者は取ってくれません。それどころか親の対応が不十分だったと余計に親を非難する場合が多いです。親が全ての責任をかぶって子どもの不登校問題を解決しなければなりません。とても辛い対応を続けなければなりません。
不登校の子どもの立場から言うなら、辛い学校から早く解放されて、心の傷が浅い内に心の傷を疼かす学校や学校に関するものから離れられて、その子どもなりに元気に成長して、自分の意志で社会に出て行った方がその子どもの将来を有意義なものにします。不登校の子どもの立場から言うなら、「早々に”学校放棄”をする親」であってくれた方が、元気に社会に出て行けるという意味で、その子どもの将来のためには有利なのです。
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嫌なものは仕方がない
不登校の子どもを学校に行かせようとしても、学校に行こうとしないので、「嫌なものは仕方がない」と言って、子どもが行くのを嫌がる学校には行かせようとはしない親がいます。それは不登校の子どもを学校に行かせない対応になりますから、不登校の子どもから見たら間違った対応ではないですが、不登校の子どもの心を理解する上では正しくないです。しかし必ずしも間違っていません。
不登校の子どもも基本的には学校が好きですし、友達も好きです。けれど学校や学校に関するもので不登校の子どもは大変に辛くなり、学校や学校に関するものを潜在意識で回避しようとします。その学校を回避しようとする子どもの行動を嫌がると表現するのならそれは正しいです。しかし子どもが行くべき学校を嫌になると表現すると、その言葉の裏には子どもが悪いという意味合いがどことなく感じられます。
不登校の子どもも基本的に学校が好きですし、友達も好きです。けれど学校の中でいろいろな辛い事件を経験をして、その結果学校や学校に関するもので辛さを感じるようになってしまいました。ただしその事件とは、その子ども以外の子どもや教師にとって大した事件でなかったので、その子ども以外の子どもや教師はその子どもが辛い経験をしたことに気づいていません。
誰も気づいていないけれど、その子どもは学校内の事件の被害者であり、子どもには責任がないです。その子ども以外の人は、その子どもがなぜ学校に登校するのを拒否するのか、なぜ学校で辛くなるのか理解できません。そこで教師や大人達はその子どもに原因を求めて、その子どもの不登校問題を解決しようとします。
「嫌なものは仕方がない」という場合には、学校には問題がないし、何かわからないけれど子どもが学校を嫌がっているという事実は仕方がない。その事実を解消しようとするとかえって不登校問題が難しくなるので、その事実を解消しようとしない。子どもが嫌がっている学校には子どもを行かさないという意味になります。子どもが学校を嫌がるという問題点があるが、その問題点には目をつぶるという意味なります。それは不登校を理解しない人たちから見たら、子どもをきちんとしつけしないで、子どもの我が儘を認めているとんでもない親だと誤解されてしまいます。
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親の意識を変える
不登校問題で子どもが学校に行くようにと親にできる限りの努力をして貰うのは、親の意識を変えるのにちょうど良いとある教師が言っています。それはあくまでも教師の立場であり、不登校問題で苦しむ子どもの立場ではないです。
不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いのです。辛い学校に子どもを行かせようとする親では子どもがますます辛くなります。不登校問題で苦しむ子どもは親に対して問題行動をしたり、病気の症状を出すようになります。
学校について意識を変えなければならないのは「不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いところである。その辛い学校に子どもを無理強いして行かせても、子どもはますます辛くなり、その辛さは蓄積しても慣れがない」という事実を知らない教師の方です。
親も「不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いところである。その辛い学校に子どもを無理強いして行かせても、子どもはますます辛くなり、その辛さは蓄積しても慣れがない」という事実をしっかりと認識して、辛い子どもを守ろうとするような対応を取る必要があります。
現在のマスコメディアが発達が学校の存在意味を低下させています。子どもが成長して社会活動ができるようになるために、学校は必ずしも必要なくなっています。昔のように学校に行かないと文盲になるとか、一般知識が付かないとか、職業に就けないとかいうようなことは現在の社会の中ではありません。それどころか自分の意志で学校を利用しないで成長した子どもは、学校に行っている子ども以上に一般知識を持っています。積極的でとても力強い生き方をします。
現在の学校は優秀な子どもの能力をどんどん伸ばす機能もありますが、昔ながらの学校制度に固執しているために、ある意味で子どもをある枠にはめ込み、、社会に対して無害化した、積極性や意欲のない大人を作るための学校にもなっています。現在の学校が子どもをある枠にはめ込もうと強制しだすと子ども達が苦しみ始めるという事実があります。
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母子分離
子どもは胎児期から乳児期にかけて全てを母親に依存して成長していきます。乳児期から少しずつ母親から離れてその子どもなりの生活が始まります。子どもに自我が形成されてきて自己主張を感じるようになる頃には、かなりの時間を母親から離れてその子どもなりに過ごして、だんだん家の外の社会と、特に子ども社会と関わるようになってきます。それを母子分離と言います。この子どもの成長過程は人間ばかりでなく多くの動物にも見られています。
母子分離不全と言う言葉はいろいろな意味で使われています。子どもの年代によっても異なった意味で使われます。ここでは幼い子どもの登校拒否、不登校について言われている母子分離不全について述べてみます。保育園や幼稚園、小学校に母親が子どもを連れて行っても、子どもが泣き叫んで母親に抱きついて離れようとはしない場合です。または子どもが保育園や幼稚園、小学校にいても近くに母親の存在を感じない限り、子供が泣き叫びだして保育士や先生方が困るという場合です。
子どもの置かれている条件で異なりますが、小さな子どもの集団、保育園や幼稚園、小学校などと子どもは関わっていくとき、子どもが母親と離れられなくてこれらの集団の中に入っていけない場合を幼い子どもの母子分離不全と言います。子どもの自立性が育っていないという意味です。ほぼ同じ意味で子どもが母親から離れて生活する訓練ができていないという意味です。母親と子どもとの結びつきが強すぎて、子どもが母親から離れて生活できないという意味です。その原因として母親が子供に対して甘い態度をして子どもを母親から離そうとしないという意味での使い方があります。いずれにしても子供に問題がある、母親に問題があるという意味です。
母子分離不全を指摘された子ども達を観察してみますと、子ども達は全て母親から遊ぶことが可能ですし、面識のない他の子供達の中にもその子どもなりに入っていけます。最終的には一緒に遊ぶこともできます。それでいて子どもが行かなくてはならない保育園や幼稚園、小学校だと入っていけない事実があります。母子分離不全と指摘されている子どもは、その子どもが行かなくてはならない保育園や幼稚園、小学校に問題があるという反応の仕方をします。
また母子分離不全と判断された子どもは、保育園や幼稚園、小学校に一緒に行く大人が父親でも、祖父母でも、同じように反応して泣き叫び父親や祖父母に抱きついてきます。それは父親や祖父母が子どもに甘すぎるのではないです。子どもは保育園や幼稚園、小学校が辛いから、そこから逃げ出したいから、同伴した父親や祖父母に抱きついて離れようとしません。子どもと母親との結びつきが強すぎ離れられなくて、保育園や幼稚園、小学校に入っていけないのではないことが分かります。
なぜ子どもが保育園や幼稚園、小学校に辛さを感じるかを知る必要があります。辛さとは感情(情動)ですから、その子どもなりの特有な反応です。保育園や幼稚園に入園するときに感じる辛さとは新奇刺激でしょう。今まで経験したことのない場所で子どもの集団に加わる経験をしていなかったという意味です。この場合は子どもが納得した状態で経験を繰り返すことで解決できます。子どもを強引に母親から引き離すことで解決しようとすると、子どもの心は傷ついてしまう(恐怖の条件刺激を学習してしまう)でしょう。母親と保育園や幼稚園で一緒に楽しく過ごすようにすれば解決します。
保育園や幼稚園を終えて小学校に入学する場合には、子どもにとって小学校は新奇刺激だけではないです。入学時に小学校に入ることを渋る子どもは新奇刺激の他に、程度の差は合っても既に子どもの集団で疼く心の傷を持っています。無理矢理に子どもを母親から引き離すことで子どもの心は疼き心の傷を広げ深めていってしまいます。母親から無理矢理に離された学校の中に、子どもがどれだけ楽しみを見つけ出せるかと言う要素も、その後子どもが自分から学校に通えるかどうかを決定します。
保育士や教師の立場から言うなら、自分立場子ども達のために働いている保育園や幼稚園、小学校の中に、子どもが母親に抱きついて入ってこないのは子どもに問題があると考えています。子どもと母親との間の結びつきが強すぎて、その結びつきを断ち切って子どもが保育園や幼稚園、小学校に入っていけないと考えています。そのように子どもを育てた母親に問題があると言う意味で、子どもが未だ社会性が育っていないから保育園や幼稚園、小学校に入っていけないという意味で母子分離不全という言葉を使っています。
子どもの立場から言うなら、自分が加わらなくてはならない保育園や幼稚園、小学校に問題があるから、保育園や幼稚園、小学校に子どが入っていきたくないと表現しています。それを無理矢理に入って行かそうとするから、母親に抱きついて行きたくないと表現しています。母子分離不全ではなくて、辛さから回避しようとする単なる回避行動で母親に抱きついています。
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休み癖
子どもは子どもの本能として、学校が楽しければ通学習慣をつけなくても自分から学校に行き続けます。親や大人から見て楽しく幼稚園で過ごしていた子どもの中にも、幼稚園をやっとの思いで卒業して(よい子を演じ続けていた)次に小学校に行ってみたところ、学校が楽しくないばかりか学校が辛くて耐えられないから、子どもは入学当初から学校に行こうとしなくなる子どもがいます。
教師は自分たちの職場である学校に問題があるとは考えません。教師は一生懸命子ども達の成長を願って学校を、授業を維持していますから。そのような教師の思いが好ましい子どもは多いですが、そのような教師の思いが子どもを苦しめるようになっている子どももいることに教師は気づいていません。
そこで記事の中の校長の言葉「早い時期に「学校へ行かなくて良い」意識が根付くと、親子共々それが日常になってしまう」です。学校が辛くて子どもの限界を超えたので、学校に行けなくなった子どもを、殆ど全ての教師はこの言葉のようにまたは休み癖がつくというように理解しています。
この言葉自体は「早い時期に」という部分を除いて、辛い子どもの心を癒すという意味で間違ってはいません。教師が意味している休み癖がつくという意味では間違っています。ここで早い時期と限定しているのは入学当初を含めて低学年という意味です。小学校低学年でなくてもこの言葉は正しいです。
学校が辛くて学校に行きにくい子どもにとって「学校に行かなくて良い」と親が思ってくれたらとてもありがたいことです。安心して、学校を利用しないで、その子どもなりに成長して社会に出て行けるからです。また実際にできています。
今から40~50年以上前と違って、現在は学校に行かなくても学校に行ったと同じ程度の、又それ以上の必要な知識を身につけられるからです。辛すぎて行けない学校に行こうとし続けて一生を無駄にしてしまうよりは、辛い学校と関わらないで成長した方が得な子どもがいるのです。
親が子どもに学校へ行かなくて良いと思わない限り、子どもは学校へ行かなくて良いと思うことはできません。例え親が言葉だけで子どもに学校へ行かなくて良いと言ったとしても、子どもは親の言葉の端や表情、行動から、親が心底子どもに学校へ行かなくて良いと思っていないことに気づきます。子どもは行くと辛い学校へ行こうとし続け苦しみます。
親が心底子どもに学校へ行かなくて良いと思えたら、子どもは辛い学校と縁を切って、その子どもなりの成長を、それも学校に行っている子ども以上に元気に成長をすることができるようになります。
しかし教師はそれを認めることができないです。教師が一生懸命子どものために働いている学校に子どもが辛さを感じている事実を教師はを認められません。子どもが学校に登校しないのは子どもに問題があると考えています。子どもが学校に登校しない理由の一つとして、大人にはあるが子どもにはない”休み癖”という概念を持ち出してきています。
大人である教師には休み癖があるから子どもにもあると考えて、入学当初の小学生について「早い時期に「学校へ行かなくて良い」意識が根付くと、親子共々それが日常になってしまう」と言うようになっています。教師は学校に行きづらい子どもに「学校へ行かなくて良い」という思いをつけさせたくないからです。それは結果的に教師は教師の都合で子どもの教育を行っている状態です。教師は子どもの心理を知らないのです。
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通学習慣
「新一年生では通学習慣を身につけさせることに尽力する」という考え方です。これは子どもが未だ集団生活に加わるしつけ習慣が付いていないから、小学校に入った時点でつけなければならないと言う意味です。その言葉の裏には親が教育して、しつけをして子どもを集団生活に加わられるようにしておくべきだという意味を指しています。しかし新一年生の殆ど全ては幼稚園に通っていました。つまり小学校が幼稚園の延長上にある限り、幼稚園に通えていた子どもは小学校に通えるはずです。それはしつけや習慣の問題ではない物がある事に気づく必要があります。
子どもの心や体の成熟度は幼ければ幼いほど子どもによって差があります。その成熟度の差、つまり子どもの集団に入っていくだけの心や体の成熟が不十分な子どもがいても良いはずです。小学校によっても異なりますが、目新しい小学校から子どもが受ける辛さが子どもの心の成熟度では解決できない場合、子どもは入学当初から学校に通うことを嫌がっても良いはずです。そのような子どもは幼稚園にも行きづらくて、無理をして通園をしていた場合が多いですから、わかりやすいと思います。時には一見幼稚園には元気で通園していても、小学校という新しい子どもの集団には行きづらくなると言う場合もあります。
入学当初から学校に行き渋る子どもの中には、幼稚園で既に心に傷を受けていて(幼稚園でのしつけや管理が厳しくなっている)、既に幼稚園でも通園ができないか難しくなっていた子どもがいます。幼稚園に通園していても、無理をして通園していたのです。そこで新しい小学校に通うようになると、小学校には新奇刺激という新しい辛さの刺激を受けることになります。それは辛さとして子どもに表現されますから、幼稚園、その延長での学校で疼く心の傷の辛さに、この新奇刺激の辛さが加重されて、子どもは学校に行こうとしなくなります。この場合新奇刺激は時間とともに消失します。また、幼稚園やその延長上の小学校で疼く心の傷は一般的に浅い(傷つけた力が弱いし、傷が疼いていた時間が短い)ですから、ちょっとした喜びで癒され、治癒してしまいます。
この二つの場合とも、子どもの学校に行きづらいという問題は時間が解決してくれます。それも一般的に長い時間を要しません。またちょっとした喜び刺激を学校で感じたなら、その喜び刺激の方が学校から受ける辛さよりも大きくなりますから、子どもは問題なく小学校に通えるようになります。その喜び刺激として、子どもは本能として同年代の子どもの集団が好きですし、新しいことを知る喜びも持っています。これらの喜びが学校から受ける辛さよりすぐに大きくなって、子どもを無理に学校に連れて行かなくても、子どもは自然と自分から学校に行くようになります。親や教師を含めて周りの人が尽力しなければならないことは、子どもを学校に行かそうとするのではなくて、学校の中でその子どもなりに子どもの集団に加われるとか、新しい知識を得られると言うような、楽しい思いを与えてあげることです。
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