はじめに
人々は子ども達を秀でた人間に育てようとしています。マスコミも秀でた人間にスポットを当てて、その秀でた人間を賞賛した記事を書き続けます。人々もその秀でた人を自分たちの誇りのように扱う傾向があります。子どもを育てている親も、できたら社会に貢献できる大人を目指して、例え貢献できなくても生活が安定して、社会から非難されない大人を目指して子育てをしています。政府も法律を作り、多くの予算を投じて、優れた子どもが育つような環境作りをしていますし、大人が描く子どもの姿とは異なる子どもへの対策も、不十分ですがそれなりにしてきています。
そのような人々の努力にもかかわらず、人々が好ましいと思えないようなことをする子どもが依然として後を絶ちませんし、そればかりでなく、昔と異なった難しい問題が出てきています。それは子どもとして良い環境におかれてると人々が考えられる子どもについて、人々がびっくりするような問題行動や事件を起こすような子どもが出てきていますし、増えてきているような印象を受けます。そのような事件が起こると、人々はいろいろと原因や対処法を考えて、子ども達への対応を続けていますが、いっこうに子どもが起こす問題行動や事件が減っていないと指摘され続けています。
それだけ政府や子どもを研究している学者達などを含めた社会が子ども達のために努力しているのだから、問題行動や事件を起こす子ども達が出るはずがないというのが、社会の考え方のようです。問題行動や事件を子どもが起こしたときには、その問題行動や事件を起こした子どもが悪い、その子どもの親の子育てが悪いと、原因を問題行動や事件を起こした子どもやその親に求めています。そして子どもを矯正する、親への問題提示するだけで、終わってしまっています。子どもの事件が起きるたびに、同じ対応が取られて子どもの問題の解決になっていないことも指摘されていますが、それ以上のことがなされていません。現実にそれ以上のことができないのです。その理由を考えるのがこの本の目的です。
大人は子どもの時期を経て大人になっています。子どもだった時期の楽しかったこと、辛かったこと、自分の生き方の転機になったことなどを思い出すことができます。親は自分が子どもだった頃のことを思いだし、その記憶を参考にして子育てをしています。子どもの心を理解するときにも、自分が子どもだった頃の経験から、子どもの心を理解できると考えています。子どもが何か問題行動や事件を起こすと、大人の経験からその原因を考えて対処していきます。多くの大人は、この大人の経験から考えた原因や対処法に理解ができます。納得して子どもへの対応をしますが、その大人の経験から考えた原因や対処法に子ども達が納得できていないことを大人達は気づいていません。大人達が考えた原因や対処法に不満や反感を持つ子供達が多くなっています。その大人達への不満や反感が、新たな子ども達の問題行動や事件になっていることにも、大人達は気づいていません。
大人の体も心も、子どもの体や心を単純に延長した延長線上にあるのではないです。体に関しては思春期という体に大きな変化があるので、その体の変化がはっきりと目に見えるので、人は体という意味では大人と子どもと区別して考えることが可能です。ところが心に関しては、子どもの心と大人の心との違いが直接目に見えません。知識や運動能力などは年齢とともに増加していきます。この事実から、子どもの心はただ未熟なだけで、ただ能力が低いだけで、年齢とともに子どもの心は知識や運動能力を高めていって、成熟した大人の心になると考えています。子どもの心は知識や運動能力を高めさえすれば、大人の心になると考えています。子どもの心を大人と同じように扱ってあげることが、子どもの心を早く大人の心にする方法だと考えています。現在の学校教育はそれを目指しているようです。
私たちのように、極限状態の子ども達への対応をしていると、大人達が自分たちの経験から考える子どもの心とは、子ども達の心が大きく異なっていることに気がつきます。大人が子どもの心を理解していないけれど、子ども達が一生懸命大人の思いに合わせようとしている子どもの心がわかってきます。大人達が見ている子どもの姿とは、子どもが一生懸命大人の思いに自分を合わせようとして、合わせられているときの姿です。子どもの方では未だ余裕があって、大人の思いに子どもの心を合わせている姿を大人が見て、大人は子どもの心がわかっている、自分の子どもへの対応は間違っていないと判断しています。
子どもの方で大人の思いに子どもの心を合わせる余裕が無くなると、子どもは大人の思いを受け入れて行動しようとしてもできなくなります。大人の思いとは違った行動をするようになります。それは大人から見た問題行動になります。子どもが問題行動をしたと大人が判断したときには、大人はその子どもの問題行動を正そうとします。正そうとするという意味は、大人の思い通りに子どもを動かそうとすることです。しかし子どもは大人の思い通りに動く余裕がありません。大人の思い通りに動けない子どもに、大人が大人の思う通りに動くようにと要求しても、子どもはやはり大人の思う通りには動けません。多くの場合大人は大人の思い通りに動かない子どもを、恐怖を用いて子どもを動かそうとします。すると子どもは大人の思い通りには動けないけれど、恐怖を回避するために無理をして動きます。その子どもが恐怖を回避するために動いた姿を大人が見て、大人は正しいことをした、子どもはきちんと大人の思い通りに動けると判断します。けれど子どもは恐怖が無くなると大人の思い通りには動けなくなります。それどころか大人から受けた恐怖でますます辛くなり、ますます余裕が無くなって、ますます大人の思い通りには動けなくなります。大人はその子どもに正すべき問題があるから、大人の思い通りその子どもは動かないと判断するようになります。大人の思いと子どもの行動との間に悪循環を生じるようになります。
子どもと大人との間にしっかりとした信頼関係ができている場合には別ですが、多くの場合大人が見る子どもの姿は、大人の思いに子どもが自分自身を合わせて行動している(後に述べるよい子を演じている)姿か、大人の思いに子ども自身を合わせられなくなったための問題行動です。どちらにしても子ども自身の本当の姿ではないです。それなのに多くの大人は、大人の思いを受け入れて大人の思いに沿って行動する子どもを見て、子どもの心理を理解できたと主張しています。それが大人の間での常識になっています。しかし、子どもとしっかりとした信頼関係のある大人の前での子どもの姿、辛くて余裕がないときの子どもの姿、子ども達だけでいるときの子どもの姿、子ども一人でいるときの子どもの姿は、この大人の間で常識となっている子どもの姿とは大きく異なります。子ども本来の姿や心理は、大人が持っている常識とは大きく異なります。大人から見たら非常識な心理が子どもの本当の心理になっています。子どもの心理を知りたいなら、私たちは大人が持っている常識を捨てて、子どもの姿を素直に見て考える必要があります。
その非常識な子どもの心理として、大人の思いを子どもに伝える場合を考えてみます。多くの大人は言葉で子どもに大人の思いを伝えようとします。年長の子どもでは、言葉の上で大人の思いを理解できますが、その大人の思いで行動することはできません。幼い子どもでは、言葉の上でも大人の思いを理解することができません。子どもは言葉で伝えられた大人の思い通りに行動できません。もし、子どもが大人の思い通りの行動をしたとしたなら、そのとき子どもは大人の言葉と一緒に何かの喜びか、何かの恐怖を感じ取ったからです。その喜びとか恐怖を代償にして、子どもは大人の言葉通りに行動をしています。つまり、子どもは大人からの言葉を聞いたときに、子どもの心が作る情動(刺激を受けたとき体中に表現する反応の仕方。一種の感情)から行動をすることに、大人は気づく必要があります。