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反応の仕方の基本は情動行動です。生まれ落ちたときから本能という情動から反応=行動を始めています。その反応=行動の情報は中心灰白質に既に書かれていて、その情報に基づいて反応の仕方=行動をすると同時にその行動の情報は反応の心に書かれて蓄えられていきます。それは基本的だけれどその応用性はきわめて限られています。
また、自然発生的な意欲からの反応の仕方=行動の情報は遊びという形で実際の行動に表れて、反応の心に書かれた反応の仕方が蓄積されて来ます。それと同時に平行した形できっと前頭前野眼窩上回の機能が成熟してくると考えられます。情動は眼窩上回を経て反応の心に送られて、反応の心に書かれた情報から反応=行動するようになります。この際には偶然の情動反応の結果が情動評価されて強化されるという形で反応に柔軟性が出てきます。とても複雑な情動反応をするようになります。
子どもの遊びとはこの本能に書き込まれている反応=行動の仕方を反応の心に書き込む過程です。それと平行して知識の心に情報も蓄え、その知識の心の情報と反応の心の情報とが連合していって、その子どもなりの性格を形成していく課程です。子どもの性格とは決して親との関わりで決まるのではなくて、子どもが遊ぶ遊び方でも決まります。
ある程度反応の心に反応の心に情報が蓄積されると、ひょっとしたらまだ反応の心に情報が蓄積されていなくても、中心灰白質に書き込まれている反応=行動の情報によってでも、ミラーシステムという物が働きます。つまり、目で見た反応や行動が、反応の心にその情報が書き込まれていきます。実際にはそのような反応や行動をしていないのに、見ただけであたかもその反応や行動をしたかのように、反応の心にその反応や行動の情報が書き込まれ強化されていきます。
このようにして子どもの反応や行動は成立していきます。子どもはその反応の心の中の情報が選択されたときには、その反応や行動をすることが出来るようになります。
意識とは何かという問題があります。意識には脳が機能しているという意味と、無意識に対する意識という意味での意識があります。心という意味での意識とは後者の、意識に登る、意識的に何かをするという意味での意識です。
動物では注視の仕組みがかなり分かってきています。ある物に注目しようとする動機は大脳辺縁系の前部で生じていて、その情報が前頭前野眼窩上回から運動連合野(反応の心)に送られて、運動野から体中の運動器官に情報が送られて、目的の物体に注目することが出来ます。その注目した物体はあらゆる感覚、主として視覚を用いて認知されて、注目を維持できます。
この注目の仕組みは同時にワーキングエリアにある概念=認知された物のタグにも働きます。個体外の物体やワーキングエリア内にある概念に注目している状態が意識をしている状態です。そのワーキングエリア内の意識という概念に注目したときに、自分は意識をしているという状態になります。ワーキングエリア内の自我という概念に注目したときに、自我意識=自分の存在を意識することになります。
このように意識とは情動の接近系の一種ですから、情動の回避系が働いているときには働きにくいです。とくに子どもでは意識的な反応が完成していませんから、情動の回避系が働いているときには、意識的な反応は出来ません。また、子どもでは接近系の反応が強すぎるときにも働きません。大人ではこの意識的な反応が可能で、この意識的な反応の一つとして、情動を押さえることが出来ますから、大人では意識的な行動、理性的な反応が可能になります。
このように視覚情報を得ると一方では認知という形で記憶され、人間の大人では今までの経験に基づいた反応をすることになりますが、子どもや人間以外の動物では、その時生じていた情動からの情動反応や情動行動をすることになります。
他方ではその視覚情報は大脳辺縁系扁桃体に送られて、その時生じていた情動の神経回路と連合して、その視覚情報に対する情動記憶を作ります。それ以後の情動反応を生じることになります。
この認知という形での記憶は一時記憶であり、時間とともに消失してしまいます。認知という役目をするタグ(記憶があるところの情報を持った神経細胞)の役目が無くなります。同一の認知を繰り返すことで、又は強い情動記憶を伴った場合には、このタグは永久記憶としてワーキングエリアに残ります。
そうなるとこのタグが選択されたときには、そのタグに相当する記憶が呼び起こされて(トップダウン)それと同時にその記憶に基づく反応行動を生じます。またその記憶が呼び起こされたその情報が大脳辺縁系に送られて、その記憶ができたときの情動回路が機能して、体中に情動を表現するようになります。
この永久記憶になったタグが呼び起こされたときに生じる記憶内容や情動表現内容を、そのタグ=概念のクオリアと呼びます。このクオリアがその概念にその個体なりの重要な意味合いを与えます。
例えば梅干しを知らない人が梅干しを見ても唾液は出ませんが、梅干しを食べた人は、梅干しを見ただけでも唾液が出てきます。西洋の人は日本のお化けを怖がりませんが、日本人は日本のお化けを怖がりますし、西洋のお化けを怖がりません。
脳内での情報処理
人間を含めて動物が行動するときには、体の外からの刺激に反応して、または内部からの欲求から、外からの刺激で、自己内部の状態を把握しながら、自己を修正しながら行動します。外からの刺激にはいろいろとありますが(いわゆる五感)、それらの刺激の内で行動に影響を及ぼす度合いを、脳が情報処理する領域の大きさで計るなら、視覚が一番大きな役目を果たします。
一番多い情報量をもたらします。人間では視覚野とその連合野の大きさは大脳新皮質全体の4分の1(ある本では三分の一と書いてありました)ぐらいあるのではないでしょうか?そこで視覚について脳内の情報処理の仕方を今までの脳科学がもたらした情報から推定してみたいと思います。
光は網膜で神経伝達を可能にする信号に変えられます。網膜の時点で既に一部情報処理されて、視床を経て第一次視覚野に投射されます。第二次から第五次視覚連合野で視覚情報は各図形や色空間配置などの要素に分けられてバラバラに記憶されます。その記憶された場所は新たな視覚情報(私はこれをタグと呼んでいます。このタグは感覚連合野から選ばれます=ボトムアップが、また、
このタグが選ばれたとき、その情報は感覚野へと逆におくられます=トップダウン。)となります。つまりこのタグが励起されますと、このタグが出来た逆の方向に情報が伝わって、記憶の視覚が再現されます。ただし第一次視覚野まで情報が逆に伝わるのかどうか分かりません。夢などでは第一次視覚野が励起されていないと主張する人がいます。
これらの視覚情報がある場所のタグを総まとめにしたタグが前頭前野に出来ると、それが視覚情報が認知されたことになります。同時にそのタグは扁桃体に出来て、その時生じている情動反応と連合=ボトムアップします。つまり、扁桃体に出来たタグは直に情動反応の神経回路と結びついています。
私たちは子どもの心理が大人の心理と同じように考えがちです。子どもの心理の延長上に大人の心理があり、大人の心理を時間的に逆にたどっていけば、子どもの心理にたどり着けると考えがちです。ところが、子どもを考えるときには、子ども特有の心理(完成した脳の機能、完成中の脳の機能、まだ働いていない脳の機能)に注目しなければなりません。そして、この子ども特有の心理は大人になると忘れられてしまうという事実にも、注目しなければなりません。
大人が子どものことを考えるとき、自分の子どもの頃を思い出して、自分の子どもの頃の経験を当てはめて、子どもの立場になっていると考えてしまいます。この場合、大人が子どもの立場に立っていると思っても、大人はすでに子どもの心を忘れてしまっていますから、子どもの立場に立っているのではなくて、大人の立場に立っていることになります。大人の立場から子どもを思いやっているだけで、子どもの立場からではありません。
生物としての子どもの心を考えた場合、親や教師、その他の子どもを取り巻く環境が育てた(子どもが学習させられた)部分と、子ども自身が育てた(学習した)部分とがあります。親や教師やその子どもを取り巻く環境が育てられる心の部分と、親でも、その他の大人でも、その子どもを取り巻く環境からでも育てられなくて、子ども自身が親やその他の大人や自分の周囲の環境に、主体的に関わって育っていく心の部分とがあります。
また、親や教師やその他の子どもを取り巻く環境から育てられた心の部分には、親や教師やその他の子どもを取り巻く環境が育てた心の部分と、子どもの主体性を無視したために、子どもの心が傷ついた心の部分とがあります。
一般的な傾向として、親やその他の大人達や子どもを取り巻く環境が育てた子どもの心の部分は、親や大人達にはわかりやすい傾向がありますが、子ども自身が主体的に関わって作り上げた子どもの心の部分は、親を含めた大人達には分かりにくいものになっています。親やその他の大人達や子どもを取り巻く環境が育てるのに失敗した(傷ついた)子どもの心の部分は、現在の大人達には全く理解できなくて、大人達から子どもの心に問題があると考えられがちです。
そのような心は病気だと考えられたり、そのような心を矯正しなければならないと考えられていて、大人達はそのような子どもを病院に連れて行って治療をしようとしたり、矯正しようとしたりします。そのような子ども達は子ども達の主体性に反した、より辛い関わりを大人達から受けることになります。
このように、親やその他の大人達から見て、その子どもの心(その子どもらしさ)には三つの部分があって、親やその他の大人達がその子どもを育てたのだから、大人達が子ども達をわかっている積もりになっていても、実際にはわかっていないという原因になっています。一般論として、特に子ども自身が育てていくその子どもの心の部分が、その人らしさを形成する(クローンでも他人であることの由縁)要因になっています。
親や教師などのその他の大人達が子ども達を大人達の思うように育てようとしてもできない理由はここにあります。親や教師などの大人達の思うように育てたつもりが、実際には大人達の思うように子どもが育っていない理由がここにあります。親や教師などの大人達の思うように子どもを育てても良いのですが、それだけでは不十分な理由はここにあります。子ども達の心は、親や教師達などの大人が育てた心からだけでできているのではないです。
生物としての子ども (1)
子どもは大人を小さく、未熟にしただけのものではありません。確かに、ある年齢までの子どもは、見かけ上、体は大人より小さく、大人より未熟な部分を持っています。けれど、ある年齢を超えると、子どもでも見かけ上、体が親より大きくなる場合もあり、大人顔負けの能力を発揮する場合もあります。それでも子どもは自分の親を親だと認識し、親は自分の子どもを子どもだと認識しています。
大人は、特に自分の子どもを可愛いと感じます。大人は可愛いと感じる子どもを、ペットや家畜、草花のように可愛がります。けれど、人間の子どもはペットや家畜、草花とは違います。ペットや家畜や草花のように、いつまでも大人に可愛がられたり、守られたりし続けられないです。それは成長すると、親や大人達と同等の大人にならなければならないからです。大人として自立した人間にならなければならないからです。現在の大人が次の世代を託さなくてはならない人間だからです。やがて現在の大人が逆に依存をしなければならない存在だからです。
過去の事例は別として、子ども時代をペットや家畜や草花のように(過保護に、過干渉に)育てられて、子どもの自主性が育てられなかった大人が、現在の社会に不適応を起こしている事例を、私たちは現実に数多く見ることができます。
人は「ペットを家族の一員のように扱う」と言います。けれどペットは家族に従属した動物であり、絶えず家族に従順でなければなりません。それに対して、子どもは子どもが主体性を持って家族に属しています。いかなる時もペットは子どもにも従順である必要がありますが、子どもはペットや親に従順である必要がありません。
子どもは家族の中や子どもの集団の中で、社会に順応して大人になるための経験をしていますから、時には自分を主張(自己主張)するために、親や子どもの集団のリーダーに逆らうこともあります。また、時には、親や子どもの集団のリーダーに逆らってまで自分を主張することが、子どもが大人になるために重要な経験でもあります。それはペットには絶対に許されないことです。
ペットは家族の一員として扱えるように、徹底的に不必要な自己主張をしないように育てられ、子どもは親が許せる範囲で自己主張するように育てられます。成長と共にペットの自己主張は段々制限され、子どもの自己主張は段々広く認められて、最終的には親と同じ自己主張が認められるようになりますし、認められなければなりません。
心という観点からの子どもと大人の違い
人間の場合、心に関しては、大人と子どもと大きな違いがあります。その違いの一つとして、情報の心の心の中の情報量、反応の心の中の情報量の違いがあることは、多くの人は理解できると思います。情報の心、反応の心の中の情報量は、その個体の経験の量により決まるからです。経験が多いほど、経験の機会が多いほど、これらの心の中の情報量は増えていきます。また、人為的に増やすのが、学校教育です。
人間の場合、心に関して、大人と子どもと大きな違いは、思考の心、前頭前野の機能の違いが大きいです。子どもでは、前頭前野の機能が、不十分で大人と同じように機能していないです。どの機能が不十分なのか、その点を脳科学的に解明することは現時点ではできません。そこで子どもを観察し続けた経験から、判断することになります。
経験的には、子どもは大人と違って、情動の心を思考の心で調節できないという事実があります。子どもは情動行動が非常に多くて、その生じた情動行動を意識的に調節することができないか、とても下手です。
顕在意識と潜在意識という観点から大人と子どもとの違いを述べておきます。意識とは何かという問題がありますが、その議論はさしおいて、意識というものがあるとしておきます。大人の日常生活は、それまでの経験から習慣化した行動や反応で反射的に無意識に行われています。そして習慣化した行動や反応で好ましくないときには意識が働いて、状況や今までの知識から新たな行動を選択して行動をします。
つまり日常の生活の多くは潜在意識からの反応であり、必要に応じて顕在意識からの反応となります。人は主として顕在意識の部分しか陳述記憶(意識的に思い出せる記憶)に残りませんから、大人はいつも自分は顕在意識から、意識的に行動していると判断しています。
子どもも日常生活の多くは習慣化した行動や反応から反射的に無意識に行われます。そして習慣化した反応や行動で好ましくないときには、意識的な行動ができないかとても下手なので、親や大人に助けを求めて解決することになります。つまり子どもの日常生活の殆ど全ては潜在意識からの反応であり、顕在意識からの反応はほとんど無い、しようとしてもできないという大人との違いがあります。
また、思考の心が構造的に大人になっても、その機能が大人と同じ機能になるには、ある時間がかかります。それも人によって大きく異なるようですが、場合によっては20代の後半までかかる場合もあるように観察されます。この前頭前野の構造的な成熟と、機能的な成熟に時間的な遅れを生じる理由は、前頭前野に限っては、その構造的な成熟の後に、その前頭前野を使って、その個体に属する文化に適するように機能する練習期間が必要だからであろうと推定されます。
ですから、前頭前野が成熟しても、その前頭前野を社会生活に使うように訓練していない人は、とても子どもっぽく(刺激に単純に反応してしまう。反射的に反応してしまう)感じられますし、前頭前野を社会的に使うように訓練した人は、大人っぽく(思考過程がしっかり感じられる)感じられる人になります。理性的な人になります。
心の問題を扱うには、この思考の心が成熟しているかどうか、成熟していても、日常生活に適応できるように訓練されているかどうかを、念頭に置いて考える必要があります。心という場合の子どもは、この思考の心が完成していても、日常生活ができるように十分にはまだ訓練されていない場合も、入ります。この状態の子どもは、思考の心で、情動の心を制御することが十分にできていません。
知識の心は、物心が付いた頃より構造的には大人になっていますが、その中に存在する情報量はほとんどないので、成長の過程でその情報量を増やしていきます。その情報量を増やすことには際限がありません。この心は、たぶんいわゆる老化が始まるまで情報量を増やしていくのではないかと推定しています。学校では主として知識の心の情報量を増やそうとしています。勉学や経験が知識の心の情報量を増やしていきます。
反応の心は生まれ落ちてからまもなく、大人に近い構造になっていると思います。生まれ落ちてから間もなくて、情報量を増やしていきます。この心も、たぶんいわゆる老化が始まるまで情報量を増やしていくのではないかと推定しています。学校では実技がこの心の情報量を増やしていきます。日上生活の生活の仕方は、この心の中の情報です。体の動きという経験が、この心の情報になります。
情動の心は、子どもが自我を主張しだした幼年期に既に完成していて、大人も子どもも同じ機能を持っています。そして情動の心の中の情報は生まれたときからすぐ側にいる人から模倣という形で取り入れて蓄積していき、同一文化を共有する人たちの間ではほとんど同じだと言って良いです。、子どもが自我を主張しだした幼年期には完成していて、それ以後変化をすることはないと考えて間違いありません。
思考の心は、その構造が大人と同じになるには思春期ぐらいまでかかるようです。前頭前野が大人の心としてその機能を十分に発揮するのには思春期ぐらいまでかかることが推定されますし、現実に子どもが大人になって、その心が十分に大人と同じように機能するには、思春期を超えなければなりません。