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今まで子どもという言葉を使ってきましたが、子どもと大人の違いは思考の心にあります。大人では意識的な判断や行動が大きな役割を果たします(思考判断)が、子どもではそれができないか、とても下手です。一応意識的な思考、判断に基づく反応や行動ができるのが大人であり、意識的な思考、判断ができないのが子どもであると考えられます。
すなわち大人では知識の心の中にある情報と反応の心の中にある情報とを、意識的に結びつけて反応をすることができますが、子どもでは知識の心の中にある情報と反応の中にある情報とが既に連合している(前頭前野がその場所だと考えられる)場合には、知識の心の中の情報で反応や行動ができます(実際に子どもが自分で経験したこと)が、単に知識の心の中の情報だけ(知識として学んだこと)では、反応の心の中の情報を利用して反応や行動をすることができないという違いがあります。
また、子どもでは知識の心、反応の心の中の情報量が、大人の場合の知識の心や反応の心の中の情報量に比べて、少ないことが違いとしてあげられます。この知識の心、反応の心の情報量を増やすのが学習であり、また知識の心の中の情報と反応の心の中の情報を連合させるのも学習です。学校教育はこの目的のためにあるのですが、現在の学校での多くの時間は、知識の心の中の情報を増やすことだけを目的としていて、反応の心の情報量を増やすことも目的としてはいますが、そのための努力はなされていません。また、知識の心の中の情報と、反応の心の中の情報を連合(これも学習ですが)させることにはほとんど努力が払われていません。
知識の心と反応の心との関係を示す良い例に言葉があります。言葉は知識の心の情報から発せられます。言葉とその言葉による反応の仕方が連合していますと、言葉から反射的に行動が可能です。しかし、言葉に対する反応の仕方を学習していないと、言葉から反射的に行動ができません。しかし、大人では言葉を意識的にいろいろと分析して、その結果から意識的に行動することが可能ですが、子どもではそれができないから、混乱を起こしてしまいます。
四つの心
多くの人は自分の経験から、心とはこのようなものだと決めて議論をしています。つまり心というものが存在して、その心はこのようになっていると仮定して、その仮定から人間の行動を説明しています。心が人間の体とは独立した存在として考えています。精神世界を仮定して心の問題を考えるのが精神医学であり、多くの人が考えている心理学です。それを精神身体二元論といいます。
精神身体一元論があります。心とは脳の機能であるという考え方です。今まで十分に脳の機能が解明されていなかったので、現在精神身体一元論を信じる人は少ないです。ところが最近科学技術の発達で、脳科学という分野が急速に発達しました。脳科学で脳を直に調べられるようになり、脳の機能を直に画像にして見ることができるようになりました。
子どもの心を理解するには、脳科学を用いた精神身体一元論から考えないと理解できません。脳科学的には心は次の四つの心から成り立っています。
思考の心・・・意識的な思考や行動を指令する心
反応の心・・・学習した行動の仕方が蓄えられている
知識の心・・・学習した記憶が蓄えられている
情動の心・・・感情を生じる心
注釈
脳科学的には、心とは脳の機能です。脳の内でも学習可能な脳について心を考えています。学習可能な脳としては大脳新皮質と大脳辺縁系です。脳幹は生命そのものといって良いと思います。大脳新皮質と大脳辺縁系はその機能から4つの部分に分けられます。
前頭前野・・・・・思考の心
知識の心の情報を利用して、認知した情報への反応を決める
(反射的な反応と、人間では意識的な反応=顕在意識がある)
運動連合野・・・反応の心
学習した、刺激への反応の仕方(学習した操作記憶)の情報が蓄えられている
(ほとんどが潜在意識の情報である)
感覚連合野・・・知識の心
学習した陳述記憶が蓄えられている
(主として顕在意識で利用されるが、潜在意識に属する場合もある)
大脳辺縁系・・・情動の心
情動反応(感情と考えて大きな間違いにならない)を起こす心
(潜在意識である)
子どもとは
私たちは大人、成人という言葉と区別して、子どもという言葉を使います。子どもという概念を必要とする理由は、大人と違う存在だからです。将来大人になるけれど、子どもは大人と同じに扱えない、大人と同じに扱ってはいけない存在だからです。子どもには大人の持つ常識が当てはまりません。子育てとは子どもの体を成熟させて大人になってもらうためにする大人の対応の他に、生きるための方法を教える、大人の持つ常識、大人が作った文化に子どもが従うようにする(教育する)という意味もあります。
子どもという言葉を使うとき、その子どもという言葉が持つ意味には次の四つがあります。
1.親から生まれたという関係。遺伝的な関係
これはわかりやすいと思います。親から生まれた子どもです。一生続く親から見た子の関係です。そこには遺伝子的な関係が存在しています。子どもの心という観点からでも、この親子関係の存在は子どもの心に大きな影響を与える場合があります。子どもの成長には信頼できる大人が必要です。その信頼できる大人として、子どもは本能的に自分を生んだ母親を選択するからです。
2.法律上の子ども
社会秩序を維持するために法律があります。その法律を幼い子どもは理解できませんから、幼い子どもに法律を当てはめることはかえって社会秩序を乱してしまいます。そこで法律ではわかりやすい年齢で大人と子どもとを区別しようとします。それが日本では20歳です。20歳で成人として扱われます。外国では国によって若干異なります。日本でも、法律によっては、または結婚しているという事実から20歳以下でも、子どもとして保護されないで、法律の適応を受けるものがあります。
養子、親権などと、法律上の親子関係もありますが、省略します。
3.肉体的な成長期にある子ども、性的成熟期前にある子ども
生まれ落ちてから、肉体的に、子どもは成長していきます。そして、思春期を迎えて、肉体的にも性的にも完成して、大人の体になります。生物的な大人になり、生物である人間としての自立が可能になり、子孫を残すことが可能になります。肉体的に成熟する時期と、性的に成熟する時期と、必ずしも等しくはないですが、一般的に同じ頃に成熟してきますから、大人から見て大人かどうかという判断はしやすいです。
4.心の成長期にある子ども
心という観点から、心の構造が未だ大人になっていないという意味での子どもです。この「子どもの心理」の中で子どもと表現したときには、この心の成長期にある子どもです。心の成長期を理解するには、次の四つの心を理解する必要があります。
子どもの方で大人の思いに子どもの心を合わせる余裕が無くなると、子どもは大人の思いを受け入れて行動しようとしてもできなくなります。大人の思いとは違った行動をするようになります。それは大人から見た問題行動になります。子どもが問題行動をしたと大人が判断したときには、大人はその子どもの問題行動を正そうとします。正そうとするという意味は、大人の思い通りに子どもを動かそうとすることです。
しかし子どもは大人の思い通りに動く余裕がありません。大人の思い通りに動けない子どもに、大人が大人の思う通りに動くようにと要求しても、子どもはやはり大人の思う通りには動けません。多くの場合大人は大人の思い通りに動かない子どもを、恐怖を用いて子どもを動かそうとします。すると子どもは大人の思い通りには動けないけれど、恐怖を回避するために無理をして動きます。その子どもが恐怖を回避するために動いた姿を大人が見て、大人は正しいことをした、子どもはきちんと大人の思い通りに動けると判断します。
けれど子どもは恐怖が無くなると大人の思い通りには動けなくなります。それどころか大人から受けた恐怖でますます辛くなり、ますます余裕が無くなって、ますます大人の思い通りには動けなくなります。大人はその子どもに正すべき問題があるから、大人の思い通りその子どもは動かないと判断するようになります。大人の思いと子どもの行動との間に悪循環を生じるようになります。
子どもと大人との間にしっかりとした信頼関係ができている場合には別ですが、多くの場合大人が見る子どもの姿は、大人の思いに子どもが自分自身を合わせて行動している(後に述べるよい子を演じている)姿か、大人の思いに子ども自身を合わせられなくなったための問題行動です。どちらにしても子ども自身の本当の姿ではないです。それなのに多くの大人は、大人の思いを受け入れて大人の思いに沿って行動する子どもを見て、子どもの心理を理解できたと主張しています。それが大人の間での常識になっています。
しかし、子どもとしっかりとした信頼関係のある大人の前での子どもの姿、辛くて余裕がないときの子どもの姿、子ども達だけでいるときの子どもの姿、子ども一人でいるときの子どもの姿は、この大人の間で常識となっている子どもの姿とは大きく異なります。子ども本来の姿や心理は、大人が持っている常識とは大きく異なります。大人から見たら非常識な心理が子どもの本当の心理になっています。子どもの心理を知りたいなら、私たちは大人が持っている常識を捨てて、子どもの姿を素直に見て考える必要があります。
その非常識な子どもの心理として、大人の思いを子どもに伝える場合を考えてみます。多くの大人は言葉で子どもに大人の思いを伝えようとします。年長の子どもでは、言葉の上で大人の思いを理解できますが、その大人の思いで行動することはできません。幼い子どもでは、言葉の上でも大人の思いを理解することができません。子どもは言葉で伝えられた大人の思い通りに行動できません。
もし、子どもが大人の思い通りの行動をしたとしたなら、そのとき子どもは大人の言葉と一緒に何かの喜びか、何かの恐怖を感じ取ったからです。その喜びとか恐怖を代償にして、子どもは大人の言葉通りに行動をしています。つまり、子どもは大人からの言葉を聞いたときに、子どもの心が作る情動(刺激を受けたとき体中に表現する反応の仕方。一種の感情)から行動をすることに、大人は気づく必要があります。
大人は子どもの時期を経て大人になっています。子どもだった時期の楽しかったこと、辛かったこと、自分の生き方の転機になったことなどを思い出すことができます。親は自分が子どもだった頃のことを思いだし、その記憶を参考にして子育てをしています。子どもの心を理解するときにも、自分が子どもだった頃の経験から、子どもの心を理解できると考えています。
子どもが何か問題行動や事件を起こすと、大人の経験からその原因を考えて対処していきます。多くの大人は、この大人の経験から考えた原因や対処法に理解ができます。納得して子どもへの対応をしますが、その大人の経験から考えた原因や対処法に子ども達が納得できていないことを大人達は気づいていません。
大人達が考えた原因や対処法に不満や反感を持つ子供達が多くなっています。その大人達への不満や反感が、新たな子ども達の問題行動や事件になっていることにも、大人達は気づいていません。
大人の体も心も、子どもの体や心を単純に延長した延長線上にあるのではないです。体に関しては思春期という体に大きな変化があるので、その体の変化がはっきりと目に見えるので、人は体という意味では大人と子どもと区別して考えることが可能です。
ところが心に関しては、子どもの心と大人の心との違いが直接目に見えません。知識や運動能力などは年齢とともに増加していきます。この事実から、子どもの心はただ未熟なだけで、ただ能力が低いだけで、年齢とともに子どもの心は知識や運動能力を高めていって、成熟した大人の心になると考えています。子どもの心は知識や運動能力を高めさえすれば、大人の心になると考えています。子どもの心を大人と同じように扱ってあげることが、子どもの心を早く大人の心にする方法だと考えています。現在の学校教育はそれを目指しているようです。
私たちのように、極限状態の子ども達への対応をしていると、大人達が自分たちの経験から考える子どもの心とは、子ども達の心が大きく異なっていることに気がつきます。大人が子どもの心を理解していないけれど、子ども達が一生懸命大人の思いに合わせようとしている子どもの心がわかってきます。大人達が見ている子どもの姿とは、子どもが一生懸命大人の思いに自分を合わせようとして、合わせられているときの姿です。子どもの方では未だ余裕があって、大人の思いに子どもの心を合わせている姿を大人が見て、大人は子どもの心がわかっている、自分の子どもへの対応は間違っていないと判断しています。
人々は子ども達を秀でた人間に育てようとしています。マスコミも秀でた人間にスポットを当てて、その秀でた人間を賞賛した記事を書き続けます。人々もその秀でた人を自分たちの誇りのように扱う傾向があります。子どもを育てている親も、できたら社会に貢献できる大人を目指して、例え貢献できなくても生活が安定して、社会から非難されない大人を目指して子育てをしています。政府も法律を作り、多くの予算を投じて、優れた子どもが育つような環境作りをしていますし、大人が描く子どもの姿とは異なる子どもへの対策も、不十分ですがそれなりにしてきています。
そのような人々の努力にもかかわらず、人々が好ましいと思えないようなことをする子どもが依然として後を絶ちませんし、そればかりでなく、昔と異なった難しい問題が出てきています。それは子どもとして良い環境におかれてると人々が考えられる子どもについて、人々がびっくりするような問題行動や事件を起こすような子どもが出てきていますし、増えてきているような印象を受けます。そのような事件が起こると、人々はいろいろと原因や対処法を考えて、子ども達への対応を続けていますが、いっこうに子どもが起こす問題行動や事件が減っていないと指摘され続けています。
それだけ政府や子どもを研究している学者達などを含めた社会が子ども達のために努力しているのだから、問題行動や事件を起こす子ども達が出るはずがないというのが、社会の考え方のようです。問題行動や事件を子どもが起こしたときには、その問題行動や事件を起こした子どもが悪い、その子どもの親の子育てが悪いと、原因を問題行動や事件を起こした子どもやその親に求めています。そして子どもを矯正する、親への問題提示するだけで、終わってしまっています。子どもの事件が起きるたびに、同じ対応が取られて子どもの問題の解決になっていないことも指摘されていますが、それ以上のことがなされていません。現実にそれ以上のことができないので
親や大人の子育てに、私が疑問を感じた出したのは今から約15年ほど前でした。神経症状や精神疾患的な症状をあらわしている子どもたちを診ている内に、それらが単なる病気でないことに気づきました。不登校、引きこもりをする子どもたちには、根底に”学校恐怖症”ともいうべき、心の傷からもたらされる特殊な心理のメカニズムがあることも分かってきました。そして、多くの子どもたちが親や教師などの大人が抱いている子育てや教育の常識によって、窮地に追い込まれている現状も浮かび上がってきたのです。