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つまらなそうにしている子ども
ある不登校の子どもを持つ母親から
「子どもがつまらなさそうに朝から晩までテレビやゲームを惰性でこなしている。そんなにつまらないならテレビやゲームをしなければ良い。もっと健康な遊びをして欲しい、元気に遊んで欲しい」
と言っていました。
これは不登校の子どもの心を知らない人の発想です。その子どもはテレビやゲームがとても楽しいです。しかしテレビを見ても、ゲームをしても楽しくしていると表現できないのです。それはその子どもの心が登校刺激を受けて、学校を意識していると死ぬほど辛いからです。その辛さをテレビやゲームで埋め合わせて差し引きゼロにしようとしています。差し引きゼロにしようとしても、十分にゼロにならないとき、まだ少し辛さが残っているとき、子どもはごろごろとしていて、活力がありません。
子どもには大人と同じ考える心と、大人では考える心で調節されている情動の心とがあります。子どもでは考える心から言葉を発しますが、大人と違って子どもの行動は子どもの本心である情動からなされます。情動の心には何かを得ようとする楽しさの機能と、何かから逃げようとする辛さの機能とがあります。そして楽しさの機能と辛さの機能はお互いに打ち消して、残った方の機能から行動をすることになります。
不登校の子どもでは学校を意識すると辛くなります。テレビやゲームをするとその辛さを打ち消すことができますから、どうにか自分を維持できます。不登校の子どもを元気にするには学校を意識しなくて良いようにしてあげることで可能です。子どもは学校という辛さがなくなって、テレビやゲームで楽しさが残って、子どもの情動は何かを求める楽しさになります。子どもは元気に活動をし始めます。大人はそのままテレビ漬け、ゲーム漬けになって何もしなくなると考えますが、そうではありません。元気になった子どもはテレビやゲームを必ず卒業して、その子どもなりの建設的な活動を始めます。
あ、そうだ!
娘が不登校引きこもりになって五年がたちました。最近母親が常識を捨てて、娘の非常識な要求を叶えるようにしだして、娘と母親との関係がどんどん変わってきました。娘と母親との会話が増えてきました。
ある日、母親が相談しているカウンセラーを娘が訪ねて行き、カウンセラーと話をしました。その会話の中でカウンセラーから「今のまま不登校、引きこもりをしていて良い。何もしなくて家の中でごろごろしていて良い。何かしたくなったら、何か楽しいことがあったら、親が反対してもそれをしなさい」と言われました。
その後で娘は私に「私には何もしたいものがないし、何も楽しいものもない。」とがっかりした様子で言っていました。私はその話を相づちだけ打って聞き流しました。その娘が突然「あ、そうだ。料理をしてみたい。今日はチョコレートケーキを作りたい。」と言いだして、すぐにレシピーの本取り出して作り始めました。
私としては台所を占有されて迷惑なのですが、娘が何か言い出すまでぼけーっと見ていました。
「母さん、チョコレートとバターがないから買ってきて。」
と娘が言ったので、私はすぐに買いに出かけました。
このことを契機に、娘は私からだんだん離れていきました。それまでは私が側にいないととても不安がったのですが、昼間一人で出かけていきます。夜は私と同じ部屋で寝ていたのに、今は自分の部屋で寝ています。今の私は何か寂しさも感じてしまいます。娘の不登校がなければ、きっと過干渉の母親、管理だけの母親を続けていたと思います。娘を苦しませ続けていたと思います。
NHKのニュースでダウン症で書家の金澤翔子さん(書かれた書がhttp://www.pref.iwate.jp/view.rbz?cd=35683 で紹介されています)の活動が報道されたことがありました。金澤翔子さんはダウン症に併発する脳障害から知的な障害を生じて、母親との生活をよぎなくされているようですが、書道に関する天才と言われている能力から日本中を飛び回って書道の活動をしています。
サバンと表現される人たちがいます。脳障害により日常生活に障害を持っていますから発達障害の病名を持っているけれど、ある特殊な分野で天才的な能力を発揮するようになっている人たちです。この人たちは発達障害の病名を持っていても、精神科領域での発達障害ではありません。精神科領域の発達障害とは、脳障害がないという前提条件があります。
脳障害がない人が出す発達障害の症状と、脳障害がある人が出す発達障害の症状と、区別は大変に難しいです。その理由として精神科医は、脳障害がない人が出す発達障害の症状も、今の科学で知ることができない脳障害から生じていると考えています。それ故に多くの人が、発達障害の子どもに関係している人ですら、これらの区別をしていません。脳障害がある発達障害と言われた人への対応を脳障害がない発達障害と言われた人へ行っている場合が多いです。
脳障害のある人への対応は、残っている能力を伸ばす対応です。脳障害がある人自身も自分の能力が伸びて周囲の人が喜ぶから、その能力を伸ばそうとする場合が多いようです。脳障害がなくて発達障害の症状を出している人に、脳障害がある人の対応を行ったなら、脳障害がなくて発達障害の症状を出している人はますます辛くなってしまいます。発達障害の症状を強めて言ってしまいます。
脳障害がなくて発達障害の症状を出している人たちは、人によって異なりますが、人間関係に苦しんで発達障害の症状を出しています。というより子どもの時に誰にでもある幼児性から心が発達させられないでいる状態です。幼児性から心が発達させられないで、年齢が進んでも幼児性を表現している姿です。なぜ幼児性から心が発達させられなかったかという問題です。
親や大人に子どもを苦しめたという記憶がなくても、親や大人がごく当たり前として行ってきた対応で、その子どもなりに身につけている感受性から子どもが苦しんで、子どもが自分の幼児性から心を発達させられなかったのです。このように親や大人の対応で苦しんで発達障害の症状を出している子どもには、親や大人の常識的な対応は今まで自分を辛くしてきた対応の延長線上にありますから、ますます苦しくなって発達障害の症状を強めていきます。年齢が進むに従って固定化していくことになります。
辛さと楽しさ
動物と共通の人間の脳についてです。人間の生命を維持する脳には、本能であり、潜在意識の働きとして接近系と回避系があります。接近系とは私たちの言葉で楽しさ、喜びであり、回避系とは私たちの言葉で辛さ、怖さです。
辛さとは危険から命を守る脳の反応です。脳が辛さを表現するときにはその辛さから逃げようとします。逃げられないときには外に向かって荒れたり、内に向かって病気の症状を出します。
繰り返す辛さには相乗作用があります。初めは些細な辛さでも、繰り返す内にとても大きな辛さになります。他の人から見て何でもないようなことに強く反応してしまい、とても信じられない行動をしたり、心の病的な症状を出してしまいます。
楽しさとは能力を高めようとする脳の反応です。成長をしようとする脳の反応です。ですから子どもの本来の姿は楽しさです。子どもはその楽しさからその子どもなりに成長をして行ってくれます。
楽しさには慣れがあります。慣れがありますから繰り返す楽しさは楽しさでなくなり、当たり前になってしまいます。楽しさに慣れを生じると脳は新たに楽しいものを求めようとします。ですから楽しさには発展性があります。
辛さと楽しさにはお互いに打ち消す作用があります。辛さは楽しさを軽減しますし、楽しさは辛さを解消してくれます。同一のことでいつまでも楽しさを感じたいなら、楽しさの後に適度な辛さが必要です。その辛さで楽しさが薄められたら、同一のことでまた楽しさを感じられるようになります。
苦しんでいる子どもにその子どもなりの楽しさを与えてあげると、子どもは苦しまなくなります。ただし大人が子どもに与える楽しさは、その子どもが楽しいだろうと大人が判断しただけであり、子どもが言葉で「楽しい」と言っても、本当に楽しいのかどうかは別です。子どもが楽しいからと自分から求めるもので、子どもは辛さを薄めて心を元気にして行きます。
子どもが出す心の病的な症状は子どもがとても辛いという意味です。いわゆる子どもの心の病の症状は薬で一時的に楽になっても、薬では治りません。子どもの心の病の特効薬は子どもが感じる喜びです。それも大人が与えた喜びでは効果がないと考えて下さい。大人の考える子どもの喜びは、子どもの喜びでないからです。子ども自身が求める喜びはとても効果的です。しかし子どもの心が辛い状態ですと、子どもの方から喜びを求められない場合が多いです。けれど母親だけは特別です。母親自体が子どもの本能からの大きな喜びですから、母親の共感とスキンシップが子どもの辛さを解消できます。いわゆる子どもの心の病は母親から受ける喜びだけが特効薬だという意味になります。
子どもでは母親からの共感の言葉や母親との触れ合い(スキンシップ)で、本能的にとても大きな喜びを得られます。子どもは辛くなると母親の側で、母親に触れながら過ごそうとしますし、母親も母性が働いているときにはそのような子どもを許そうとします。それだけで子どもは楽しくなれますし、心が元気になることができます。子どもが暴れるなどの問題行動をしたり心の病的な症状を出しているとき、母親の共感と触れ合いから受ける子どもの喜びを使うことで解決を可能にします。
経験からの子どもと母親の関係です。子どもが荒れたり心の病的な症状を出している原因は母親でないのですが、母親の対応が悪く(母親が知識から子どもを理解しようとして、子どもの本心に沿った対応をしていない)て子どもがそのような反応を出し続けています。その母親が対応を変えて、子どもの本心に喜びを与えようとしても、子どもはすぐに受け入れないことが多いです。子どもの本心に喜びを与える対応で子どもの心は楽になるのですが、初めのうちは母親の対応を拒否する行動をとることが多いです。それは子どもが母親の本心を確かめる(テスト、お試し)行動です。それで母親がひるまないで、子どもの心に喜びを与え続けたなら、子どもは無条件で母親を受け入れるようになります。心が楽しくなり、自分の問題を自分で解決できるようになれます。
経験からの子どもと母親との関係です。子どもがいわゆる発達障害や心の病の症状を出しているとき、その原因は子どもによっていろいろでしょうが、子ども自身(生まれつき)や母親が原因ではありません。けれど子どもの心の状態を母親に理解ができなくて、その対応が子どもの本心に沿っていなくて辛いから、発達障害や心の病の症状を出しています。別の見方をすると母親の対応が子どもの本心に沿っていないから嫌だという子どもからのサインとも考えられます。傾向として子どもが幼ければ幼いほど発達障害だと思われてしまう症状を出し、子どもの年齢が進むと辛い心の症状を出すようになります。
いわゆる発達障害でも心の病でも当てはまりますが、これらの症状を出し続けていると、これらの症状を出す原因に敏感に反応をするようになります。他の人では何でもない場所で、とても原因があるとは思えない場所で、子どもが症状を出してしまいます。その姿から大人も症状を出している当人も、発達障害だ、心の病だと確信してしまいます。また、これらの症状を出し続けていますと、脳内に変化を生じてしまいます。その脳内の変化からこれらの症状を出しやすくなってしまいます。症状の固定化を生じて、周囲の人は病気だと確信するようになります。それでもその脳内の変化は対応次第では回復可能なようです。ただし大変に難しくて時間がかかります。
いわゆる発達障害や心の病で長年苦しんでいる子ども(年長の子ども)への対応を行っていて感じることがあります。子どもたちの症状は母親の対応が悪くて、子どもの辛さが改善しないという子どもの訴えなのですが、子どもは言葉でも行動でも母親を擁護しようとします。子ども自身の辛さの原因を診断されている発達障害や心の病に求めてしまいます。自分を苦しめている誰も気づいていない原因を解消しようとしなくなります。辛くなると医療にかかり、薬に解決を求めようとします。
不登校の原因ときっかけ
子どもが不登校になったとき、親や教師、その他の相談機関は、子どもが不登校になった直前の事件が原因であり、それを解決して子どもを学校に行かせようとします。例えば教室内でいじめを受けたのを機会に子どもが学校に行かなくなったとき、親や教師はいじめた子どもに「もういじめをしない」と約束させます。いじめられた子どもとと和解の場所を作って、それによりいじめが解決したとします。いじめられた子どもに学校に来るように関わります。そのようにしても、子どもは学校に来られないか、来てもやがてまた学校に行けなくなります。
不登校についていろいろな説明がされていますが、脳神経生理的に考えると、不登校の子どもは「学校を辛さを生じる条件刺激として学習」した状態です。不登校の子どもは学校を見たり意識すると、辛さを生じる条件反射が働いて、体中に辛い反応を生じて、学校を拒否せざるを得なくなっています。潜在意識にある本心では学校に行きたくないのです。
しかし子どもが学校を拒否しても、親や教師によって大きな力で学校に押されると、その押す力が学校を拒否する力より大きいと、子どもは学校を拒否していても学校に行ってしまいます。不登校になる子どもは、言葉では「学校に行きたい」と言い、学校に行くと元気に過ごしてきます。それは子どもが”よい子”を演じているだけであり、学校に押されて行っているだけであり、子どもに何かあると学校を拒否する力が強くなり、すぐに学校に行けなくなる状態なのです。上記のいじめの例では、たまたまいじめが不登校になるきっかけだっただけです。
不登校の原因を見つけるのは大変に難しいです。子どもの姿に関係なく、知らないうちに子どもは学校が辛くなってきて、学校に行きづらくなっているからです。不登校のきっかけを不登校の原因と理解してしまう理由です。
脳神経生理的には、不登校は「学校を辛さを生じる条件刺激として学習した」状態です。「学校を辛さを生じる条件刺激として学習」したとは、学校生活の中でその子どもにとって辛いことを繰り返し経験していたのです。辛い経験を繰り返す内に、「学校に辛さを生じる条件刺激の学習」が強化されてしまい、ついに辛さに耐えきれなくなったのです。
何が辛かったのか、それは子ども次第です。不登校になった子どもでは、他の子どもでは何でもなかったこと、たいして辛いことでなかったこと、時には楽しかったことで、辛くなっていたのです。そのいくつもの辛かった経験が不登校の原因になっています。不登校の原因は一つでないです。特定が難しいです。
自分の中での戦い
息子は中学一年生の夏休みを終えてから、二年近く学校に行っていません。その間、息子にとっても、私にとっても、辛いことがたくさんありました。私も辛かったですが、やっとこの頃、「息子は私の子どもだから、私しか息子を信じて待てあげられる人はいない」と思えるようになりました。
この一週間、息子は朝七時半頃に起きてきます。今日も朝七時半頃起きてきて、
「飯」
とだけ言いました。私が急いで朝食の用意をしました。むすこは朝食を食べ終わると、洗い物をしている私のそばにやって、
「俺、学校に行こうと思っている」
とぽつりと言いました。即座に私は
「そう、健司は学校に行かなくてはいけないと思っているのね。でも母さんは、健司は学校に行かなくて、家で健司らしく楽しく過ごしていて欲しいと思っているのよ。」
と言いました。すると息子は
「おまえは俺のことをいつまでたってもわかってくれない。俺は家にいるのが飽きた。家がつまらない。学校にいきたんだ!」
と怒鳴って、自分の部屋に行ってしまい、また布団に潜り込んで寝てしまったようです。
私には息子が家にいるのを飽きてつまらないと感じているは判断していません。息子はまだ学校に行かなくてはならないと思っています。けれど学校に向かって体が動かないので苦しんでいます。息子の本心が学校を拒否していますが、息子はこの事実に気づいていません。
息子は「学校に行かなくてはならない」という思いと、「現実に体が動かなくて学校に行けない。それをどうにかしなくてはならない」という思いを、息子の中で戦わせています。今は「学校に行かなくてはならない」という思いが勝っています。そのような息子に私は何もできないけれど、まだ息子が知らないでいる「学校に行かないで成長をする道」があることを、私は息子に示し続けています。