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医師不足:政務官の誤解

よね様 / 2007.07.26 10:12 / 推薦数 : 5

今日配信された「安倍内閣メールマガジン(第39号 2007/07/26)」に、
[お答えします]
● 地方における医師不足対策(回答者 厚生労働大臣政務官 菅原一秀)
という文章を見た。

以下、全文を転載させていただく。
〜〜〜〜〜〜〜〜
●質問

 地方の医療問題は深刻です。とくに私が住んでいる北海道は面積が広いため満足な医療機関に行くためには2時間以上を要します。医療問題に地域格差を作ってはいけません。すでに地域でどうこうできる段階ではありません。医療問題を「政治の責任」のなかで解決していただきたい。(男、40代、会社員、北海道)

●回答 (厚生労働大臣政務官 菅原一秀)

 貴重なご意見、ありがとうございました。

 全国各地の医師不足を訴える声が日増しに大きくなっている中で、北海道は面積が広く、道内に適切に医師を配置するには特段のご苦労があることを考えると、道内における医師不足が深刻な状況にあることは私も十分認識しています。医師不足を訴える声を深刻に受け止め、地域に必要な医師を確保していかなければならないと考えています。
 
 従来、地域に必要な医師の配置については、大学の医学部が担っていましたが、大学医学部の医師の派遣機能が低下しているため、今後は都道府県が中心となり、医師が集まる病院(マグネットホスピタル)と協働して医師を必要とする病院が医師を確保できるよう、システム作りに取り組んでいます。

 国としては、19年度予算を大幅に拡大し、医師確保に関係する予算を約100億円計上しました。その中では、(1)都道府県が設置している地域医療対策協議会を通じた医師派遣が行われる際に、それに協力してくれる病院への助成、(2)臨床研修において医師不足地域や小児科・産婦人科を重点的に支援するなど、都道府県における医師確保に係る取組みを財政面や内容面から支援することにしています。

 さらに、5月31日に政府と与党が一体となって「緊急医師確保対策」を取りまとめ、緊急の対策として、国レベルで医師不足地域に対して医師を派遣する体制を整備することにしました。その第1弾として、北海道の岩内にある病院のほか、岩手県や大分県など全国6か所の病院へ、全国規模の病院グループの医師や公募した医師の派遣を決定し、6月27日には、安倍総理が、派遣される医師の方々などを官邸に招き、激励したところです。

 また、その対策の中で、臨床研修制度の見直しなどによる研修医などが都市部の病院に集中することの是正や、都道府県が定める医師不足地域で勤務する医師を養成するため、医学部の定員を臨時的に増加する措置を行うこととしました。

 その他、北海道では、平成17年度より医師が搭乗して、機内などで必要な治療を行いつつ、傷病者の方を速やかに医療機関などに搬送できる救急医療用ヘリ(ドクターヘリ)も導入されています。「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」が本年6月に成立したところであり、国民の皆さまが安心して暮らせるよう、全国的に整備されるよう推進していきます。

 今回取りまとめられた「緊急医師確保対策」を受け、20年度予算などにおいて「地域の医療が改善されたと実感できる」実効性のある対策を具体化していきたいと考えています。

※ 地域で活躍している医師については「山移診療所〜我が村の熱血先生〜(大分県中津市)」を政府インターネットテレビでご覧いただけます。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg1278.html
〜〜〜〜〜〜〜〜


・・・・・・

突っ込みどころ満載なので、どこから手を付ければよいのやら・・・。
これで解決されると思っているのであれば、やはり医師不足に対する認識が甘いと言われても仕方あるまい。

恐らく、この記事を見たDoctor Takechan先生は、情け容赦なくバッサバッサと切り捨てて行かれるでしょう。
温厚な私は、ささやかな突っ込みを入れておきます。

1)「地域に必要な医師の配置については、大学の医学部が担っていましたが、大学医学部の医師の派遣機能が低下しているため・・・」

(オレ様の突っ込み)
 なぜ突然医師派遣機能が低下したのか、誰がそうしてしまったか、そしてその是非についてどう考えているのか、明確にするべきでしょう。

2)「19年度予算を大幅に拡大し、医師確保に関係する予算を約100億円計上しました。その中では、(1)都道府県が設置している地域医療対策協議会を通じた医師派遣が行われる際に、それに協力してくれる病院への助成、(2)臨床研修において医師不足地域や小児科・産婦人科を重点的に支援するなど、都道府県における医師確保に係る取組みを財政面や内容面から支援する」

(オレ様の突っ込み)
(1)はまだしも、(2)は「(保険医を持たない)研修医」を地域に再配分する施策のようです。中堅の医師のパフォーマンスを10として、(保険医を持たない)研修医がどのレベルで貢献できるか、試算するべきであり、また研修医の教育に時間を割かれる中堅医師のパフォーマンス低下についてどう考えているのでしょう?

3)「その第1弾として、北海道の岩内にある病院のほか、岩手県や大分県など全国6か所の病院へ、全国規模の病院グループの医師や公募した医師の派遣を決定し、6月27日には、安倍総理が、派遣される医師の方々などを官邸に招き、激励したところです。」

(オレ様の突っ込み)
大いに激励して頂きたいが、第2弾、第3弾・・・、そして長期展望はどうなっているのでしょう? 第1弾の期間は??

4)「臨床研修制度の見直しなどによる研修医などが都市部の病院に集中することの是正や、都道府県が定める医師不足地域で勤務する医師を養成するため、医学部の定員を臨時的に増加する措置を行う」

(オレ様の突っ込み)
また研修医ですか・・・。問題の本質を分析せず、政治として手を付けやすいところからやるという悪癖です。
医学部定員の増加はもちろん考慮すべきですが、効果が出てくるのは10年後。また定員を「臨時的に」増加させることにより、どのような効果が出てくるか、については疑問です。地域枠などであれば、まだ多少の効果はありますが、都会の医学部で増加した定員は、また都会へ流れるのでは?

5)「「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」が本年6月に成立したところであり、・・・」

(オレ様の突っ込み)
これは色々な人が言っているように、救急医療用ヘリを増やしても、搬入先の病院が手一杯なら全く意味無し。これは着陸できるところが限定されている点で劣る以外、救急車を増やすことと余り大差なし。但し僻地であれば、多少の意味はあるが・・・・。

6)「※ 地域で活躍している医師については「山移診療所〜我が村の熱血先生〜(大分県中津市)」を政府インターネットテレビでご覧いただけます。」

(オレ様の突っ込み)
この「情」に訴えてくる最近の政府の手法は、余り感心しない。地域医療に情熱を注いでいる先生がいることは素晴らしいことであるが、同じような医者はこれまでにも沢山いたはずで、しかもバーンアウトした方々もいるはず。このような影の部分を無視して頑張っているところだけ紹介するのは、情報操作ではないか?

ちなみに大分県中津市は「福沢諭吉のふるさと」であり、江戸時代から藩校における教育レベルが高く、現在もれっきとした「市」なのだが、ここが僻地なのだろうか・・・??

要するに、この医師不足対策も全て付け焼き刃であり、しっかりとした分析のもとに出てきた案ではないので、「選挙対策」と揶揄されても仕方ないのではないか??

さらなるツッコミをお願いします!!

ではまた!

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努力をすれば、報われる!

よね様 / 2007.07.25 05:18 / 推薦数 : 3

参議院選挙の日は不在にしているので、昨日前投票をしてきました。

私はここで政治的な話題をすることを意識的に避けているのですが、今日はワンポイントだけ・・・「努力をすれば、報われる!」について。
(エビデンスはもう一回休みます)

小泉政権から安部政権に「改革」が受け継がれ、未だに改革を叫んでいます。しかし何故改革が必要なのか、という点については、十分な議論は無しです。
例えば教育改革。なぜ必要で、どうしたらどうなる。この議論が極めて不毛かつ意味不明です。なぜ教育改革をしたら、美しい国になるのでしょう。

なぜ正社員になる努力をしないか、なぜ勉強しないか、なぜ先生の言うことを聴かないか、なぜ年金を払おうとしないか、なぜ税金を逃れようとするのか、なぜテロの捕虜になった同胞の救出に自衛隊を派遣することなく「自己責任」で済まそうとするのか、なぜ楽をして良い暮らしをしようとするのか、なぜ新卒の医師は楽な診療科へ流れてしまうのか・・・。

答えは全て一つに集約されます。
今の規制緩和・競争社会では、「努力をすれば、報われる!」という実感が無いからです。

今日、井沢元彦氏の「封印された日本史」というペーパーバックを読み終えましたが、戦国時代から江戸時代のウルトラピースが如何にして生まれたか、について、大変面白い考察をなさっています。

織田信長は楽市楽座など多くの規制緩和を行いました。しかし一方で世は下克上。武士の功績は戦争〜人殺しによって成立していたのです。信長を含め、ある商人とある種の大名は、この制度を利用して多くの利益を上げます。信長は得た資金を鉄砲輸入に注ぎ込み、その武力を揺るぎないものにしたことはご存知の通りです。
そして秀吉の代になり、一応天下統一の状態になりますが、余剰な武士の存在と余剰な資金のはけ口として、秀吉は何を血迷ったか朝鮮出兵を行い、完膚無きまでに返り討ちにあってしまいます。その疲弊した秀吉を、虎視眈々と力を蓄えてきた家康が討った訳です。

家康が徳川家・江戸幕府の安泰のために行った政策は、参勤交代制度による富の集中の排除。また(ここが井沢氏の理論の面白いところですが)綱吉の生類憐れみの令により「殺生=人殺し」を徹底的に取り締まることにより治安が安定し、生活不安が無くなった民衆が元禄文化を築いていった、というストーリーです。

つまり江戸時代が安定期に入るためには、社会を安定させるための徹底的な「規制強化」が行われた訳です。

もちろんこの時代にも貧しい人たちはいたはずですが、国により治安がしっかりと保障され、労働の報酬として1の喜びが得られるのであれば、99の努力をするし、そのための年貢もちゃんと差し出す、というのが、日本人の美徳だった訳です。

戦後アメリカの庇護下にあってウルトラピースの下に高度経済成長を遂げた日本の戦後諸制度が徐々に制度疲弊し矛盾が生じてきたため、そして押しつけられた「グローバルスタンダード」へ対抗し、日本がさらなる繁栄を享受するために、「改革」が必要だったはずです。

ところが2000年以降の「改革」は、本来の「制度改革」の目的を完全に逸脱してしまい、日本人の美徳と社会の持つ良き伝統までを破壊して来たのではないのでしょうか?

美しい国を創るには、教育改革など小手先のことはどうでもよく、もっと治安と雇用の安定に尽力する政府を、そして「努力をすれば、報われる!」と実感できる社会を創る政府を選ぶことが重要ではないでしょうか?

投票に際し私が考えた事です。
では次回!

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さて、ここまで議論してきました「エビデンス」。
では日本ではどのように運用されているのか・・・。

日本では、「ルール作りのため」、「ガイドライン作りのため」、「医療標準化のため」、「適正使用のため」・・・。などという美辞麗句は並びますが、少し意地の悪い言い方をすると、「医療のパターン化」な訳です。つまり、多少のあんぽんたんな医者でも「エビデンス」に基づく医療をやれば、大ざっぱには「外していない」医療行為ができること、また最大公約数の医師からは、「まあこんなもんだろう」という同意を取り付けやすい訳です。つまりこの日本においては、「結果が悪くても言い逃れを可能にする」ことを目的にしたシステムになってしまっているのです。

この意味から、エビデンスは、確かにリスクマネージの点から優れていると言えます。
しかし私のように少し古い時代の医学・医療を学んだ者にとって、もともと60%の患者しか対応できない(その2を参照)エビデンスの絶対視は、大いに「?(クエスチョン)」になります。
何故なら、一医師自己完結型で自らを律してきた、専門家を自負する私たちの感覚からは、「60%? そんなもん、別にスペシャリストであるプロの専門医がやんなくってもいいんじゃないの?? プロなら限りなく100%に近いレベルを目指すんじゃない?」となってしまうからです。
これが、Atsullow先生がおっしゃる「エビデンスより常識が大事なの!」という雄叫び(?・・・Atsullow先生、ごめんなさい!!)につながる訳です。

私は、現在の日本におけるエビデンスの運用(ハッキリ言うと「誤用」)は明らかに間違いであり、このまま間違った使用がなされると、今後少なくとも以下の3つの弊害が出てくると思っています。いや、これはかなりのレベルの確信です。

1)思考放棄の医者の大量生産
 日本式EBM(これに基づくガイドライン作成)ではパターン化が主眼ですから、個々の症例の病態を素早く分析する習慣を付ける前に、パターンで処理する医者が増えてくるでしょう。これは以下の3)にも関係しますが、色々と試行錯誤の上、良かれと思ってエビデンス(日本では、=ガイドライン)を逸脱してやった診療行為が不成功に終わった場合、これが糾弾の対象になることは明らかです。従って、私が今の若い世代の医者であれば、「面倒なことはせずに、取りあえず一般的なことをやっとくか・・・」となるのは間違いありません。
 医者はどんどん機械的になるでしょう。

2)新しい医療創成の足かせ
 本来の意味で言うところのエビデンスは、あくまでのその時点でも医療技術・薬剤、また疾患の病態への理解をベースにしたものであり、決して完成品ではありません。しかし日本人はこれをア・プリオリに「エビデンス=ルール=ガイドライン=規則=法律、そして=憲法!」という硬直化した運用しか出来ないため、完全にマゾ化(?)してしまっています。
 例えば「Aという癌にBという化学療法を実施すると、5年生存率は40%」というエビデンスに基づき、「Aという癌にはBという化学療法がファーストチョイス」というガイドラインが作成されます。もちろん「5年生存率は40%」は満足出来る数字ではないので、チャレンジ精神の旺盛な医師が、「これを70%にしたい!」という気持ちから、バツグンに効きそうな新しい免疫療法を開発するとします。抗がん剤は多くの場合患者の免疫能を落とすので、Bという化学療法抜きで新しい免疫療法の臨床試験を組む、ということになると、まず現在の日本の倫理委員会(IRB)は許さないでしょう。彼らの言い分は、「動物実験でいかに良いデータが出ていても、人では判らない。既に40%の効果があることにエビデンスのある治療法を止めてまで、臨床試験を行ってはならない。」ということになります。例えどんなに患者が希望していても関係ありません。
 つまり不思議なことに、我が国におけるこのような議論では肝心の「患者の意見と希望」は全く不在です。治験大国であるアメリカを含め、私がいたイギリスでも、このようなIRBの横暴は聞いたことがありません。重要なことは、患者の希望と知り得る限りの予想される効果と危険性について正確な情報を与えた上で、患者と医師が納得して同意を得るインフォームド・コンセントです。これさえうまく言っているのであれば、欧米では例え実験的医療だとしても、IRBが「患者の意見と希望」を無視することは、少なくとも私の知る限りありません。仮にこれでトラブルが起こったとしても、それは薬剤治験では患者と製薬会社、臨床研究では患者と医師が「民事で」争うのが普通(原則)だと認識しています。

3)裁判において個々の医者を糾弾する根拠
 これが最も深刻です。ガイドライン通り・型どおりのことをやってうまく行かなければ、エビデンスは良い言い訳になりますが、医師が十分に症例の病態を考察して、「よかれ」と思って逸脱してしまった診療行為が不成功になった場合、エビデンスを根拠にその医師が糾弾されることは間違いありません。裁判で参考人として呼ばれた別の医師が、「そのような治療法がよいとするエビデンスはありません」、なーんて言い出すことは、今後想定しておくべきです。

以上、色々と述べましたが、私の見解は、エビデンスが悪いのではなく、我が国におけるエビデンスの「使い方」が悪いのだ、ということです。
但し皮肉なことですが、これはどうも日本人の「Mっ気」のある特性に関係があるのかもしれません。

まだまだ続く!!

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最近、グラント申請準備と学会出張で忙しく、エビデンスの議論を休憩しています。
が、やけに最近アクセスしてもらってるな・・・と思ったら、なんとピックアップブログに(顔写真無しで?)出して頂いております。

ああ、恥ずかしい・・・。

これを期に、皆様ご愛顧の程!

失礼しました!

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前回、日本とアメリカの医師養成・医療事情を比較しながら、「エビデンス」について考察しました。 さて、ではあなたは「エビデンス」=EBM(evidence-based medicine)の概念の歴史と定義を説明できるでしょうか??

例えば、「エビデンスに基づいた」のキーワードでググると、
・「エビデンスに基づいた感染制御」
・「エビデンスに基づいた抗菌薬適正使用マニュアル」
・「エビデンスに基づいた脳科学の研究」
・・・・・
要するに、「方法論」や「マニュアル」、「ガイドライン」の枕詞として、はげくの果ては「基礎研究」にまで、「エビデンス」が多用されています。

例えば、ある大学の研究室のHPには、「近年、科学的根拠 (エビデンス) に基づく薬物治療 (EBM; evidence-based medicine) や・・・(中略)・・・、現在、テーラーメード薬物療法のためのエビデンスは急速に蓄積しつつあります。しかし、それらのエビデンス(研究成果)を医療の現場に適用し、・・・・・」などとあります 。

・・・・これなどが、誤用の典型例です・・・・

断っておきますが、ちなみに、基礎研究の成果を臨床で確認することを医療業界では「エビデンス」ではなく、「proof of concept(POC)の証明」と言いますので、くれぐれもお間違いなく。

しかし本来は、エビデンス=EBMの意味と目的は、マニュアルや規約を作るためでも、方法論を確立するためでもなく、むしろこれらを過大解釈することは厳に慎むべき事、とされているのを知らない人が意外に多いようです。

この辺りは、中川仁先生のHPに詳しく、
「EBMは臨床疫学に基礎をおきながら、91年にカナダMcMaster大学のGordon Guyattによって提唱された概念である(http://homepage2.nifty.com/ebm-main/joisebm.htm)」とされており、特に「6.EBMについての誤解」に重要なポイントがまとめられています。
それによれば(少し整理して記載すると)、

1)エビデンスの医療現場での適応には、「Clinical Expertise(医師の経験・能力)」と「Patient Preference(患者の価値観)」が統合されなければならない。従って、エビデンスの適応において、医師の経験に基づく自己裁量は重要な位置を占めること。

2)RCT(randamized-controlled trial)のみがエビデンスではないこと。

3)ガイドラインはあくまで推奨度Aの論文をもとに作成されたものであって、通常、それを適応できる患者は60%程度であること。EBMを提唱した“McMaster大方式EBM”では、ガイドラインとEBMは基本的に関係がないこと。

4)医療費削減のために提出された概念ではなく、患者への不利益が最小になるように構築された概念であること。

5)統計に支配されてはならないこと。数字に支配されるのではなく、あくまでも数字(統計)は利用していくべきものである。


・・・・

どうですか?
あなたの「エビデンス=EBM」の概念への理解は正しかったでしょうか??

では次回、また考察を進めていきます!

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エビデンスの病〜その1

よね様 / 2007.07.06 13:37 / 推薦数 : 8

ものぐさ、B型、熱しやすく冷めやすい私は、日記やブログなど適していないことが、最近よく理解できます。もう少し更新を頻繁にしないとね・・・

さて、本日は最近医療業界を跋扈する「エビデンス」に「モノ申す!」で行きます。

Atsullow先生のブログ(http://blog.m3.com/Fight/categories/529)には、この話題がよく整理・考察されていて、大変勉強になります。
要は、私のようなやや古い医学・医療を学んだ世代から申し上げると、「エビデンス、ってそんなに重要なの?」ということなのです。

「エビデンス」、「医療の標準化」の概念は、私の知る限り、恐らくはアメリカ直輸入の考え方です。では何故、この概念が日本では発展が遅く、アメリカでは根付いて来たのか。それはアメリカと日本の社会の成り立ち、医師の育成の成り立ちから考察するべきでしょう。

まず一言でまとめてしまえば、アメリカでは医師のレベルの優劣の差が大きかったこと、複数の人種が医療関係者として従事しているため、一定レベルの医療を行うためには共通の基準の確立が必要だったこと、そして元来人権意識が強く保険制度が未熟であるが故に、訴訟が多く発生するため、誰からも受け入れられる根拠となるガイドライン(科学的・医学的に立証された)が必要だったこと、であろうと私は思います。恐らくは、「チーム医療」の形式なども、これに関わる責任の分散にあるのでしょう。

一方、日本ではもともとドイツ式(一部イギリス式)医学が入り込んでいたため、「一医師完結型」が根付いてきたのです。これは基本的に弁護士や裁判官などと同じく、個々のスペシャリストが独自の判断で職務を遂行することが認められている、ということであり、それ故に(経済的見返りは大して無くても)社会的地位が高い(高かった・・・:過去形が適切か?)のです。
即ち、我々が学んできた原則はあくまで定説として定まった「教科書的な医学」であり、その知識をもとに、個々の症例を、その時々に「考えながら」治療にあたることが、旧来の日本の医師の典型的パターンだった訳です。

少しお考えいただければお解りと思いますが、このアメリカと日本の制度を比べてみて、個々の医師のレベルにおいて高いレベルが要求されるのは日本の方です。
一方、アメリカ式はリスク分散を図る、という意味では、会社でいうガバナンスとリスクマネージメントがしっかりしている、ということになります。つまり、そもそもアメリカの医療制度は、「ヒューマンエラーは当然起こりえる」ことを前提にしており、さほど高いレベルの医師でなくとも、そこそここなしていけるレベルを想定して制度設計がなされている、ということです。

では、日本では何故今までそれで通用していたのか?
私が思うに、それを支えて来たのは、
1)優秀な人材の流入(受験レベルより)
2)医師という仕事の尊さへのあこがれ(結構、無邪気かも・・・)
3)もともと献身的に働く国民性
4)徒弟制度に近い医局制度による卒後教育
5)普通のサラリーマンより「ちょっぴり」いい報酬
6)医師は「知的職業の代表」という(幻想に近い)優越感
などという、複雑な事情が絡み合い、個々の医師のレベルが相当に高いレベルで維持されてきた、そしてこれに加えて「国民皆保険制度」という世界に誇る優秀な制度設計により、先進国最下位に近い人数(人口比)で、WHOが世界一と褒め称える医療レベル、アクセス率を確保してきた訳です。

もっと単純化しますと、日本の医療は性善説、アメリカは性悪説を前提に医療制度が制度設計されてきた訳です。

ところが、時代が変わるにつれ、日本の制度にもほころびが出てきました。もちろん、どんな集団にも問題児は存在しますが、マスコミとインターネットの発達で、情報が丸裸にされてしまうため、医療ミス(中には事故や合併症のたぐいと思われる例も沢山ありますが)がどんどん報道されてきました。これには数多くの偏向報道もありますが、今回はそれには触れません。

このような時代背景のため、ガバナンスとリスクマネージメント、ヒューマンエラーへの対処に優れた米国式制度設計が俄然クローズアップされ、その一つの重要項目として「エビデンス」が台頭してきたものと考えています。
(ただ私は、このアメリカ式を中途半端に一部分だけをかじって導入していることが現在の医療崩壊の原因であると睨んでいますが、そのこともまた機会がある時に)

「エビデンス」は医療の標準化のための、根拠になるという重要な機能を持つことは間違いありません。

しかし、現在の日本は、このエビデンスの利点と限界をしっかりと認識して、有効に活用しているのでしょうか???
エビデンスが呪縛になっていないのか???

以下、次回でさらに突っ込んで考察します!

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