ノーベル賞作家の大江健三郎といえば、言葉を大切にして、多少難解な言い回しと印象を持たれる方もいるかと思います。
今回、新潮社から出版された単行本『大江健三郎 作家自身を語る』(¥1800)は、そうした印象を感じさせないものでありました。 読売新聞社、文芸担当記者の尾崎真理子さんとのインタヴィユー形式で構成されている内容は、割合、平易で内容も理解しやすい構成になっています。
まず、目次だけを紹介しておきます。「作家生活五十年を目前にして」
「伊丹十三との出会い」
「渡辺一夫先生との交流」
「芥川賞のころ」
「『個人的な体験』刊行当時の評」
「故郷 の中学にて」
「『同時代ゲーム』をいま読み返す」
「女性が主役となった八〇年代」
「父という存在」「一九八七年 分水嶺となった年」
「ノーベル文学賞受賞の夜」
「自爆テロについて」
「大江健三郎、106の質問に立ち向かう」などです。
大江さんの著作に関して、「ヒロシマノート」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「同時代ゲーム」など、それ以降の書籍についても、それらを表現した時代状況や大江さんの考えをわかりやすく丁寧に語ってくれています。
最後にある「大江健三郎、106の質問に立ち向かう」では、大江さんの誠実な人柄を感じさせる回答がなされ、思わず笑みがこぼれてしまいました。
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「パッチギ」=“頭突き” “突き破る” “乗り越える”
井筒和幸監督作品の「パッチギ」を観劇し、そこに流れてくる「イムジン河」を何度も聴きました。 パッチギとは、ハングル語で「頭突き」とのこと。
劇中で主人公の1人は、立ち回りで相手に何度も「頭突き」を食らわしていました。
パッチギとは、別の意味で、“突き破る”“乗り越える”という意味もあるそうです。
物語は、京都で生きる在日朝鮮人の若者の恋愛と喧嘩騒ぎを軸に、日本と朝鮮の間に横たわる溝を若者の純粋さと行動力で“乗り越え”ようとする痛快さ溢れるものでした。
そして、そのバックに「フォーククルセイダーズ」の名曲とともに流れる「イムジン河」の音色と歌詞は、朝鮮半島の美しさと厳しい現実を問題提起しているようでした。
一時は、「放送禁止」にまでなったのが、この「イムジン河」でした。
私が、小学生の頃、近くに在日の方々の住まいがありました。
そこでは、相当過酷な生活を強いられていたのを何となく記憶しています。しかし、当時から、子供どうし、一緒によく遊び、今でも仲の良い友人の仲間です。
今日では、北朝鮮による「日本人拉致問題」や「核問題」・「ミサイル問題」など、映画で描かれていた1968年とは、比較にならないほどの難問が日朝両国の間に横たわっています。
日朝両国が、諸問題のへの誠実な姿勢と立場を確立し、一日も早く平和で思い遣りのある両国関係を築きたいものです。
それこそ、両国間の難問を“突き破り” “乗り越える”、つまり、パッチギする必要性を感じさせられました。
また、こうした深刻な問題を、ある意味コミカルに、かる~く描いて人々を感動させる、井筒和幸監督に拍手です。
今、その続編「パッチギ、Love&Peace」が劇場で上映されています。
私は、週末に映画館へ足を運ぼうと思います、いつものようにシニア夫婦割引(二人で2000円)を利用して・・・・。
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また、戦中・戦後の歴史のひとつが明るみに出てきました。 終戦で一度は、清算されたはずの国家神道であったのもとにあった「靖国神社」が、戦後も国民の知らないところで脈々と生きていたのです。 今日の「靖国問題」は、ここにも大きな要因があります。 ここまで明らかになったのですから、いよいよ「政教分離」の原則にのっとって「靖国参拝」にも、公式にけじめをつけるべきです。 高橋哲哉東大教授のコメントを聴きたいのですが・・・・。 |
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安倍首相は「ごまかし」と批判、ワシントンポスト社説で
2007年03月25日(朝日新聞)
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「ダブルトーク」とは「二枚舌」とも言われます。
安倍首相の国会答弁や記者会見では、一方で「強制には、広義と狭義がある」といいながら他方では「河野の談話を継承する」といっています。
「強制の広義・狭義」発言では、明らかに『河野談話』を後退させるなります。
もし、『河野談話』に依拠してゆくのであれば、「強制の広義・狭義」発言を取り下げるべきですし、昨日の「下村発言」へは、厳しい態度が必要では無いでしょうか。
それにしても、「北朝鮮拉致問題」での日本の人権問題での正当性に傷をつけることが心配です。
安倍首相は、「従軍慰安婦問題」は過去の事、「拉致問題は現在進行形」の事と、ここでも「言葉の操り?」で人権問題の歴史的本質を曖昧化しょうとしています。
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下村博文官房副長官は25日、ラジオ日本の番組で、戦時中の従軍慰安婦問題について「従軍看護婦とか従軍記者はいたが、『従軍慰安婦』はいなかった。ただ慰安婦がいたことは事実。親が娘を売ったということはあったと思う。だが日本軍が関与していたわけではない」と述べた。(00:05) 日経新聞
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「従軍慰安婦」問題で、今度は下村官房副長官が、「言葉の使い分け」で責任の所在を曖昧にしようとしています。
これは、以前、安倍首相が「広義の強制」と「狭義の強制」を使い分けたのと同じ手法です。
これは、明らかに「河野談話」を後退させるのもであります。
もし、安倍首相が真面目に「河野談話を踏襲する」のであれば、今回の「下村発言」に対してけじめをつけるべきではないでしょうか。
問題は、「日本軍が直接関与したかどうか」と共に、「どこが『慰安所』の作成を命じたか、あるいは容認していたか」ではないでしょうか。
そうでなければ、「直接罪を犯した者」が罰せられても、陰で命令したもの(ここでは、国家権力ですが・・)の罪は問われないことになります。
そんな、不合理は、納得できません。
安倍内閣の人権感覚の欠如は、救いがたいものがあります。
今後、この問題が混迷すると、同じ人権問題としてある「北朝鮮拉致問題」で、我が国の立場の正当性を危うくすることにはならないでしょうか。
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