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< 大野病院事件判決に際して | メイン | 長崎市長平和宣言よか~ >
2008.08.07 21:35 |  映画 / 音楽 / 読書  |  侍脳外科医  | 推薦数 : 10

焼き場に立つ少年

焼き場に立つ少年は、亡くなった幼い弟を、おんぶ紐(ひも)で背負い、直立不動で火葬の順番を待っている10歳くらいの少年を撮影したものだ。はだしの少年の、きつくかみしめた唇には、血がにじんでいたと、後にオダネル氏は語っている。足に浮腫がみられた少年は、その後どんな人生を歩んだのか、オダネル氏は再会を望んだが、果たせなかったという。1945年、長崎、ジョー・オダネル撮影

 

ジョー・オダネル
1945年、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録するため、占領軍カメラマンとして来日。46年帰国後、私用カメラで撮影した写真ネガを罪悪感から自宅のかばんにしまい込んだ。49年から68年まで、米国情報局ホワイトハウス付カメラマンとして、トルーマンら歴代の大統領に仕えた。
 89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。2007.8.9 母国アメリカで脳卒中のため死去。長崎での写真展に彼の息子が訪れ、長崎で笑顔の子供達を写真に撮った。父、オダネルが生前、あの時、長崎に笑顔はなかったと息子に話していた。

 

ジョー・オダネルのコメント

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10
歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

 

昨年彼の死亡を伝えた新聞から~

The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.


退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。
   

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長崎から平和を祈る2
2007.08.05 13:52 | 平和・環境問題 | Tai-chan | 推薦数 : 10 爆心地69mからの葉書 朝日新聞2007年8月5日朝刊 10版社会37より 「先... [続きを読む]
posted from 【マイアミの青い空】 2008.08.07 21:41

コメント

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私もこの写真に心を強く打たれました。オダネル氏の写真
は原爆の真実を伝えるものでした。当時のアメリカ国民には日本人は地上から抹殺されるべき存在とプロパガンダされていたのです。沖縄戦の白旗の少女の写真は平和への希望がありましたが、この写真は悲劇、悲惨、深い悲しみしか感じません。原爆開発のリーダーだったオッペンハイマーは、戦後ひそかに悔いていたと言われます。アインシュタインもです。
軍部の高官は勝利のためではなく、実際の威力を試したい、またソビエトへの牽制のために、投下反対派を抑え実行したとの事。
 実際に惨事の写真をみて、恐れおののき、今でもアメリカ国民の目に触れさせたくないのでしょう。
 日本軍は中国、南方アジアで残虐な行為を働き、非難されましたが、原爆はそれらをはるかに越えるものです。
 オドネル氏の写真の数々がその後の紛争での、安易な核爆弾の使用を抑制したのなら、もっとも効果的で歴史的意義を持つ写真だと思います。 k-バックス

~k-バックスさん、コメントありがとうございます。オダネル氏の活動はアメリカ退役軍人間で拒絶され、非難の中彼は生涯を閉じました。彼の息子さんが彼の遺志を引き継いで活動されていますが、最近アメリカ国内で彼の活動、写真に賛同する意見がみられるようになったとのこと。イラクでの戦争後、アメリカ国内の世論に少し変化があるようです。
written by k-パックス / 2008.08.13 16:41

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