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2008.08.10 22:28 |  海外留学  |  侍脳外科医  | 推薦数 : 8

長崎市長平和宣言よか~

伊藤市長さんも良かったけれど、田上市長さんの平和宣言良かったです。市長の平和宣言は有識者が集まって作っているのですが、6日の広島市長の宣言より長崎の方が説得力がありました。英訳して世界に発信して欲しいです。各国の名前を出している点、キッシンジャー長官という著明人を出してアメリカの元国務長官の行動を出している点、永井博士の言葉と訴えるものがあります。毎年聞いている長崎市長の平和宣言の中で一番良かったと思います。 

~あの日、この空にたちのぼった原子雲を私たちは忘れません。   1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍機が投下した一発の原子爆弾が、巨大な火の玉となって長崎のまちをのみこみました。想像を絶する熱線と爆風、放射線。崩れ落ちる壮麗な天主堂。廃墟(はいきょ)に転がる黒焦げの亡骸(なきがら)。無数のガラスの破片が突き刺さり、皮膚がたれさがった人々が群れをなし、原子野には死臭がたちこめました。   7万4千人の人々が息絶え、7万5千人が傷つき、かろうじて生き残った人々も貧困や差別に苦しみ、今なお放射線による障害に心もからだもおびやかされています。   

今年は、長崎市最初の名誉市民、永井隆博士の生誕100周年にあたります。博士は長崎医科大学で被爆して重傷を負いながらも、医師として被災者の救護に奔走し、「原子病」に苦しみつつ「長崎の鐘」などの著書を通じて、原子爆弾の恐ろしさを広く伝えました。「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」という博士の言葉は、時を超えて平和の尊さを世界に訴え、今も人類に警鐘を鳴らし続けています。   

「核兵器のない世界に向けて」と題するアピールが、世界に反響を広げています。執筆者はアメリカの歴代大統領のもとで、核政策を推進してきた、キッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人です。   4人は自国のアメリカに包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を促し、核不拡散条約(NPT)再検討会議で合意された約束を守るよう求め、すべての核保有国の指導者たちに、核兵器のない世界を共同の目的として、核兵器削減に集中して取り組むことを呼びかけています。   

これらは被爆地から私たちが繰り返してきた訴えと重なります。   

私たちはさらに強く核保有国に求めます。まず、アメリカロシアとともに、核兵器廃絶の努力を率先して始めなければなりません。世界の核弾頭の95%を保有しているといわれる両国は、ヨーロッパへのミサイル防衛システムの導入などを巡って対立を深めるのではなく、核兵器の大幅な削減に着手すべきです。英国、フランス、中国も、核軍縮の責務を真摯(しんし)に果たしていくべきです。   国連と国際社会には、北朝鮮、パキスタン、イスラエルの核兵器を放置せず、イランの核疑惑にも厳正な対処を求めます。また、アメリカとの原子力協力が懸念されるインドにも、NPT及びCTBTへの加盟を強く促すべきです。   

我が国には、被爆国として核兵器廃絶のリーダーシップをとる使命と責務があります。日本政府は朝鮮半島の非核化のために、国際社会と協力して北朝鮮の核兵器の完全な廃棄を強く求めていくべきです。また、日本国憲法の不戦と平和の理念にもとづき、非核三原則の法制化を実現し、「北東アジア非核兵器地帯」創設を真剣に検討すべきです。

   長崎では、高齢の被爆者が心とからだの痛みにたえながら自らの体験を語り、若い世代は「微力だけど無力じゃない」を合言葉に、核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動を続け、市民は平和案内人として被爆の跡地に立ち、その実相を伝えています。医療関係者は、生涯続く被爆者の健康問題に真摯に対応しています。   

来年、私たちは広島市と協力して、世界の2300を超える都市が加盟している平和市長会議の総会を長崎で開催します。世界の都市と結束して、2010年のNPT再検討会議に向けて核兵器廃絶のアピール活動を展開していきます。国内の非核宣言自治体にも、長崎市が強く呼びかけて活動の輪を広げていきます。   

核兵器の使用と戦争は、地球全体の環境をも破壊します。核兵器の廃絶なくして人類の未来はありません。世界のみなさん、若い世代やNGOのみなさん、核兵器に「NO!」の意志を明確に示そうではありませんか。   被爆から63年が流れ、被爆者は高齢化しています。日本政府には国内外の被爆者の実態に即した援護を急ぐよう重ねて要求します。   

ここに原子爆弾で亡くなられた方々の御霊(みたま)の平安を心から祈り、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。   

2008年(平成20年)8月9日  長崎市長 田上富久~

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2008.08.07 21:35 |  映画 / 音楽 / 読書  |  侍脳外科医  | 推薦数 : 6

焼き場に立つ少年

焼き場に立つ少年は、亡くなった幼い弟を、おんぶ紐(ひも)で背負い、直立不動で火葬の順番を待っている10歳くらいの少年を撮影したものだ。はだしの少年の、きつくかみしめた唇には、血がにじんでいたと、後にオダネル氏は語っている。足に浮腫がみられた少年は、その後どんな人生を歩んだのか、オダネル氏は再会を望んだが、果たせなかったという。1945年、長崎、ジョー・オダネル撮影

 

ジョー・オダネル
1945年、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録するため、占領軍カメラマンとして来日。46年帰国後、私用カメラで撮影した写真ネガを罪悪感から自宅のかばんにしまい込んだ。49年から68年まで、米国情報局ホワイトハウス付カメラマンとして、トルーマンら歴代の大統領に仕えた。
 89年、米国内の反核運動に触発されてかばんを開け、90年米国で原爆写真展を開催。写真集「トランクの中の日本」(小学館)を出版。2007.8.9 母国アメリカで脳卒中のため死去。長崎での写真展に彼の息子が訪れ、長崎で笑顔の子供達を写真に撮った。父、オダネルが生前、あの時、長崎に笑顔はなかったと息子に話していた。

 

ジョー・オダネルのコメント

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10
歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

 

昨年彼の死亡を伝えた新聞から~

The photographs were stricken from curators' plans, as were other features that offended veterans. In an interview that year with National Public Radio, Mr. O’Donnell contended that, given what he had seen immediately after the war, Japan could have been defeated with conventional arms, and without the hundreds of thousands of American casualties that an invasion of the Japanese home islands had been expected to entail.


退役軍人の怒りを買った他の展示と同様、その写真はキュレーターの企画から削除された。この年の国営ラジオNPRのインタビューでオドネル氏は議論を投げかけた。彼が戦後すぐに見たものからすれば、日本は通常兵器で敗戦に追い込むことができた。しかも、本土上陸による十万人規模の犠牲者を要せずとも可能だった。
   

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2008.08.06 11:07 |  医療事故  |  侍脳外科医  | 推薦数 : 8

大野病院事件判決に際して

「福島県立大野病院事件判決に際して、全国医師連盟の声明」

はじめに、今回の手術でお亡くなりになられた方、そして御遺族の皆様方に心より哀悼の意を捧げます。

平成十六年十二月十七日、福島県立大野病院で、患者さんが帝王切開術中の大量出血によりお亡くなりになりました。この手術を担当した産婦人科医は、業務上過失致死罪(刑法211条1項)および異状死の届出義務違反(医師法21条違反)容疑で逮捕、起訴されました。本年八月二十日には、一審判決の言い渡しが予定されています。

予期しない医療事故が生じた場合、後遺症を負った患者さんや御家族、あるいは患者さんが不幸にして亡くなられた場合の御遺族には、耐え難い悲しみが襲いかかります。同時に、現実生活の上で経済的困難が大きく立ちはだかります。
現在の医療技術や診療環境の実際においては、どうしても不幸な医療事故をゼロにすることは出来ません。

不幸な医療事故が起きたときには、それが医療従事者による過失によるものだったのか、あるいは人の力では如何ともし難い結果だったのかを問わず、こうした患者さんや御家族・御遺族を社会的に慰撫し、経済的に救済する必要があります。

私達医師は、国によってその制度が設立されることを望み、また制度設立のために協力を致したいと思います。

もう一つ重要なことが有ります。
この事件では、担当医の逮捕、起訴という衝撃もあり、多くの医療団体及び医学系の学会から「これでは医療が出来ない」との抗議声明が出ております。
多くの医師達は、本件訴訟において検察側・弁護側の立証から明らかになった診療経過を検討し、本件担当医と同じ診療条件に置かれた場合、最善の医療を施しても助け得なかったのではないかと判断しています。
また、日常診療における予期しない死亡事故が起こったとき、最善の医療を行っていても、不幸な結果のみで過失犯として断罪される危険を強く感じました。
私達は、本件の逮捕、起訴が誤りであったことを確信しています。

私たち医師は、救命救急活動中や日常診療中に予期しない事態に遭遇することはまれではなく、その際、判断を瞬時に行わなければ患者さんの死に直結します。その一連の医療行為を後で検証すれば、正しい判断であったかどうか不明な部分は必ず出てきます。
しかし、それは後方視的検討によって浮かび上がる問題点であり、今後の医療の改善に役立つ情報ではあっても、その当時に通常の医師として為すべきことを為したかという過失認定とは異なるものです。従って、救命活動などの緊急時の医療行為は、多くの場合、業務上過失致死罪の成立が阻却されると考えます。

医療事故に対して無闇に刑事訴追を行うことは、国民と医療者との対立を深め医療現場の荒廃を生み、その結果が国民には、十分な医療を受けられないという不利益となってはね返ります。
福島大野病院事件のような事件を、二度と繰り返してはなりません。国民に必要な医療を守り医療事故から救済するために、全国医師連盟は以下の事を主張いたします。

医療過誤の有無を問わず不幸にして予期せぬ医療事故に会われた患者さん、御家族、御遺族への社会的慰撫と経済的救済を行う制度の設立を強く望みます。私達医師は、その救済制度実現に協力いたします。

また、救命活動時の医療行為に対する刑事罰適用は限定し、刑事訴追を回避する法的整備を望みます。

これらの救済制度の実現と刑事訴追回避のための法整備は、国民と医療の未来の為に、是非とも必要な措置であると信じます。

平成二十年八月五日
全国医師連盟

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