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開運!なんでも鑑定団 名品・珍品大集合!秋の2時間スペシャルの出物に曾祖父にあてた坂本龍馬の4通の手紙があった。
幕末のヒーロー坂本龍馬の
最期は頭を斬られ開放性頭蓋骨骨折で脳脱状態だったかと記憶していたので、彼の最期を少し調べてみた。

坂本龍馬 さかもと りょうま
天保6年11月~慶応3年11月15日 (1835~1867)
生 年が天保6年(1835)10月とする説もある。高知生まれ。父は高知藩の郷士。嘉永6年(1853)江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事。剣士として知られ る。文久元年(1861)武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。2年(1862)脱藩して江戸へ出、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力。慶 応元年(1865)長崎の亀山に社中(のちの海援隊)を開く。薩長連合締結に努力し、2年(1866)西郷隆盛と木戸孝允の盟約に立ち会った。3年 (1867)6月後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、独自の国家構想である「船中八策」をまとめた。同年11月中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/89.html

1867年6月、龍馬は京に向かう船中で大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考える。土佐藩はそれを基に幕府へ建白し、10月14日、ついに将軍慶喜の大政奉還を実現させる。
1ヵ 月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造って、そこ を隠れ家にしていた。裏手の誓願寺への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪 していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。さらに2人の仲間が加わり談笑していると、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食お うぜ」と言い、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)を鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の下僕藤吉の3人。 その直後、十津川郷士と名乗る七人の男たち(通説では幕府見廻り組の佐々木唯三郎等)が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。龍馬は藤 吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ3人の刺客が飛び込み、不意を突かれた両名は剣を抜く 間もなく、龍馬は前頭部を斬られ、中岡は全身を10箇所以上斬られた。賊が去った後、龍馬は刀の表面に映った自分の傷を見て「脳をやられたからもう駄目 だ」と言い絶命した。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日だった。
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-sisou.htm#ryouma

龍馬評
勝海舟「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
西郷隆盛「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
『竜馬がゆく』司馬遼太郎の代表作の一つであり同時に後の龍馬像を確立させた作品。「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から66年5月19日まで連載。63年から66年にかけて文藝春秋から刊行された。

幕末 ~ 明治維新の群像
http://www.youtube.com/watch?v=_d4w6QbdQws

 

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2007.09.25 13:45 |  医療事故  |  侍脳外科医  | 推薦数 : 7

医師からお悔やみの手紙

霊安室が2部屋並んである病院で主治医としてAの部屋に入るべきところ間違ってBの部屋に入ってしまい「しまった」と分かった時は既に遅し。「間違いました」と引き下がろうかと思いましたが、そのままお線香を上げ、ご家族に「力及ばず残念でした。」当り触りのない言葉を選び、頭を下げて退室する際、見覚えのない家族から感謝の言葉を頂戴しました。 

大切な人を失った遺族にとって見慣れぬ医師でも、「線香を上げにくる位の医師だから故人がお世話になったんだろう」と考えられたのだと思います。亡くなられてお葬式も終わりひと段落したところで、ご家族から主治医に手紙がくることがあります。すぐにご返事を書くようにしています。お葬式に参列したことが一度だけあります。医師―患者としてのお付き合いが長く、思い出に残る患者さんでした。 

さて、小宮山先生のHPにありました下記の文章を読んで私も考えました。医師の皆さんはお悔やみの手紙を自分から書くことはないでしょうが、家族から届いた場合どうされていますか? 

【医師の書くお悔やみの手紙】

私の母のジーン・スミスは8月3日死亡しました.彼女はメディカルセンターのロバーツ先生の患者でした.90歳の死まで、彼女は活動的な人で、ドライブをしたりヨガ教室に通ったりして家族や外界とも深く関わってきました.彼女は寝ている間に突然死亡しました.私たちは深く悲しんでいます.
数週間して、母が死んだことを知らせる手紙をロバーツ先生に書きました.手紙には、母が自分の健康について不安や心配をしたときの先生の母への励ましや誠実な医学的な気遣いに対して非常に感謝していることを書きました.
しかし、未だかってロバーツ先生やメディカルセンターのどなたからも御返事を頂いておりません.このことで私は非常に落胆し、さらに悩んでおります.このことを是非知って頂きたいと思います.マーガレット・スミス
New England Journal of Medicine 344, 1162-1164 (April 12, 2001)
 

医師の患者さんへのお悔やみの手紙についてです.19世紀のアメリカでは、医師の当然の仕事の一つであったらしいです.お悔やみの手紙だけでなく、亡くなった患者さんのお葬式に参加することも、昔は、当たり前であったようです.死に対する考え方も変わってきますし、医師側も、忙しかったり、手紙を書くほど患者さんのことを知らなかったり、チームで見ているので誰が主治医かはっきりしなかったり、またどのように書いて良いのか分からないのも理由でしょう.

時代が変わり、死の悲しみ方も変化してきているようです.しかし、医師は患者さんの治療だけが仕事ではなくて、その患者さんが亡くなった時は残された遺族の心のケアーをするもの仕事であるという考えもあります.この時に、お悔やみの手紙は、御遺族が通る悲しみのプロセスを積極的に通過するのに役立つようです.場合によっては、医師側の敗北感や法的な問題を懸念することもあるかもしれません.しかし、特に、予期していなかった死亡や合併症による死亡の場合は、このお悔やみの手紙は、遺族にとってマイナスではなくプラスにはたらくとしています.

患者さんを診ていると言うよりは、病気ばかりに目が行きがちな今の医学ですが、この記事は、とても考えさせられる部分がありました.

患者と医師との視点のズレ http://www003.upp.so-net.ne.jp/moyamoya/

大阪市立総合医療センター脳神経外科 小宮山雅樹 

The Beatles. No Reply http://www.youtube.com/watch?v=iCN17FQpnfg&mode=related&search=

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