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病院や医療に対するイメージは悪い。
病院にかからないことが、健康である証拠になっている場合もある。
よく、脳出血の患者さんで、「いままで病院などかかったことがなかった」ことを誇りに語ろうとする人がいる。
医療者は、そんなことだから脳出血になるのだと理解する。
でも、患者側としては、別にどこも悪くなかったし元気だったことが誇りになっている。
病気=病院という図式は成り立っているが、病気の予防=病院とはなりにくい。
予防は健診センターでするものだから。
これはどこの地域にいっても成り立つ図式である。しかし、田舎の病院や診療所はちがってもよいのではないか。
病気の予防としても、地域憩いの場、交流場としても、イベント場としてもよいではないだろうか?
リハビリ病院などは特にそういった地域ニーズに答えることは可能であり、地域の中にも溶け込める。
リハビリの一環として、畑や田んぼで採れたものを提供したり地域の農家などとと連携してゆけば、医療以外での交流も盛んになる。
ボランティアを病院内に自然といれることもできる。
機械的トレーニングに重きをおいたリハビリよりも、地域との交流に根ざしたリハビリや癒し・ヒーリングを重視したリハビリのほうが取り組む姿勢もかわる。
地域の素材をつかえば、薬重視の医療もすこしはその方向性を変えることができるかもしれない。
従前の医療からはなれたときにはもっとその姿をかえることができるかもしれない。
合成素材中心の都市部の医療から、田舎や地域の事情に根ざした自然素材の医療こそこれからの姿といえるかもしれない。
また、そこには健康増進や予防という意味合いも医療という言葉のなかに含めて考えることもできる。
自分自身の目指すものは徐々にその姿を現しつつある。
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夏場は脳血管疾患は減少するのはよく知られている。
しかし、熱中症と思って治療していると脳梗塞も合併していたとか、
クーラーによる風邪や肺炎と思って治療していたら、脳梗塞も合併していたということがある。
脳梗塞が原疾患ではなく、脱水や炎症に伴う血液粘度の低下によりもたらされた合併症である。
さらに厄介なのが、高齢者が増えたことにより、1つの主病名ですべての状態を語れる人がほとんどいないことである。
2つ3つの主病名を持っている方がほとんどであり、もっていない方は、健診を受けていない方であったり、病院にかかることを拒否してきた人であることが多い。
そんな中で臓器別診療していると対応が不十分であったり、疾患を見落としたりする場合がよくある。
リハビリテーション医療を行うと、脳梗塞と診断された人が、実はリハビリにきて、悪性腫瘍がみつかったり、心臓疾患がみつかったりなどすることがある。
とくに、やっかいなのが心疾患がみつかった場合である。
手足に麻痺のある方で、心疾患をもっていると心臓に大変な負荷がかかる。
重症の場合は、前医と相談して、転院することもある。
しかし、残念ながら重症の弁膜症があるかたで、高齢でしかも脳梗塞のある方は、手術適応なしでまた戻ってくる。
そうすると、こちらにあとはすべてを丸投げされるので、突然死のリスクを語りながらも、在宅の方向へ家族に検討してもらう。
ところが、家族は、何もしなければ元気なのだから、もっとリハビリさせて欲しいと願う。
家族の思いをすこしでも満足させるべく、リハビリの内容を理学療法士たちと相談しながら組んでゆくわけだが、患者さんと向き合う彼らや介護士やケアワーカーは慎重にならざるを得ない。
短期的にみれば負荷はかけられても、同じ負荷をかけ続けて同じADLは維持されるのか
そんなことはまったくわからないわけである。
最近、そのような心疾患を合併した脳梗塞の患者さんを診る機会が増えてきており、家族の期待との間で悩むことがある。
患者さん本人の身体的なバランス、患者と家族のバランス、そして、患者さん一家と医療者とのバランスをいかにうまくとりながら、全体のシステムをどう動かすのか?
リハビリ医が手がけようとする仕事は、医学的な専門性やEBMだけではとてもやっていけない。
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家庭が大切であること、私なりの立場で強調させてもらった。
もう一例の経験から、あらためて強調したい。
94歳の女性が、最近脳梗塞で入院してきた。
一人暮らしで身寄りのない人であったが、遠い親戚のかたの援助で老健施設に入所。
そこに住みついて何年かになる方である。高齢者で軽い脳梗塞にかかった既往もあり、軽い認知症を伴っている。その方が、ある日突然、話をしなくなった、食事も食べなくなった。介助歩行が可能なのに、それもできなくなったということで救急病院受診。ところが「食事も食べるし問題ない」といわれて、点滴1本おこなって帰された。施設で様子をみていたが、変わらないばかりかむしろ次第におかしいということで当院にきた。頭部CTの結果、診断は脳梗塞である。
回復期リハビリがメインの当院ではあるが、身寄りがなく、積極的な治療も希望しないということで、入院して様子をみることになった。
発症してから推定5日目の入院であるが、ベットで寝ている時間がほとんどで、覚醒も悪く耳も聞こえないので、反応もわるい。家族に連絡とったが、直接つながりがないことや、その方も体が不自由で当院には来れないということに・・・。施設の方が、かわりにわれわれの話を聞いて、家族に伝えるかたちとなった。
食事は、経口的に食べていたが、入院5日目くらいから口に溜め込んで食べなくなり、しかも誤嚥の可能性もでてきたため禁食とした。
状態的には、経管栄養の適応と考え、将来を見込んで胃瘻の造設を施設の方に提案。
しかし、「家族は承諾しないだろう」と反応がわるい。
遠い親戚である老健施設の入所費用や今回の入院による費用もかさんでしまっていることから、予想通り胃瘻拒否。施設にもどして、そのままみてほしいという要求である。
施設では点滴はできない、経管栄養もできないので、施設にはもどせない。
しかたがないので、老健施設に関係する近くの開業医の先生が、自分のクリニックに入院させて様子をみることになった。
このような事情をかかえた方は、決して少なくはないと思われ、今後の医療を考えてゆくうえでの大きな課題であるといえる。一歩間違えれば、老健施設で食べるのものも与えないで安楽死させる(餓死)選択肢も出てきそうである。
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当院に入院していた頭部外傷(びまん性脳損傷と脳挫傷)で高次脳機能障害および精神障害のあった患者さんが1年ぶりに外来に戻ってきた。
70歳の男性で、脚立に登って植木の手入れをしている最中に転落。
救急車で運ばれたときは、次第に意識レベルが低下してゆき、JCS100のレベル。
右側頭葉の脳挫傷と右肋骨骨折などあり。しかも、持病として、大動脈弁狭窄症まであった。
保存的加療で、意識は一桁までもどった。
幸いにも四肢の麻痺はなかったが、胸水の貯留やら肺炎の合併などあり、嚥下障害などもあったがおちついたので当院に受傷1ヶ月後リハビリ目的入院。
高次脳機能障害および精神障害があり、家人がいなくなると病棟中に大声をあげてさけぶ(気管切開していたが)、看護師や療法士には暴言をはく、ときには暴力にいたることもあって院内ではたいへんだった。
妻がついていると比較的おちついているので、泊りがけでついてもらうようにした。
それから少しづつではあるが、落ち着くようにはなった。奥さんは、たいへんだったとは思うが、非常に献身的な方であった。
嚥下障害といっても痰を出したりするのはうまくできていたが、食事を与えると食物であると認識できないようで吐き出してしまう。
そこで経菅栄養を選択せざるをえない状況だった。
胃瘻を急性期の病院に依頼したが、「こんな精神状態ではリスキーである」とされて断られてしまった。
したがって経鼻胃菅を留置することになり、たびたび自分で抜いてしまうために看護師は苦労していた。
面談では記憶障害や精神障害はあまりよくならないだろうという話をした。食事も、口からは今は難しいと話をした。
帰宅または精神科施設の入所を家族と考えたが、妻は、帰宅を頑として主張。
長男家族はたいへんだからやめたほうがよいと主張。
いざこざはあったが、試験外泊を繰り返し自宅に帰るとかなり落ち着くというので、自宅退院とした。
通院は難しいので、自宅近くの開業医さんに往診を依頼。
訪問看護などの各種サービスをいれることにして、受傷6ヶ月くらいで退院。
今回、開業医の先生から、久しぶりに検査して欲しいという依頼で来院した。
話をするとほとんど普通の方にもどり、みられていた精神症状は消失していた。
食事は、経口的にOK
視野障害はあるが歩行可能。
記憶障害も日常生活には困らない程度になったようである。
予想に反して良くなっていたので私としても驚きであった。
妻の献身的な介護がすばらしかったのだと思うが、他にも同居する息子夫婦と小さな孫も同居しており、自分の親の介護に協力的である。
このような恵まれた家庭環境が功を奏したのだと思う。
高齢化社会に必要なのは、家族の力である。
家族の力がなければ、介護難民となる高齢者は増える。
医療費もかかってくる。
政府は、日本の伝統的な家族制度を見直して欲しいと思う。
そのためにはどうのようなことが必要なのか?
果たして核家族化が理想なのか、夫婦別姓でもいいのか?家族の絆を強固にするためにはどうしていたらよいのか?
家族の絆を崩壊させるような民法改正は是非やめて欲しいものである。
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先週、かつて世話になった先輩開業医の先生と久しぶりにお会いして、近況報告を聞いた。
四国のとある場所で、開業されて十年以上をへているが、経営は順調だという。
脳神経外科および内科を標榜しているが、脳外科疾患である脳腫瘍が意外と多くみつかるという。
田舎で脳腫瘍などがみつかった場合は、都市部に紹介しなければいけないことや、場合によっては四国以外に神戸、大阪などに患者さんを紹介しなければいけなくなる場合もあるという。
つい最近、頚椎症で手術適応のある患者さんを愛知県の某医大病院に紹介したという。なぜならば、地元の病院よりも効率よく治療して元気よく帰ってくるからだという。
また、ネット情報などから、ときには関東地方の病院を紹介することもあるという。
たとえ地元で治療できたとしても、急性期疾患でなければ効率的に治療できるところを選ぶのはあたりまえの時代なのか。
私自身も、自分の病気を(食道アカラシア)、静岡県の病院ではなく、都内の病院を選択して治療を受けた。
治療を受けて無事食べられるようになって帰ってこれたのでありがたかった。
ただ、電車や新幹線を使っての行き来は大変ではあったし、入院中も家族が控える場所がないので不便はあった。
それでも、良い治療がうけられる病院にかかるということは今の流れではある。
医療レベルの格差をうめることは簡単ではない思われる。
遠隔治療も一つの手段であり、有名な先生を招聘して地方で治療を受ける手もある。しかし、まだまだそれも限られている。
地方の人でも不便なく医療が受けられるようインフラの整備や診療報酬に反映させるなど今後必要になってくるものと思われる。
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今では手術とほとんど縁がなくなった私だが、総会に参加した。
エキスパートの先生方や神の手をもつ言われる先生方の手術ビデオを午前午後にわたって見続けた。
「メスをにぎることはない」と思うのだが、手術の感覚くらいは頭に焼き付けておきたかったから。
そして、エキスパートの先生方が主張する手術のスタンダードを見たかったからである。
ひさしぶりにみる術野、手術もきれいである。
先生方の事細かな説明。
初心者にも本当にわかりやすく説明してくれる。
今の脳外科の先生方は恵まれていると思った。
でも脳外科をめざす若い先生は減っているという。
一昔前は、こんなところまで教えてくれるような学会の雰囲気はなかった。
というか、スタンダードな手技というものがなく、皆が試行錯誤の状態だったのかもしれない。
自分のやり方が一番良いと思っていた。
でも、今はだれもが認めるスタンダードな手技がある。
その存在事大がすばらしくもあり、恵まれているとも思った。
神の手をもつF先生がおしゃっていた。
「世界からみて日本には、手術をきれいにおこなう先生方が多い」 と。
それは日本の先生方が、良いものを柔軟にどんどん取り入れて、自分の手技に改良を加えていったからだという。
確かにいつまでも、古いオーソドックスな方法だけに固執してはいけないのだと思う。
自分のやり方が一番だといって誇る時代も終わった。
そんなことを感じながら、学会会場をあとにした。
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昨日の突然のニュースには驚いた。
でも、やっぱりそうなったかとも思った。
ここ数日厳しい毎日が続いたのだろうと思う。
かつて、私も途中で投げ出したくなるような患者さんの対応には胃に穴があくような毎日が続いたことがある。
一国の首相が背負うプレシャーの大きさは、そう安易に語れるものではないだろうけれども・・・。
いろいろな批判はかわされているが、私としては「お疲れ様でした」といいたいと思う。
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こんなことをアップしてしまうとお叱りをうけそうだが、このような時代だからこそあえてこのようなお題目をかかげてしまった。
ランダムに思いつくものをあげてみると
1、大学の様々な雑用から解放される。
このメリットはものすごく大きい。大学病院ですごす仕事のほとんどは、医局の雑用がほとんどである。日常の臨床や検査手術で忙しいこともあるが、日常臨床とは関係のない、学会関係の仕事だったり、文献検索やら整理やら講義の準備やら書類の整理作成、カルテのまとめなどなどあげればきりがないが、すべてこれらの仕事から解放される。これが自分のためになることもあるが、中堅になると邪魔な仕事のなにものでもない。
2、主任教授の干渉をうけない
面倒見のいい教授もいれば、そうでもない教授もいらっしゃるかもしれないが、その下にいるものは、何をやるにしても教授のお伺いをたててからおこなうことが多い。学会発表も当然検閲を受けなければいけないし、教授の専門外の仕事でも検閲をいただき、名前をかかげるいじょうはそうしないといけない。また、学会発表がないと今度は教授からの圧力がかかることもある。何か演題を出さなければと・・・。
また、患者の治療方針についても、カンファランスで決められるとしても、教授の許可のもとでおこなう。手術も一応教授に入っていただかなければいけない。
3、仕事以外の時間をもつ
医局にいると1日の生活の場のほとんどがそこになるので、プライベートな時間が持ちにくい。また、気をゆるめる時間もなかなかもつことができない。
4、とにかく何かをやるにしても、医局のことや教授のことを考える必要がない。
5、安い給料から解放される。
デメリットばかりではないが、メリットもある。
1、何かあったときは結局、教授が責任をとる。
2、大学医局ということで、最新医療の研究などができる
3、各地の有名大学との交流も持ちやすい。
4、関連施設での定着が可能な場合がある。
5、アルバイト先が確保しやすい場合もある。
メリットやデメリットをあげればまだまだあるかもしれないが、メリットの中のメリットは、
いろいろなしがらみから解放され、自分の専門とする医療を自由な観点から見直し、地域や現場の実情にあったものに切り替えられる自由性が良いのではないかと思う。
脳外科を掲げながら、内科医みたいなことばかりをやるのは、医局に所属していてはなかなかできないことである。
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学級崩壊のパターンは、ふたつあり、反抗型となれあい型だという。最近は、なれあい型の学級崩壊がふえて、対応しかたに困難をきわめていると言う記事をみた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061013-00000009-san-soci
これは、考えようによっては、私がかつて所属した医局も同じだと思った。
入局当時の教授は、縦関係の秩序を重んじる先生であったし、医局員のこと患者のことなど何から何まできっちりと把握し、データもしっかり整理する方であった。医局員からは煙たがれることもあり、反発する先生も多かったが、学会活動は活発だった。新入医局員も、最盛期は二桁を越える勢いで入局し、繁栄をほこった。
その反発で、次にたった教授は、いろいろな面倒な決まりのほとんどを撤廃していった。しかし、医局員との縦関係はしっかりととしていたし、教授自身のしっかりとした方針や考え方が、前の教授のものを一歩二歩前進改革させたものだったので、医局員には歓迎された。学会活動にも力をいれる先生で、教授自身も多くの発表をこなし、ペーパーもよく出されて医局員にも檄をとばされた。
その次にたった教授は、元教授のそんな学会活動中心に対立する立場にたった。前の教授は研究はやるけど、手術をほとんどやらない先生だったことが、教授として恥ずかしい姿に見えていたようである。
前々教授と前教授のやりかたに不満をいだいていた人なのでさらに輪をかけてルーズな医局の雰囲気になった。それまで、朝に行われていた朝礼にも教授自ら遅刻する。
朝のカンファランスは、教授不在でおこなわれることもしばしばとなる。
学会活動は医局員には要求するが、教授自らはその時期は終わったと、ほとんど学会発表も論文もださない。医局員との横的な関係を求めて、教授室にいることよりも医局員たちがいる部屋でボーっとしていたりする。
それでも医局員の意見には耳を傾けようという姿勢はみせるが、自分が腰をあげることはない。
医局員は、教授に顔を合わせたくないものだから、医局は常にも抜けのから(医局員が少ないということもあるが)。
「なぜ、こんな人が教授としているのか?」そんなことを、皆が思っているにもかかわらず、表面的には友達のように、無秩序に楽しく医局生活をおくっているから教授としては満足なのだ。だが、医局員はどんどん退局して、崩壊の危機をたどる。
自分に問題があることを根本的に理解していないために、医局員はやめてゆく。その勢いに拍車がかかり、関連病院もどんどん縮小である。
「脳外科は全国的に人気がないし、他の大学も同じような状態で、なにもここだけの悩みではない」などと考えているから、救いようはない。
「なれあい型」医局崩壊、そんな言葉はないかもしれないが、医局員のモチベーションが下がっているのは、医局員自身に問題ありとして動こうとしない教授自身に原因があったことに気づいて欲しかった。
それも少しは改善してきたことを聞くのではあるが・・・。
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教育基本法の改正論議が昨日あった。
愛国心とは、辞書で引くと「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」とある。
大変、崇高な言葉のようである。
しかし、愛国心を叫ぶほどの意識にこの国の運気は成長しているといえるのだろうか?
次元を低くして、国という言葉を変えて、都道府県とか市町村とか、氏族、家族としたらどうか。
「自分の家族を愛し、家族の名誉・存続などのために行動しようとする心。家族愛。」
個人の権利や人権ばかりの主張が多いのどこでもそうかもしれないが、ジェンダーフリーの容認、不倫を文化のように宣伝する輩の存在、同性愛者の容認、そして、性情報の氾濫。このような環境の中では、祖国愛などというのは育ちにくい。崩壊してゆく家族制度とか家庭こそが、いま、問題なのだ。
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