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今日、学会に出席し、久しぶりに数人の先生方にお会いした。
かつて所属していた医局の近況などを耳にした。
医局員の減少傾向はとまらず、関連病院をさらに減らしてゆくしか道がないとのことであった。話を聞いた先生の病院も、医局からの人材が、2人から1人に減り、2人で脳外科診療をやっているという。
都内は、マスコミの情報などにより、症例が少数の施設に集中してきているのではないかという。
たとえば、脳腫瘍ならばA病院やB病院、脳血管疾患ならばC病院やD病院というようなことである。
病院ランキングなる本の出現や症例が多い施設ほど手術成績が良いと勝手に言い出した、マスコミの影響があるのではないかとその先生はいう。
以前に比べて、手術経験や予後などを躊躇なく医師に聞いてくる患者が増えたという。その数を、正直に伝えると患者は、症例経験の多い病院への転院を躊躇なく希望するというのだ。
このような現象は、私の地域ではみられない。病院の選択枝の問題もあるが、高齢者が多いからマスコミの浸透度も薄いのだろう。当院では手の施しようの無いような疾患でも、「遠いところに転院するのはいやだ」といって、当院に居残ってくれようとするのである。この地域の人は、いまだ医者はなんでも診れる、と思っている人が数多くいるのでありがたいところもあるが、逆に対応に困り果てることも多い。
医療の崩壊というより、都市部と田舎ではその傾向が違い、かかえる問題も違うように思う。
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子供が最初に生まれて最初に経験する病気は、突発性発疹であるが、長女が4ヶ月くらいのときにそれを経験した。しかし、長女の場合は、発疹がでなかったため、「かつて学んだものと違うな」と「何か別の病気なのではないか」と私もよくわからなくなった。あとで、調べたら発疹がでない場合もあることをこのとき知った。小児科については、無知なのだということを知らされた第1例目である。
長女が4-5歳のころ、39度の発熱が2日間続き、熱も下がったので幼稚園にいかせたら、そのあと手の平などの皮が日に日にぼろぼろむけてきた。幼稚園の先生が、しょう紅熱ではないかと指摘があり、病院にかかるよう指示があった。小児科の先生に診せたら、案の定その診断で登園中止になった。医師の娘でありながら、診断されずに登園させ、幼稚園には申し訳ないことをしてしまった。
その経験があってから、妻は、子供が病気にかかると小児科にかかることを選択するようになった。私も、教科書を買って勉強するようにしていたが、そんな時間も十分とれなかったので、それ以後は「小児科にかかれ、相談してくれ」というようになってしまった。
私の父は、子供の病気のほとんどすべてを、自分で診て、薬を処方した。私も、真似事をしてみたが、難しく、対症的な治療処方を行なうのが精一杯であった。特に、たいへんで手も足も出なかったのが、次男が生後2ヶ月で肺炎になったときである。小児科の先生より、「生後は重症化することがある」と言われ、当初自宅で診ることを決めていた私の気持ちも砕かれて、入院加療をお願いした。このときは、すべてを小児科の先生にゆだね、おねがいするしかなかった。
他にも、子供の病気であるとびひも最初はわからずにいた。そのうち、体幹にポツポツとした発疹が現れ、何がおこったのかまったくわからず、小児科の先生に診せたら、水痘が合併したことがわかった。
他にも、子供の病気がわからなかったものが多数あり、小児科の先生に助けてもらった。子供の前では、さえない姿ばかりをさらしてきた。
言い訳として、日々の仕事の忙しさのため、子供の病気の面倒もみれないのだと自分で自分を納得させてきた。でも、本当のところは、小児はみれないのである。
子供の頭部外傷や外傷はある程度みれても、病気はみれない。
このような医師がいるため、小児科の先生の苦労もたえないのだなと妻も私も先生方の苦労を理解し、感謝の思いをもっている。
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専門馬鹿になってしまった私にとって、いちばんやっかいなのが子供の病気である。医師であるからには少なくとも自分の子供も病気くらいは自分でみてやりたいと思う。
医師である私の父は、自分の息子の出産は自分の自宅でしかも自分の手でとりあげている。また、私の病気のすべてを自分でみたし、弟の腸重積のオペの執刀も自分でおこなっている。いまでは、考えられないことではあるし、とても真似などできない。でも、何度かこころみようとはした。
一例目の長女は知り合いの先生の病院で 出産してもらったが、頭が出てこないため吸引分娩となった。知り合いの先生が「やってみるかい」などといわれたが、とてもできなくて、妻の腹を圧迫するのが精一杯であった。その後、私の圧迫のしかたが悪かったのか妻は弛緩性出血で約3000ccくらいの出血をおこし、プレショック状態となった。幸い輸血しないで、輸液と子宮弛緩剤でなんとかのりきった。出産後の真っ白になった妻の顔房は今も忘れられない。それ以後、出産には自分が手をだしてはいけないと思ってしまった。
長男は、勤めている病院で出産してもらったが、「先生がとりあげてみるかい」と同じように産科の先生からいわれた。もちろん、長女の出産のときの記憶があり、とても手がだせなかった。しかし、前回よりも安産で何の問題なく出産は終わった。
経産婦になると違うものなのかと思いなおし、自分でとってみようという願望が再びわくようになった。
次男も勤め先で生まれたが、今度こそは取り上げようかと身構えていたが、分娩台にのる移動先で頭が出てきてしまったため、取るまもなく生まれてしまった。
三男が生まれるときは、妻も40歳を超える出産となっていた。経産婦とはいえ、高齢での出産であるから安易に手は出せないと思い、結局、産科の先生にお願いした。
これだけ子供の出産現場に立ち会う機会があった(というかつくったが)、何も手を出せずにみるだけで終わってしまった。無念の思いもないことはないが、これでよかったと思う。
つづく
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産経新聞の一面の特集記事に家庭内にはびこる個人主義というのがあった。
妻にとって夫は、自分のやりたいことを束縛する存在であり、夫にしても妻は自分の自由を束縛する存在。そのため互いが互いを束縛することなく、自由に生きる、気に入らなくなったらいつでも別れ、離婚できる、そのような契約のもとで生活を送るほうが逆に長続きするというのだ。
もちろん、記事は家庭内個人主義を絶賛しているわけではなく、果たしてこのような姿の家庭があるべき本来の姿なのか?の状態である。
個人主義を主張するくらいならば、結婚などしないほうが良いと考える。
平面的な価値観でみるならば、このような生き方も良いといいたくなる。しかし、人間はその場限りの人生がすべてではなく、時間の中にいきる立体的存在である。また、死んだらすべてが終わるわけでもない(霊魂の永遠性というものはあると私は信じる)。
個人主義で生きる人間は自分の小さな枠の中でしか他をとらえることしかできないから、自分の心の枠を広げる機会を失う。心の枠が小さいと、いろいろな困難にぶちあたったときには、もろくもくずれるか、それから逃げて生活することになる。そのときはうまくいっても、行き場のない人生にいつかは直面することになる。
人間が家庭をもって生活する意味をもう一度考えなおすべきである。聖書でも「男一人ではよくない、彼の助け手をつくろう」と言って、神さまは自分のかたちに似せて、男と女を創造している。つまり、これは、男一人では完全な人間にはなりえないこと、女一人でも完全な人間になりえないことを意味している。男には、女が必要であり、女には男が必要なのである。男には、女の眼からみた心や感じ方が必要であり、女には男の目からみた心や感じ方が必要なのである。互いが互いを必要とする存在であるから、ここに結婚の意味がでてくる。
しかし、現実は、そう簡単でもない。
価値観の違いが逆に、離婚の理由の一位になっているくらいだからである。でも、そのような困難さをこえたところに本当の結婚の意味が見えてくるのではないかと思い、妻を大切に思っている。
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最近、ふとしたきっかけで、自分の家系図に興味をいだいて調べている。
家系図を調べることで、自分という存在が、祖先の代での様々苦労の土台の中で誕生したことを知るとともに、先代がなぜそのような道をたどったのか興味深いものがあったからである。
私の場合は、曽祖父が現在の新潟県長岡市から北海道に移住したことがわかったのだが、移住した理由が不明である。
その当時は、北海道で一旗あげてやろうという人が、多数北海道に渡ってきたことがわかている。その窓口になったのが今の小樽市であるという。ところが、曽祖父は新潟県から利尻島の移住していることがわかった。なぜ、そのような最北の島に移動したのか?
さらに、不思議なことは、曽祖父が亡くなった地が、今の小樽市であることもわかった。何か商売をするとしたら、小樽にくるのが一番だったのは間違いないようである。でも、なぜ、小樽に住まなかったのだろうか?
曽祖父の仕事は、大工だったという。手先は器用だったのではないかという。死亡病名は、胃がんだったというが、情報はそんなもので我が家に伝えられている曽祖父の情報はきわめて少ない。父に聞いてもわからないし、祖父母はとっくの前に亡くなっているので探る手立てはない。
ひょっとしたら、これらの不明な事実は、深くは探らないほうが良いのかと思いながら、曽祖父が新潟県の家から分家する前の除籍謄本が手に入り、なぞを深めている。
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小学校6年になる我が家の娘が、「医者になりたい」と言いはじめた。
私は、自分の親の姿をみて、感じるのものがあり、医師をめざした。娘も、同じことを考えたようであるが、そればかりでなく、妻がNGOのボランティア活動をしているため「父親と母親の仕事の両方をこなしたい」とまで言っている。
海外で医療奉仕でもしたいということなのか?
聞いてみると、そのようであった。
親としてはうれしいというか、複雑な気持ちである。それは現実を知るものとして、荒波に身を投じるような決意であるから。本人は、知らないこともあろうし、言うのは簡単なことである。
でも、「やめたほうがいい」とも言い出せずにいる。
大変な道ではあるが、やりがいもあるからである。できれば、自分と同じような道は歩んでほしくないと思うが、10年後くらいの日本の医療は、世界はどうなってゆくのか?
こころざしのある子供たちが、学びやすく、研修しやすい環境は整うのか?
不安はあるが、今よりは良くなっていることを願いながら、娘の成長を見守るしかないと考えている。
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医師でありながら、子育てもがんばっていらっしゃる先生はどれくらいいらっしゃるのであろうか?
脳外科医ならば、子供のことを見る時間はほとんど休みのちょっとした時間に限られるだろう。
夫婦ともに脳外科医ならば、どちらかが職場を離れなければ無理だろうと思う。
かつて妻が不可避の事情あって一ヶ月ほど不在になり小学校1年になる娘と二人で、仕事をしながら留守番をしたことがあった。
そのときは、本当に大変な思いをした。仕事をしながら、今日のご飯は何にしようかなどと考えたりすることもあり。先に帰ってくる娘に探りの電話を時々いれたり。塾にゆくのに気を配り、送り迎えを仕事のちょっとした合間におこなったりなどした。家に帰れば、掃除と洗濯など、子供の分まで手がかかる。食事は、子供のことを考えてなるべく手づくり。本を買ってまで研究したりした。子供の感動する姿が力である。
学校の給食のない日はもってゆく弁当まで手作りにした。
「おとうさんのはおいしい」と娘が言い、さらに「学校の先生も感動していたよ」などと報告するものだから、手が抜けなくなってしまった。給食のない日は朝から忙しかった。
大学病院の助手の立場では、こんなことは普通できない。勉強も物書きや学会の仕事もこの期間は、ほとんど手付かずである。
もちろん、職場では自分が不在でも信頼にたる後輩がいるからできたことでもあり、上司の理解もあった。
でも、1ヶ月は長かった。夏場だったので、仕事もそれほど忙しくなかったことも幸いしたかもしれない。
あのときほど、妻に感謝したことはなく、妻の存在の大きさを感じたことはなかった。
専業主婦も、立派な仕事の一つであることを強調したい。
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ある日の日曜日の午後、3時すぎのことである。 天気は曇りで、前日の雨のためやや湿度が高く、歩くとうっすらと汗が額ににじむ程度のときであった。この日は、非番でしかも拘束日でもなかった。そのような日なので
自宅の近くの小道を1歳半になる子供といっしょに散歩していた。すると、救急車がこちらに向かってくるではないか。
そして、その救急車は私と子供の目の前で停止した。子供も最初は、喜んでいたものの救急車が目の前で停止するとびっくりし、恐れを感じて私に抱きついてきた。
「何か、私に用事でもあるのか」と思ったが、車内から降りてきた救急隊は、私には眼もくれず、斜め向かいの一軒屋の中に走り去っていった。
するとその一軒屋に数人の人が、中に走ってはいっていった 。
これは、おそらくだれか卒倒したのかなにかに違いない。
「自分も中に入って手伝いをしたほうが良いだろうか」
心に迷いが生じた。
ところが、子供は早く帰ろうとばかりにぐずりはじめた。この子供を放置して中に入るわけにはいかないと言い訳を自分の中でして、その一軒家のまわりを私は行き来することにした。近所のおばさんが、路上にでてきて何やらうわさ話をしている。「○○さんの家のおじいさんにちがいない」。
「自分が医者だとばれたらどうしよう」と思い、顔を伏せながら行き来する。
10分ばかり待ったが、出てこない、子供はますますぐずりはじめたのでその場を離れることにした。20分後くらいになると、救急車が病院に向かってゆく。自分の勤めている病院にゆくのだろうと思い、あとで病院に電話をかけると、CPAで搬送されたが蘇生できず、腰椎穿刺で調べるとSAHであったという。
心拍がもどらなかったので、心機能もあまりよくなかったのかもしれない。
もし、あのとき子供がいなかったら、救命活動の援助をしたほうがよかったのだろうなと思いつつ、日常生活で非番の日はいかに自分に心の準備がないかを改めて知らされ反省した。
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小松先生の著書である「医療崩壊」を半分まで通読した。
分厚くて文字も小さく読み応えのある本だが、内容はまとまっており、読み始めると止まらないくらいである。
ある先生が「ほとんどの医者が、言いたいことがここに凝縮してある」と言っていたが、同様の感想をもった。
人員は減り、医療収入も減り、その一方で、仕事の増大、安全対策や医療事故防止にも努めつつ、より良い医療を要求されていることは、神業としか言いようが無い。真にこころざしが高くなければ、やっていけない。
その様な神々しい技を望まれる医療は、聖職というにふさわしい。
かつて、歴史上の聖職者の多くは、後代において評価されたが、本人は生きている間はほとんど歴史の中にうもれ、時には非難、中傷のまとになっていた方すらいるのである。
今の現状が一般に理解されないとしても、いつか報われることに希望を感じて精誠と真心をこめた医療をつくすしかないのだろう。
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前回、医師への謝礼について、または、病院自体が患者さんから何らかの謝礼をうけることに問題はない。
理由は、患者さんとの心のやり取りだからとした。
しかし、実際は心苦しいものもある。
たとえば、力を尽くしたにもかかわらず、患者さんが亡くなってしまった場合にでも、謝礼をわたす家族がいるからである。
ときには、医療過誤があったにもかかわらず、「助けてもらったから」といって謝礼をわたす家族もあった。
このような謝礼は、とても手がつけられないので、知り合いのボランティア団体に募金した。
考えたらそのような謝礼は受け取らないほうがよかったかもしれない。
そうこう思いをよせながらも、この田舎で、今日もいろいろな謝礼(現金に限らず)をいただき、複雑な思いですごしている。
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