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考えてみると、日本の人々にとって宗教とはなんなのか?
正月には神社に初詣に行き、お盆にはお寺に行き、結婚式は神社やキリスト教の教会で、12月にはクリスマスを祝う。葬式は、お寺。日本神道信者なのか仏教徒なのか、それともキリスト教徒なのか。
人生の節目をかざる儀式の一つ一つが、一つの宗教によらないのは日本くらいなものかもしれない。
ある友人が「日本人は、特定の宗教によらないから、いろいろな宗教を客観的にみれる眼があるのだ」と言っていた。
私は、この意見に対して、「無神論者がはなつ傲慢な意見だ」と言い返した。なぜそうなのか、人間を超える存在、絶対者をすなおに信じ、常に畏敬と謙虚な気持ちを持ち続けることこそが大切だと思うからである。
そして、その思いそのものは、自分自身に対して何か足りないものを感じている人、絶対ではない自分を真に理解していなければ到達できない世界でもある。生死をかけたような戦いをした人や人生のがけっぷちに立たされる体験をした人が理解できる世界とも思える。
書き方がちょっと傲慢になってしまったが、友人には言い返しただけで、理由は結局話さなかった。
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小学校6年になる家の娘が、学校や塾で日本の歴史を学び始めた。私も、小学校時代に歴史が大好きだったので、ちょっと拝借して中身を見てみた。いままで、娘の使っている教科書などじっくりみたこともなかったので、自分のかつて学んだことのある教科書の記憶と照らし合わせてみた。
そこで、驚いたことは
1、カラフルで美しい、写真や絵がふんだんに使用される
2、文字が大きい。比較的平易な表現、文書
以上は、外見であるが
内容は
3、歴史上の人物が、大幅に昔に比べ減少している
4、歴史の大まかな流れがつかみにくく、つながりがわからない
5、その時代時代に生きる人々の生活や文化に対する探求が中心になっているが、宗教面に対する記述はほとんどない。
そのほかにもいくつかあるが、昔の我々が使っていた教科書よりも内容が薄っぺらで簡単である。
日本歴史もその認識が少しずつ変わってきたというが、歴史上の人物はこうもカットされるのはさびしい。
私のこだわりではないが、長岡京や平安京の遷都をおこなった桓武天皇の名前がないのも残念だった。東北を平定した征夷大将軍坂上田村麻呂もなくなった。
平安時代の歴史上人物として、空海や最澄の記述がない。しかし、奈良時代の人物、行基は記述されている。
私の歴史観としては、今までの日本の歴史を動かしてきた原動力は、宗教にあると考えている。これは、日本に限らず世界の歴史すべてに言える。現在の民主主義の由来も、そもそもは2000年前のキリスト教と関係している。日本が、国家としてその形を整えたのは、天皇を中心としたものだが伝統的な国家神道がそのなかにある。
聖徳太子の時代には、仏教が取り入れられ、政治経済が運営され文化が花開く。そして、日本にキリスト教が入ってくるのが、戦国時代である。織田信長は、キリスト教の保護育成を行い、西洋文化が入ってくるが、江戸時代はそれが、儒教にとって変わる。そして、明治時代に入り、国家神道を復活させ天皇中心に国をつくる。そして、戦後は米国主導の民主主義が入るが、そのキリスト教は入らなかった。
このように過去をみると、宗教と国家はきってもきれないものがある。国家が繁栄するためには、その国に宗教理念がしっかりと全国民に定着したときになされている。従って、政教分離というのは、そもそもおかしな認識である。
特定の宗教宗派に偏らないことが、その根本理念であり、宗教を否定することではない。
国家を動かす中心がないために、平和平和と口を大にしても何が平和なのか?人によってその認識が変わってしまう。
同じ平和でも、仏教徒やキリスト教徒イスラム教徒、そして、共産主義者の考える平和は皆違うのだ。
一つの宗教理念を中心とした、従来にないまったく新しい国家運営、それこそ真の改革が今必要とされているのだ。
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