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2008.10.04 00:45 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

頑張っているのに評価されない

やっと地獄のような忙しさから抜けることができた。

いや勝手に忙しがっている悪循環から抜けた。

どうも悪い癖なんだけど、僕は勝手に自分で仕事をつくる癖がある。

別に頼まれているわけでもないのに、

勝手に人の気持ちを推測して、あれもこれも

「自分がやらなきゃ」とか引き受けてどつぼにはまってしまう。

 

どつぼにはまっているときにどうしても出てくる言葉が

「頑張ってるのに評価されない」だ。

 

「こんなに頑張っているのに評価されない!」

と言ってやってくる患者さんがたくさんいる。

いやもちろん、病気がひどいときはそんなこといえない。

何がきついのかわかんないくらいきつくなるのが病気だから。

でもうまく山を越えることが出来て社会で頑張るとき、

もしくは病気一歩手前で社会で踏ん張っているとき、

頑張るほどに「評価されない」という現実にぶつかる。

 

障害児学級の先生がいう。

「こんなに子どものことを考えて動いているのに親が文句ばかり言う」

「学校にどこまでも期待するくせに、文句ばかりで自分は動かない」

会社の課長さんがいう。

「こんな過酷な現場なのに、上司はわかってない」

「丸投げしておいて、成果が出ないと私だけが責められるなんて!」

世の中、評価されないことだらけだ。

 

僕だって中間管理職になって、

本来の医療職以外の部分で山ほど仕事をかかえて

身銭を切って睡眠時間を削って西に東に奔走するけど、

そういう部分って一切評価されない。

しんどくなって本職のほうも上手くいかない。

やりたい医療からも少し遠くなって、嫌になっちゃう。

 

だから、現場を理解しない理不尽な要求のひどさは良くわかる。

世の中いろんな組織・・学校にせよ病院にせよ会社にせよ、

そういうものが「ある」のが当たり前になっているから

「その現場を支える人」が支えることは「当たり前」。

そこは評価されずに無茶な要求を上乗せして平気で「支える人」を消費する。

消費した人がつぶれてしまわないとそのありがたみがわからない。

でも現場の僕らは「つぶれて見返す」なんて悲しいやり方をしたくはないから、

ただうらめしく「消費する人たち」を見つめるんだけど。

 

・・・たぶん、おそらく、いやだからこそ、理不尽な要求を

理不尽と考えてはいけないのだと思う。

それを理不尽と捉えてしまうと、自分が潰されてしまう。

理不尽と捉えてしまうと、それと対極の「自分の思う正しさ」を

選んでしまいたくなるから。

学校の先生や僕からいうと「専門家としての正しさ」を

選んでしまいたくなるから。

 

学校の先生達は、親御さんたちからの

「あーしてほしい」「こーしてほしい」・・・・にとどまらない

「何故子ども同士のトラブルをちゃんと管理できなかったのか」

「(乱暴な)子どもが(やさしくてかよわい)他の子どもを叩いて

怪我させた責任は学校にある」とかそういった要求を受けている。

もちろん、起きてしまった事故を責めたい親御さんの気持ちはわかるにせよ、

先生達の自分が現場にたってみろよ、それが本当に可能かどうかわかるから!

といいたくなる気持ちのほうもわかる。

もっというなら、学校みたいに「守られた環境」なんて

社会にでたらあるわけない。子どもの将来を考えたら

社会の縮図として状況を設定して多少の毒は子どもに食わせていかないといけない。

視野の狭い親の求めるままに「管理」された「きれいな」状況ばかりを求めては

子どもの将来を考えたらマイナスにしかならない。

ふつうに教育を長くやったら、そういうスパンの見方が出来るから

親の度外れた管理要求は、「専門家の正しさ」からすると「間違い」。

でも、責められるほうの立場に立ってみても、いや立つほどに、

それを理不尽と考えてはいけないと思う。

親がおかしい!と思ってはいけない。

「そういうものだ」と考えて流されないと、

納得のいかない気持ちは自分を蝕んでしまう。

 

僕も現状について愚痴を吐いて、誰かのせいにして、

いらいらして荒れてみてわかることはやっぱり僕が間違っているということ。

なぜなら、僕も納得のいかない気持ちのままに無理をして

うつっぽくなってしまったから。



 

結局行き着く答えは現実と向き合うことだと思う。

自分の気持ちが強すぎて、自分の欲しい物を求めるほど

現実を生きることがきつくなってしまう。

いい医療とか、理想とか、そういったものを求めるのは自分の欲だ。

自分のそういう欲を大事にして、きれいでいようとすると

実は他人にしわ寄せが行くし、自分の首を絞める。

現場を理解してもらえない現実にぶつかったとき、

自分が磨耗してしまって、前向きに頑張れなくなってしまう。

ココロが動くのを嫌がるようになってしまう。

 

だから学校の先生達も、子どもの将来を考えて「専門家らしく」振舞うより、

クレームをつけてくる親を黙らせる対処を大事にすべきなんだろう。

(あえてクレームという言葉をつかうけど)

そうやって、学校という場を壊す理不尽な要求から自分達を守る。

守って、守る流れの中から、そのなかで出来る

子ども達の教育というものを考えるべきなんだろう。

(バトルというのは防御から入るのが鉄則!)

「専門家として」どんなにおかしい要求であっても、

現場で「専門的な正しさ」を追求してはいけない。

自分というものをどっかに棚上げして、

自分の求められている役回り、自分が「どういう歯車なのか」

という問題と向き合うべき。でないと行き詰ってしまう。

 

そうすれば、クレームはクレームでなくなり、

現場を無視した無茶な要求は、現場を壊さなくなる。

と思う(思いたい)。

 

僕の好きなカントの言葉に「自由とは必然性の洞察である」というのがある。

ここ数年、自分なりにその言葉の重さを実感してる。

社会の中の歯車である以上、どう己を由として廻るか、

それは自分の中の事情は関係なくて、自分の外の事情が大切なんだと思う。

自分の身の回りにある必然性の洞察。

身の回りにある「仕組み」をどういう深さでわかるか。

それを深く自分の中に取り込むほど、自由になれるんだと思う。



 

だから、思う。

「頑張っているのに評価されない」という思いは

自分の思う正しさに依存している。

自分の正しさは、たぶん正しいんだろうと思うけど、

世の中が正しいと思ってくれないことが往々にしてある。

だから世の中の正しさで、自分を修正していかないといけないんだろう。

専門家の視点からすれば、どんなにおかしいと思っても

その「専門」という概念が変わりつつあるのが今だから、

自分を曲げることがかえって不誠実と思える場面でも

自分を曲げて、できる範囲で誠実に対処すればいいんだと思う。

だって僕らはいつも患者さんに「真面目すぎるとよくないよ」とか言ってるわけだし。

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2008.08.28 01:47 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

臨床医に必要なのは統括能力である

縁のある後期研修医が、やっかいなケースを抱えて右往左往してる。

実戦経験が少ないのだから仕方ないのだけれど、

そこで教科書や、雑誌を一生懸命読んでる彼は間違っていると思う。

それを奨励して「実戦経験を積めば何とかなる」

ってのたまう偉い先生もちょっと違うんじゃないかって思う。

         

 実戦経験ってなんだろうって考える。

僕もいろんな先輩から「たくさん患者さんを診ないと

本物になれない」って言われた。

たしかにそうだと思うんだけど、たくさん診て、何が変わったんだろう。

          

 その5年目の後輩はいいやつ。真面目だしたぶんIQ130くらいある。

僕よりずっとアタマがいいのに、

患者さんに振り回されてて、上手く症状が聞き出せない。

患者さんがしたい話をべらべらさせてて、

ただただそれに振り回されて、肝心のポイントが押さえられない。

聞いてて歯がゆいものがある。

         

 たぶん、診療をたくさんやった経験は、場を上手に仕切るというか、

相手にいうことを聞かせるとか、

そういった「場の統括能力」に結びつくんだと思う。

研修医は知識は最新のものを仕込まれているけど、

大事な症状をつかみ出すような、場の仕切りが出来ない。

患者さんとやりあって、駆け引きをすることが出来ない。

        

 結局、医者がいう「たくさんの患者さんに教えてもらえ」っていうのは、

病気を教えてもらうという以上に、

診療という名の患者さんとのバトルで、ちゃんと駆け引きをして

どう負けない戦いをするか学べってことなんだと思う。

負けないためには負けないシステムが必要。

病院という場のルールに従った、

負けないシステムを自分の中に作るということ。

           

 世の中には、「経験を積んだら、薬の使い方のカンとかコツとかが

わかって自分独特の薬の使い方が出来るようになる」とかいう医者がいる。

たしかにそれは一面の真理なんだと思うけど、

出来るようになった人間のそういう言葉は何の役にも立たないどころか、

まだその「カン」とか「コツ」とかをつかんでいない初心の医者には

害にしかならない。

だってそれはその医者独特の患者統括の仕方であって、

薬理作用にその医者のキャラクター、影響力があいまって、

治療効果を生んでいるだけだからだ。

だいたい、検証不能な特殊な薬の使い方なんて、

それだけ取り出して論じれば、科学的ではないし。

               

 だから本当は、そういう「カン」とか「コツ」とか言う偉い先生達が、

自分なりの患者統括の仕方をわかりやすく教えてくれればいいのに。と思う。

なのに、偉い先生ほど話すことは精神論で、

まるでプロ野球の長○監督が「こうしてググっと腰を入れれば

勝手に打てるはず」みたいな指導法が幅を利かせている。

              

真面目くさった「正しい治療法」なんて、

もはや学生じゃなくて前線に出てしまている医者に言うべきではないと思う。

すくなくとも、現場に出た初心の医者にとって意味がない。

もっと裏技を、場をどうやって仕切るかを、技術として継承すべき。

           

こんな話を書くのも、一昔前は大学にそういう裏技使いがいて、

教科書的な保守本流を歩むわけじゃなくて、

医局の端っこにいるんだけど、いざというときに

「悪いやりかた」「言うことの聞かせ方」を教えてくれてた。

そういう人が、偉い先生の抽象的なお話を、

「具体的な勝ち方」に変換して教えてくれていた。

今はそういう人がどこにいったんだろう。

それは一見くだらない、医学的には意味のないやり方だけど、

こと前線で戦うことになった新兵には大事な金言。 

                 

しょうがなから、振り回されて困っている後輩には

メンタルの問題以前にケースワーカーをかませて問題を散らせとか、

診察は個室じゃなくて、看護がいて人の目があるところでやれとか、

入院や転院をちらつかせつつ限界設定しろとか、

そんな姑息なアドバイスばかり送ってる。

教科書を読む暇があったら、生き残るための工夫をすべき。

でないと「カン」とかつかむ前に潰されてしまう。

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2008.08.19 23:07 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

うちの事務長はいい男

うちの新しい病院の事務長は出来る。

何が出来るといって、人に仕事をさせる。

こう書くと、ちょっと意味がわからないかもしれないけど、

ふつうの病院の事務長さんは、

医者や看護のやる気を削ぐ能力が極めて高い。

だけど、彼は削がないで、仕事をさせてくれるので、僕は好きだ。

    

いや、給料をたくさんくれるかといったら、絶対くれない。

近隣の精神科の病院に比べたら、明らかに安い。

あからさまに安いので、新しい人が来てくれない。

それでもなんとかもつのは、今いる人がやめないから。

なんでやめないのかといったら、

みんな「自分で選択して」残っているから。

         

先日彼と飲んでて、話したこと。

「いいにくい話ほど、最初にしなくちゃいけない」

「いいにくい話は、ちゃんと踏み込んで話して、

相手に選ばせないければいけない」

その話を聞きながら、いやさすが違うなと思った。

僕も患者さん相手に距離が取れたら出来るけど、

一定以上心理的な距離が狭まってしまった患者さんには

いいにくい話がやっぱりいいにくくて、

ちゃんと踏み込んで選ばせるなんて、実は出来ない。

いいにくい話で傷つける以上に「悪い人」になるのが怖いから。

         

たとえば、僕が出世して彼(事務長)と給料の話になったとき、

彼はさくっと、「3年間据え置きでお願いしたい」とか言う。

まあ、病院の事情とかいろいろあっての話なんだけど、

仕事の付き合いが増えて実質明らか過ぎる減給なんだけど、

どうですか?とか踏み込んでくる。

ふつうは蹴る話だけど、僕は彼といろいろやりたくているんだから

僕は彼の示す選択肢をチョイスせざるをえない。

       

彼はある意味、「この野郎!」とか「ひでえ」とか、

思われるのを覚悟して踏み込んでくるんだろう。

そういう否定の言葉を覚悟して、

それを選ぶかどうかを僕に任せてくる。

それってリスクの高い行為だと思うんだけど、

そのリスクをかぶるのが事務長の仕事とプライドもって言ってくる。

僕からしたら、僕の仕事がしやすいように、

ふだんげっそりするまで走り回っているのも知ってるから、

あなたの良いように僕を使ってくださいという話になってしまう。

出世・減給はつらいよなーとか思いながらも、

「わかりました」といわないと体育会系とはいえない。

そして体育会系のノリが出てくるところが今の僕にとっては嬉しいこと。

(それはどうでもいいことかも知れないけど)

彼は金以外の価値をそこに作ってくれている。

職場に金以外の価値があるって素敵なことだ。

              

「仲間と一緒にいい医療がしたい」とか、もちろんただのきれいごと

どうせ、疲れて目をしばしばさせながら、毎日患者さんの

辛い話を飲み込んでいくだけなんだけど、

(患者さんの吐き出す汚いものを飲み干してあげるだけなんだけど)

きれいごとがない職場はかなりきついことを知ってる僕は、

職場にきれいごとを持ち込んで、みんながきれいごと

表に出す職場にしてくれたのが嬉しい。

             

彼が踏み込んできて、僕はうんといわざるを得なくて、

なんでそうなるのかよくわからなかったんだけど、

彼は減給を受け入れることが「かっこいい」という像を

ある意味夢というか、そういう価値を与えてくれたんだな。

  

僕も、患者さんに辛い決断を迫るとき、

病気を受け入れるとか、進学をあきらめるとか、

職場をやめるとか、要はそれまで描いていた甘い夢をあきらめてもらって、

現実を生きてもらうときに、

それが「かっこよくて、素敵なことなんだ」という夢を

与えられるといいんだなと思った。

は、そういえば上手くいくケースってたいていそうだな。

相手のために汗をかいて、一緒に考えて、

「現実と向き合うことは大変だけど、向き合えたらすごい進歩」

「それって他人がどう勝手に評価しようと素敵なことなんだ」

そういうことが厚みをもって伝わるときか。

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2008.08.19 00:12 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

医者はウソつきであるべき

ちょっと暴走中。

精神医療においての不満。

それはゴールを示さないこと。

ゴールという嘘を引き受けないこと。

 

患者さん以上に、患者さんの家族に視点にたつならば、

患者さんの病で生活が大きく崩れるわけだから、

これがいつまで続くのか、どうしたら終わるのか、

そういったゴールを明示してほしというのは当たり前の話だ。

 

患者の立場に寄り添う医師は、

そういった質問には応えない。

「今の病状が良くなるまでどれくらいかかるかわかりません」

「少しずつ変化がありますから一緒に変化をみていきましょう」

そういった返答が恐らくは最良の精神科医の返答。

 

なぜなら、真面目な精神科医ほど患者に責任を持つから。

自分の言葉に責任を持つということは、

自分の言葉に間違いを許さないということ。

自分の行動に診断に言動に、間違いを許さない。

 

医者は真摯であろうとするほど、

患者の改善すら認めようとしない。

改善のちょっとした裏側の危うい要因に着目する。

社会復帰を止める。危ういから。

 

それは極めて正しい判断だし、

僕自身弱っているときは「正しさ」に寄りかかって楽をしてしまうんだけど、

今の世の中、正しいことなんてどこにもなくて、

するさや狡猾さが大事なこととみられてるのに、医者が善意で目指す正しさは

世の中で生きる上でどれだけ「正しさ」を発揮するんだろうか。

今苦しんでいる患者や家族にどれだけ正しさは機能するんだろうか。

 

本当は、家族に必要なのは、大まかな夢なんだと思う。

どういう状態になったら、もう大丈夫。

そういうのは、論理的には規定できるけど、

「人の顔色を気にして過剰適応してしまう」

「長年やってきた仕事を辞めてやることなくてうつっぽい」

そういう人たちに、そういう人を支える人たちに

「自己主張ができるようになれば大丈夫」

「仕事以外の生きがいが見つかれば大丈夫」

そういう答えは、真面目な医者ほど出しにくい。

あまりにも不確定要素が多すぎる。成功率はどうあがいても7割。

だから大丈夫ってさらっと言えるのは、ビジネスマンか、山師。

でもある意味山っ気がないといい精神科医はやれない気がする。

 

嘘でもいから夢を作って、夢に向かって自分もだまして

患者も家族も自分もそれに向かう生活(流れ)を整えること。

 

ある意味目的に向かう生活が整えられれば、それは治療の終結を意味する。

なんか、パラドックスみたいだけど、

混乱した生活を、一つの目的に集約することは

絶対に治療的だ。

 

治療のゴールを明示するなんて嘘だ。わかってる。

そんなものは明示できない。でも、嘘とわかって嘘を引き受ける人が

社会には必要で、僕らは嘘をひきうけることを求められている。

 

だから、世の中の人には、

僕らは嘘を嘘とわかりながら引き受けざるを得ないことをわかってほしい。

自分のためでなく、誰かのために嘘を引き受けるわけだから。

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僕のブログは出来るだけ等身大の言葉を使いたい。

それが最近上手く出来なくて悩んでたけど、もういいや。

またトラックバックに叩かれるのを覚悟で、好きに書こう。

 医者にとって善意の言葉で隙なく武装することはすごく簡単なことだ。

小難しい話のネタには事欠かないし、難しい医療の話を小難しく語ることは半分寝ながらだって出来る。

まじで。 

 

でも、患者さんはそんな話はわからない。

だって四六時中勉強することが許されてきた僕らと違って、

ちゃんと家族を食わせるために働いている人を治療して

彼らをリスペクトして少しでも納得するような教え方、話し方を

模索していくと、小難しい話なんてクソ食らえって話になる。

患者さんと「同じ言葉」で話さないと。

僕らは特権階級でもなんでもなく、

患者さんにめし食わせてもらっているんだから

相手がわかるような話を提供しないとしょうがないだろ。と思う。

 

 でもね。一方で、精神科にはこういう病気があって、

こんなことに気をつけて生活するのが大切ですよ!」

そんなことを簡単に書いてある本が今ではたくさん出てて、

患者さんの役に立っているんだからいいなと思うんだけど、

一方で、それに物足りない自分がいる。

贅沢なのだと自分じゃわかっているけど、

もっとオーダーメイドしないと、もっと踏み込まないと。

学問的な小難しさを否定しつつ、

かといってあまりにも一般化した話を聞くと

「そんなもんじゃないだろ」とか思っちゃう。

われながら矛盾してる。

 

 臨床で今より一歩進みたいと思ってブログに手を出したけど、

なんかいい人を演じるようになって息苦しい。

いい人なんかじゃないし、好きなことやりたいだけ。

以前貴のについて書いて、内容を削除した。

医者として不適切な表現だったことは認めるけど

僕が本当に書きたかったのは、彼の思い。

彼の一生懸命を想像するときつかった。

人の思いに想像力を働かせられないやつが多すぎる。

たしかに診断名は憶測に過ぎないから、あれは却下・誤診。

でも、某ブログでバカ呼ばわりされて偽医者呼ばわりされて、

それで一回ブログを閉じようとした。

そのときの後遺症で、今でもあたりさわりのない話しかかけない。 

 

でもね。やっぱり。

 

 僕は発達障害や精神疾患の子が自分のこだわりに生きて、

周囲の理解を得られず、悔しい思いを抱えながら

人間不信なりそうになるのを何度もみている。

僕はそのたびに猛烈な怒りがわく。はらわたが煮えくり返る。

そりゃあ、学校の先生にも親にも大変さがあって、

自分の生活があるから、その子のことばっかりかまってられないんだろう。

でも、その子なりの一生懸命を

「おかしな行動」とかばっさり切り捨てる状況って、

本当にそれでいいの?

誰だって自分と同じように一生懸命生きてるに決まっているのに。

何故アタマから自分の価値観でしかものを見ないんだ。

その子の価値観の形も見ようよ。そうじゃないと救われないじゃないか。

それが僕の思いだし、書きたいこと。

 

もういいや。叩かれまくるのかもしれないけど、

最低限書いちゃいけないことは書かない努力をしながら、

腹が立つことは腹が立つと書きたい。

 

 

人の一生懸命を「奇行」とか「バカな行動」とかいうやつは好かん。

人の行動を「一生懸命」と想像できない人間は好かん。

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2008.08.11 21:51 |  診療  |  仕事 / 職場  |  なし  | 推薦数 : 2

タモリさんの弔辞に思うこと

いろんな書きたいことはあったのだけれど、

旬を過ぎてしまった感は否めない。

でも、タモリさんの赤塚不二男さんへの弔辞についてはすこしだけ。

原文をそのまま載せた新聞と、一部改変して(整理して)のせた新聞があって、

いくつかのブログでそのことが取り上げられていた。

 

僕の立ち位置からは、やっぱり原文ままが感動した。

たくさん出てくる固有名詞。あの2人が一緒に生きた生の情景が描けた。

認識って、像だ。

映像が頭の中に浮かんで、それが苦い味がしたり、

甘いにおいがしたり、痛い感覚があったり。

その映像の濃さでいろんな味付はあるけども、

そして、どうでもいいことはあまり映像として残らないけれども、

やっぱり、原点は映像。

 

僕らは映像をココロで感じたり、アタマで整理したりする。

僕は医者なので、基本的に頭でっかちで、いろんな物事を

アタマで、理屈で捉えようとする。

それでたしかに人について見えてくる風景はあって、

患者さんの生活や、その歪みからくる病気が、それなりに見えてはくる。

でもたぶん、それだけではまだ半分。

「ココロで感じる」という部分がないと、本当の意味で

人のことはわからない。

 

僕の知っている天才。

その人は商業高校卒で、飲み屋で知り合ったお姉ちゃんなんだけど、

そのお姉ちゃんは知り合いのメンタルな問題を

すごい深さで「わかる」。

言葉に仕方がわからなから、上手にアドバイスとか介入は出来ないけど。

ある強迫っぽい症状を出して苦しんでいるバイトの子に

一見ぜんぜん関係ないところから「親の期待を裏切れないんだね」とかいってた。

 

その子は高校中退してバイトを始めたけど、弟がいい高校に合格しちゃって、

バイトも休みがちになって手洗いがひどくなったという訴え。

こっちが理屈で積み上げて、一番の核心と思えたところをさらっと話すから

最初は認められなかったけど、やっぱりすごい。

いや違うな。僕の理解より深い。

「裏切れないんだね」という言葉の中のやさしさは当時の僕にはなかった。

たぶん、その苦しさがわかるから表現がやさしくなる。

そのお姉ちゃんに会って、自分の積み上げてきた「理屈でわかる」部分は

人間の精神をわかる上でまだ半分なんだと気がついた。

 

理屈で考えた言葉にはあまり色がつかない。

患者さんの訴えを聞いて、それをそのまま知識の海で整理することは簡単。

で、それなりのわかり方をして、答えを出すのも簡単。

でもその言葉は患者の心を揺さぶらない。

ちゃんと、聞いた話に色をつけて、匂いをつけて、

味をつけて、そういうプロセスを経たとき、

はじめて、患者さんの気持ちがわからないなりに描ける。

昔は自分がおんなじ体験をしているときしか、色がつけられなかったけど、

抽象化する癖をつけてから、前よりは色のつけ方が上手になってると思う。

天才には遠く及ばないけれども。

 

このエントリを読んで、そんなこと当たり前じゃない!

人の気持ちなんて感じるものでしょ!とか思う人がいると思う。

でも医者って頭で整理するのに特化した存在だから、難しい。

「感じる」ことの大切さに気がついたのも、7年目くらい。

わかる人から見たら馬鹿みたいなものだろうけど、

バカはバカなりに前進するしかないので。

 

だからタモリさんの弔辞。

原文のほうが端々に映像の断片がって圧倒的に色がつくし味がする。

原文は読むと涙が出てくる。

タモリさんは白紙の弔辞を読んでたって書いてあったけど、

さもありなんと思う。

たぶん、自分の中にある大切な映像を語ってくれたんだと思う。

言葉にすると「ありがとうございました」というしかない、

すごくいろんな味や匂いや痛みや、そんあものがついてる映像を。 

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2008.08.08 00:39 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  仕事 / 職場  |  なし  | 推薦数 : 3

踏みとどまることの大切さ

件の研修医が指導医のいじめから何とか立ち直った。

よかったー。乗り越えてちょっと成長したっぽい。

昔の僕なら、裏から手を回してバカ指導医の上を動かして

うちの子の安全を確保するんだけど、

僕のそういう女性的な過保護なやり方って、

結構人をスポイルしてて、なかなか人が育たないのを見てきたから、

後ろに控えて、毎日メール打って、様子を見て愚痴を聞いて、

「お前が戦わんとしょうがない」とかいい続けた。

線の細い彼にしては上出来。ちゃんと自分で馬鹿の上司にいいに行って、

今でもバカ指導医にはつきまとわれてるようだけど、

そこに上司の目が光るようになったらしい。オッケー。

やっぱ、人を育てるって「待つ」という要素がすごく大きいと思う。

わかっちゃいるけど、手を出してしまうんだよねー。

今回は出さなくて、ホント正解。

ただ、今だいぶ「待つこと」が出来るようになったのは、

学校の先生との出会いがすごく大きかったな。と思う。

 

何故学校の生徒が伸びるか。

それはたぶん、そこに伸びる構造があるからだと思っていたんだけど、

仲良しの先生と飲んで話す中で、「モデルとライバル」

「評価の移動(スイッチ)」が大切なことに気がついた。

 

学校には先生がいて生徒がいる。生徒から見たら、

いい先生は人生の、もしくは行動のモデル足りうるし、

先生はときどき、モデルになるような子を取り上げたりする。

そして、それを同級生と一緒に見る子は、

ああすごいなと思ったり、あんなのすごくねえよと思ったり、

それはさまざまだけど、そういう横からの刺激に自分らしさがはっきりするし、

上からの刺激に、モデルに対する自分の到達度がわかる。

それは健康な人間にとって、自分がどう進むべきか

それなりに選択を促す構造なんだと思う。

自分なりの向くべき方向に歩を進めることができる。

               

でも、それは上手くいくことばかりじゃなくて、

モデルに対して50人言えば1番から50番まで出来てしまうわけで、

40番以降でまじめにそのモデルを追うのは辛すぎる。

だから「評価の移動」が大切。

要は勉強は出来なくとも運動は出来るとか、やさしいとか、

あっちは駄目だけど、クラスで冗談が一番面白いとか、かっこいいとか。

とにかく、一生懸命頑張ればなにかしら行き詰ることはあって、

そのときに上手くいかないことだけで自分を評価してしまうともたない。

そこで、こっちは駄目だけど、別の分野ではトップクラスとか、

そういう価値の移動というか、評価の移動をできれば、

上手くいかない現実の中で「踏ん張る」ことができる。

 

この踏ん張る。現状を壊さない。維持する。そういうことは

鬼のように大切なことだ。あまりに大切すぎて3時間ぐらい講義したい。

踏ん張って時間を稼げばたいていのことは何とかなる。

そこがたぶん、病んでいく人が自分じゃわからないところだ。

その問題を解決しないと先がないと思い込んじゃう。それは違う。

人間そんなに簡単に変わるわけもなく、

上手くいかない問題が簡単に解決するわけもなく、

でもそこに絶望して結論を出すのではなく、

そこで踏みとどまることが大事。

もちろん、苦しいことはわかるけど、だからこそ僕らの存在意義がある。

                       

ちょっと脱線したけど、研修医の苦難を「待てる」ようになった原因は

この考え方を見につけたから。こいつに今「モデルとライバル」はあるか、

「評価の移動」は行えてるか。それを毎日メールでチェックした。

彼が乗り越えてくれてよかった。

僕も彼のおかげですこし成長できたような気がする。 

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2008.08.05 22:36 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 4

患者さんのわがままは苦手じゃないけど

精神科医の仕事って何?と聞かれたら、

僕は「無理難題を受け止めること」って答える。

だって、妄想を叫んで暴れる患者さんを沈静したり、

自傷を繰り返して、私なんてどうなってもいいのよ!とか言う患者さんをなだめたり、

焦って動けばうつや拒食がひどくなる患者さんを止めたり。

 

一般の人なら勝手にしろ!とか言ってしまうようなことを

真面目に受け止めるのが仕事。

だから無理難題を吹っかけられることには慣れている。

そうそう怒ることはない。

 

ただ、それにはいくつかコツがあって、

自分の常識のチャンネルを患者さんのチャンネルに合わせること。

彼氏を殺したい!と興奮している人があれば、

「そりゃ殺したくなる彼氏なんだな」とチャンネルをあわせる。

患者さんの殺したくなったストーリーにちゃんと興味を持って、

一つ一つの話に耳を傾ければいい。

そうすると、患者さんの中での整合性のとり方がわかる。

人の思いはかならずその人なりの理屈で整理がついている。

どんな理不尽な訴えも、その人の中では「正しい」訴え。

 

だから、他の科のドクターから「わがままな患者」として紹介されたり

他の病院から「人格障害疑い」とか紹介される人はあまり苦にならない。

要は、その人の正しさ・その人の理屈を捉えればいいだけ。

 

ただ、そういうやり方にも前提があって限界がある。

あくまでそれは病院の中での話であって、

病院という場を壊さない人に対しての話。

病院という場は、治療のための善意や道徳観念で構成されているので、

(言い方を変えれば病んだ人は救われるべきという観念)

場そのものを踏みにじれる人に対しては、無力。

 

ちょっと前から、えらい議員先生を診察してる。

病状を踏まえていくつかのプランを立ててみるんだけど、

こっちの立てたプランをことごとく崩してくる。

えらい議員先生は若造の言うことなんて聞く耳持たないから、

そのときの気分で薬を使ったり使わなかったり。

仕事は任せてあるといいつつ、やってたり。

周りの家族が輪をかけていうこときかなくて、

薬物治療派と自然軽快派が入り乱れて、毎回付き添いの流派が違うので、

3ヶ月たっても症状が遷延してる。

しかも、どっちに治療を進めればいいのかいまだに見えない。

 

まだ、病院事務の対応が悪いとか、

看護の対応が悪いとか食いついてくる

クレーマーのような人のほうがやりやすい。

少なくともそこには、病院という場に対する思いがある。

チャンネルの合わせようがある人は、たとえ喧嘩別れになるにしても

そこに線が引きやすい。

 

でも議員先生のように、自分を病院の上において

病院を下僕のように「使う」人に対しては、チャンネルのあわせようがない。

症状が軽快しないことばかり責めてくるけど、

いうこと聞かないのに治せとかって、そんな無理難題は受け止めきれないよ。

しょうがないから、そのつどプランを提示して

あとは相手に任せるのみ。治るか治らないかは相手のインテリジェンスと運次第。

 

患者さんのわがままは苦手じゃない。

善意や道徳観念の場の中で一緒に頑張れるから。

場を壊すようなわがままは付き合いきれない。

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2008.08.01 00:46 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 5

指導医だけがやめる現象に思うこと

現在1週間出張中で、メールとか見れません。
リアル関係者の方、帰ったら返事書きます。
臨床も完全に離れているので、
ちょっと医局について思ったことを書きます。


商社勤務の友人がよくする話に「2割と8割の話」というのがある。
会社の売り上げの8割は、「出来る2割」の人間が稼ぐという話。
蟻とか蜂とか昆虫の世界もそうらしい。
働き蟻って、「働き」とかいうくせに8割はなんかタラタラしてて、
2割の蟻がパタパタ餌運んでくるんだって。
そういうのはすごくわかる。感覚で。
医局だって、実働してたのは2割。
8割は働いているつもりで、たいして医局の役にはたってない。

組織って視点から考えると
そういう「働く2割」はもちろん大切だけど、
残りの8割の扱いが組織の形を決めてしまうと思う。
商社の友人に外資の話を聞くと、すごい。
2割の稼ぐ人間が圧倒的に偉くて、
8割は「2割に入る」ことを求められる。
だから2割に入れない人はすごい勢いで入れ替わっていく。
なんか、ドライすぎる話だけれど、
目的が明確で、競争を勝ち抜かないといけない組織って
現実的にはそうなってしまうのかな、とか思う。

でも、病院という組織は、競争に勝つことを求められてるわけじゃない。
そこにあって、一定の機能を果たすことを求められている。
だから、一定の機能を達成したら、8割の人は「2割に入れ」と言われない。
全体として機能していれば認められる世界。
でもだからこそ、8割の扱いは組織の形を決めてしまう。
扱いというより8割の認識というべきか。

古い公的な病院で厄介な患者さんを入院させると
看護師さんに嫌な顔をされるなんて珍しい話じゃない。
古い権威?のある病院ほど、年配の8割の人が幅を利かせてる。
「2割に入る」ことを強要される組織も大変だけど、
8割を「いるだけでいいよ」とやる組織は、
長く続くほど8割の価値観がエスカレートして
「ただいるだけ」で結構な給料がもらえるとか、
むしろ「働くと損」だとか、おかしな価値観が主流になりかねない。
これまでは国に守られていたからそれでも持ったけど、
もうそういうわけにはいかないから公的病院が崩壊してる。
本来組織は「大きくなる」か、「質が高くなる」か、
どちらかの選択肢しかないはず。
特に今みたいな変動期だか衰退期だかわからない時代に、
現状維持を選択した時点で負けが決まる。
8割に現状維持や現状衰退路線を歩まれたら
組織が崩壊するのは当然といえば当然。

で、医局の話。
先日こんなご時世にも崩壊して無い医局を見る機会があった。
そこはたぶん教授のマネージメントがすごいんだと思う。
組織が動いているから、衰退していない。
前から、高校野球の名門クラブの監督みたいな
教授がいればいいのにって思ってて、
そこの教授はそれに近い人なのかもしれない。
高校野球の名門クラブって、レギュラーを頂点に
ヒエラルキーがはっきりあるのに、集団力を発揮してる。
レギュラーしか試合に出れなくて、
甲子園の切符を持ってくる彼らがスターなんだけど、
すごい監督は、そこに入れない人たちに「支え役」として
一緒に活動する「価値」をつくってやって
(野球のプレー以外で活躍する場を作って)
みんなが自尊心を保ちつつ、ピラミッドを崩さないことに成功してる。
レギュラーは憧れられつつ、残りの8割が生きた組織は強いと思う。

でも、たいていの医局はそうじゃない。
8割の扱い以前に、2割と8割の区別もつかないんじゃないかな。
2割を頼りながら、そこをきちんと評価しないから
逆風で負担がかかった2割だけがつぶれてしまう。
だから今の医局は、働く人だけいなくなって、
働かない人と新人だけってところが多いと思う。

もっというと、働く2割が働かない8割に馬鹿にされている。
本来たいした利益も無いのに働きまくる2割に必要なのは
頼られたり、すごいと思われることなのに。
今の医局は、甲子園の切符をもってくるレギュラーが
控えの選手に「あんなに頑張って馬鹿じゃないのか」といわれてるようなもの。
医療全体がなんかお先真っ暗になって、
先頭切る人がしらっと見られるような風潮がある。
だからこそ、医局を衰退させないためには教授の力量が問われる。
組織が前に進んでいたら、その原動力となる人が一目置かれるのは当然。
2割をちゃんと評価して機能させようと思ったら、
「ありがとう。期待してるよ」と声をかけるんじゃなくて、
組織を前進させることだと思う。

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2008.07.27 14:45 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

道徳は「使い方」まで教えるべき

 うつの女性を診察していると、

「うちの子の相談にのってください」

といわれることがときどきある。

子どもが病気だとかなら苦にならないんだけど、

子どもが不登校で、それは学校の先生が悪くて!とか

なってくると、途方にくれてしまう。

 

本当に先生が悪いなら、解決は簡単。

生徒の父兄が徒党を組んで教育委員会を叩けば、たぶん父兄側が勝つ。

でもこの女性がいいたいことは別。

「先生なのに、先生らしくうちの子を守ってくれない」という訴え。

聞くと、不真面目な子を怒らずに、まじめに頑張っているうちの子を守らない。

まじめにやるほど疎外されているのに、配慮してくれない!という話。

僕の患者の女性はすっかり学校と戦闘状態にはいっていて、

子どもが板ばさみになって可哀想だった。

 

この女性と話していると、「学校の先生はまじめな子こそ守るべき」という。

「先生らしくしてくれない担任」「うちの子は正しいことをしてるのに」

そういう話を平気でする。この女性を壊さないように、

それでいて、世の不条理を教えていくのはとっても大変だ。

 

道徳的な正しさというのは、子ども時代に教えるべきだと思う。

なぜなら、そういう「正しさ」のベースを子ども時代に創っておかないと

人を信じなくなるし、人から信じられなくなる。

端的に日本の集団で生きていくうえですごく不利。

だから、道徳的な正しさを教えることはすばらしいことなんだけど、

世の中はずるいやつしか生き残っていけないこともまた真実。

 

今大人で、社会生活をしている人はみんな思うだろうけど、

世の中は正しいやつが勝つんじゃなくて、勝ったやつが正しい。

だから勝つためにはあらゆる不正が、ずるが、許される。

甘い汁をすうやつがいて、おこぼれにあずかるやつがいて、

報われない人がいる。

それが世の中の通常の姿であることは間違いない。

子育ては、こういう社会にぶち込んで自立させるのがゴールなんだから、

「先生が正しさを認めてくれない!」という訴えは、

親の気持ちとしては十分わかるけど、両手をあげて賛成はできない。

 

ものの本を読むと時々、

「世の中には裏があるのは当たり前だから

小さい頃から裏をかくさずに教えたほうがいい」とか書いてあるけど、

ゴールがそうだから小さいころから慣らしましょうというのは間違い。

それは被虐待児の生活。大人の汚いところを満遍なく見せられた子たちは、

「ふつう」を獲得するために何年もの苦労を重ねる。

 

そうじゃなくて、たしかに僕らの社会は半分腐ってるけど、

建前の奇麗事もまだのこっている世界。

そんな世界を一人で渡っていくのは大変だから、

自分の信じる仲間を