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2008.10.12 23:01 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

八つ当たり殺人を裁くこと

土浦の事件の犯人が、秋葉原の事件の犯人に対して、

「あれはただの八つ当たりだ」とかいっているのを見て、

お前がいうな(お前も同じだろ)と思う今日この頃。

八つ当たりだ!という表現の正しさを認めつつも

その余裕に満ちたコメントに納得いかない。

 

彼に対する死刑論議は僕の手に余るのでわからないけれども、

一方的な理屈で無関係な人を殺した犯人を、

法の中で個人として尊重し、個人としてさばくのってなんか変だと思う。

(裁くというのは、その個を認めることだと感じる)

個人として裁く前にやることがある気がする。

 

法曹界やマスコミは人権人権いうけれども、

まもるべきは個人の人権ではなく

日本の社会の一員としての個人の人権のはず。

本来個というのは、社会の歯車であることと

コインの表と裏の関係にあるはずなのに、

なぜ歯車としての側面を無視した犯人を個としてだけ扱うんだろう。

 

この犯人は社会の一員として罪を内在化してないように見える。

自分の中に罪を飲み込まない彼らを個人として扱っては、

どういう判決があっても逆に社会が踏みにじられる。

ちゃんと社会の一員としてあげないといけないと思う。

刑務所の中で、殺人者のコミュの中で、

殺人者同士とことん集団生活を全うしてもらって、

人と向き合うことを教えないと。

そこではたぶん最悪レベルで劣悪なコミュで

悲惨な現実がまっているんだろうけど、

八つ当たりで人を殺した彼らが所属できるコミュは

そこにしかないから仕方がない。

そこで働いて食って寝て、危険と隣あわせだけど頑張る生活。

一般社会と同じように、稼ぎが悪ければ食えないし、

ちゃんと弱肉強食が機能する社会での生活。

それを経たうえで裁かれるべきだと思うのだが・・・・

          

だって僕らはそういう世界で生きて、

みんなでそういう世界を作っているんから。そこの論理で裁くならば、

その一員になってもらわないと。

 

昔は社会という言葉に重みがあったから

犯人は生活していた元の社会を引きずりながら裁かれた。

だからこそ個人として償うことに意味があったと思うんだけど、

今は社会の規範、形そのものが崩れてきているので、

裁く場においてもその視点をいれたほうがいい気がする。 

                

自分がやったことの意味を知る。

それは人として生きる上で真っ当なあり方ではないか。

犯罪を犯すことで社会を超越したとかいう人を

個人として扱っていいのか?

社会を超越した先には、さらなる社会が待っているべきなのでは?

そんなことを考えながらニュースを見てた。

             

 

今回は専門外の話なので、僕の考えは間違っているのかもしれない。

あんまりおかしければ削除しますので教えてください。

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コメント一覧

はじめまして!
先生のお話をいつも勉強させていただいています。
私は都内在住の自営業者です。

実は先生の今回の記事の
土浦や秋葉原の事件についてなんですが
私は全く同感なのですが
偶然辿りついたあるブログが
大変ショックでしたので
ぜひとも先生に読んでいただいて
もしよろしければ
ご意見をきかせていただきませんでしょうか?

http://kyomutotomoni.cocolog-wbs.com/blog/cat7783566/index.html

こちらを下にスクロールするとあの事件に関する
記事が出てきます。

あ!無理にというわけではありませんので
誤解なさいませんようお願い申し上げます。

また来ます!ありがとうございました。
written by ユーモレスク / 2008.10.17 09:59
ユーモレスク さま

返事が遅くなってすいません。
「まずは私に息をさせてみろよ」という思いには打たれるものがあります。まっすぐな人なんだと思います。もし僕の外来に来たならば、何とかしなければ、と思うと思います。
僕なりに思うことは、やはり「育てる」ということがあまりにも軽視されて、人を育てるというのがすごく狭い意味でしか捉えられなくなっているから、育ててもらえなかった人たちが、今を生きるのが辛くなってる現実があると思いました。

たしかに汚い世の中ですし、そこを生きる僕も汚れきっていますが、それを肯定するずるさや図太さがなければ生きられないのが現代です。だからこそ、まっすぐに!だけでは教育は駄目で、教師のいうことを聞くだけの生徒では駄目で、どこか「ため」を保持する教育であるべきだし、いろんなあり方を認めていくそれであるべきと思いました。

 一つの価値観しかもてない・そうとしか教育されなかった人は今の時代大変です。それはうそしか教えられなかったと同義ですから。学業至上主義に振れつつある今は、怖いな、患者が増えそうだな、と感じています。
ゆとりがいいというわけではないですが(理念だけはすばらしかった)。

 いやすこし違いますね。
ゆとりでも学問至上主義でもいいんです。
どうやったって、幅はつけようと思えばつけられるのですから。
問題は教育の大衆化、素人の専門領域への参入。
そのあたりにある気がします。
先を見通す目のない人が、短期的な成果をもとめて強権を振りかざす。
そういうのって、先のために今の悪さを認めるとか、
今は一見ひどく現象していても、先になると大きく成長する。
そのあたりはまったく評価されなくなって、
今・今・今の連続だから、結局将来のための幅がつけられない。清濁あわせ飲む幅が。

なんだか、本当にアメリカみたいだなと思います。
短期の成果を求めるあまり、経済を破綻させつつある現状がいい見本だといったら言い過ぎかもしれませんが。


written by なし / 2008.11.14 02:25

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