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2008.10.07 23:34 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

大相撲の訴訟に思うこと

八百●はあると思う。

みんな鉄板でそう思ってるはず。

ただ、八百長って、外から見たら「ずる」だけれど、

内から見たらずるというより「必要悪」というニュアンスかもしれない。

あれだけおおっぴらに、暗黙の了解で展開していたのだから、

組織の中である意味「(ずるだけど)仕方ないよね」とか

少なくとも「ありだよね(当たり前だよね)」という空気があったはず。

あれを力士たち個人の責任に矮小化したら、いったんは鎮静化しても

すぐに元の黙阿弥になると思う。

 

まず客観的に考えて、1年間にあんなにたくさんの回数

ガチで相撲とっていたら間違いなくあっという間に体は壊れる。

勝負をする主体(相撲取り)をメインにものを考えるなら、

今の半分の量でも興業は多い。多すぎる。

ガチの勝負って、相手を殺す勢いでやるわけだから、

勝っても負けても無事に土俵を下りる方がラッキーのはず。

 

今の興業の数が、当の力士からでるわけがない。

技が荒れる。技が崩れる。本当の全力勝負から遠ざかる。

その条件下でいい勝負をするのがプロというかもしれないけど、

その条件下でする勝負は、確実にレベルの頭打ちを招き、

その条件下なりのレベルに落ち着いてしまう。

 

もっというと、相撲取りはプロでそれで食べてるわけだから

そして引退したらつぶしがきかないわけだから

1年でも長く相撲を取りたいと思うのは当たり前のことだ。

いや、ガチが尊重される=つぶれてもいいからガチを通すことが

誇りとされる世界なら、本物が評価される世の中なら

それはまた違うのかもしれない。

男なら馬鹿を通してもそれでいいかと思える。

すくなくとも若いうちはそう思える。

 

でも、場を仕切っているのは、プロの名のもとに

勝負をする人じゃなくて、勝負の周辺で食べる人。

金に換算してものごとを測る人。

その人たちはものごとを一般受けするように形をつくることが上手。

それはみんなにとって良いことだけれども

一般受けするほどに、専門性というか、プロの凄みというか、

「勝負」のレベルは落ちる。体裁を整えようと思ったら、八百長。

もっというと、金で測る人が仕切る以上、

ガチで潰れていく人は一顧だにされないはず。

だから僕は、悪いことだとわかるけど、

八百長をあまり責める気になれない。

責めることは天に唾するようなもので自分にかえってくるから。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

で、裁判の問題。

裁判はいいんだけど、それを上から裁いて改善を促すって悪手だと思う。

本当はシステムの問題。

プロなのに、まじめにやったら早く怪我して路頭に迷うようなシステムの問題。

上から裁いても一時は良くてもその歪みは必ず別の形で出てくる。

こんな話をここで書くのは、患者さんの問題も同じだと思うから。

 

表面上、ヤオみたいに世の中から責められるような行動だって、

それがどんなに社会的にまずいものだったとしても、

それが形になってくるにはそうなる構造があるはず。

上から「そんなのだめだ」と罰したら、速攻で一見まともに変わるけど、

それは必ず歪みを助長させて、歪みを抑えてさらに歪ませることになる。

それが病というものを形成させるプロセス。

 

だから、八百長訴訟を見ていて、

糾弾する訴訟をする暇があったら(相撲協会がね)、

勝負をメインに据えた構造を作ればいいのにと思う。

病んだ人がいたなら、上から病みを云々するより(それは責めることにつながる)

少しでも病まずにいられる状況を、構造をつくればいいのに。

 

結局力士じゃなくて、力士で食ってる人が多すぎるんだと思う。

力士に正々堂々勝負すべきといいつつ、それをこじらせている

力士以外のメンバーが多すぎる。

力士が主役の舞台に脇役のはずの人がしゃしゃり出すぎ。

だから勝負を問いながら、出る結論は

決して勝負をまともに発展させるものにならない。

力士の勝負を金に換えるというのは、社会的には発展だけど、

発展するほど相撲の原点から離れて、

離れるほどに本質は失われるという例。

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