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2008.10.04 00:45 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

頑張っているのに評価されない

やっと地獄のような忙しさから抜けることができた。

いや勝手に忙しがっている悪循環から抜けた。

どうも悪い癖なんだけど、僕は勝手に自分で仕事をつくる癖がある。

別に頼まれているわけでもないのに、

勝手に人の気持ちを推測して、あれもこれも

「自分がやらなきゃ」とか引き受けてどつぼにはまってしまう。

 

どつぼにはまっているときにどうしても出てくる言葉が

「頑張ってるのに評価されない」だ。

 

「こんなに頑張っているのに評価されない!」

と言ってやってくる患者さんがたくさんいる。

いやもちろん、病気がひどいときはそんなこといえない。

何がきついのかわかんないくらいきつくなるのが病気だから。

でもうまく山を越えることが出来て社会で頑張るとき、

もしくは病気一歩手前で社会で踏ん張っているとき、

頑張るほどに「評価されない」という現実にぶつかる。

 

障害児学級の先生がいう。

「こんなに子どものことを考えて動いているのに親が文句ばかり言う」

「学校にどこまでも期待するくせに、文句ばかりで自分は動かない」

会社の課長さんがいう。

「こんな過酷な現場なのに、上司はわかってない」

「丸投げしておいて、成果が出ないと私だけが責められるなんて!」

世の中、評価されないことだらけだ。

 

僕だって中間管理職になって、

本来の医療職以外の部分で山ほど仕事をかかえて

身銭を切って睡眠時間を削って西に東に奔走するけど、

そういう部分って一切評価されない。

しんどくなって本職のほうも上手くいかない。

やりたい医療からも少し遠くなって、嫌になっちゃう。

 

だから、現場を理解しない理不尽な要求のひどさは良くわかる。

世の中いろんな組織・・学校にせよ病院にせよ会社にせよ、

そういうものが「ある」のが当たり前になっているから

「その現場を支える人」が支えることは「当たり前」。

そこは評価されずに無茶な要求を上乗せして平気で「支える人」を消費する。

消費した人がつぶれてしまわないとそのありがたみがわからない。

でも現場の僕らは「つぶれて見返す」なんて悲しいやり方をしたくはないから、

ただうらめしく「消費する人たち」を見つめるんだけど。

 

・・・たぶん、おそらく、いやだからこそ、理不尽な要求を

理不尽と考えてはいけないのだと思う。

それを理不尽と捉えてしまうと、自分が潰されてしまう。

理不尽と捉えてしまうと、それと対極の「自分の思う正しさ」を

選んでしまいたくなるから。

学校の先生や僕からいうと「専門家としての正しさ」を

選んでしまいたくなるから。

 

学校の先生達は、親御さんたちからの

「あーしてほしい」「こーしてほしい」・・・・にとどまらない

「何故子ども同士のトラブルをちゃんと管理できなかったのか」

「(乱暴な)子どもが(やさしくてかよわい)他の子どもを叩いて

怪我させた責任は学校にある」とかそういった要求を受けている。

もちろん、起きてしまった事故を責めたい親御さんの気持ちはわかるにせよ、

先生達の自分が現場にたってみろよ、それが本当に可能かどうかわかるから!

といいたくなる気持ちのほうもわかる。

もっというなら、学校みたいに「守られた環境」なんて

社会にでたらあるわけない。子どもの将来を考えたら

社会の縮図として状況を設定して多少の毒は子どもに食わせていかないといけない。

視野の狭い親の求めるままに「管理」された「きれいな」状況ばかりを求めては

子どもの将来を考えたらマイナスにしかならない。

ふつうに教育を長くやったら、そういうスパンの見方が出来るから

親の度外れた管理要求は、「専門家の正しさ」からすると「間違い」。

でも、責められるほうの立場に立ってみても、いや立つほどに、

それを理不尽と考えてはいけないと思う。

親がおかしい!と思ってはいけない。

「そういうものだ」と考えて流されないと、

納得のいかない気持ちは自分を蝕んでしまう。

 

僕も現状について愚痴を吐いて、誰かのせいにして、

いらいらして荒れてみてわかることはやっぱり僕が間違っているということ。

なぜなら、僕も納得のいかない気持ちのままに無理をして

うつっぽくなってしまったから。



 

結局行き着く答えは現実と向き合うことだと思う。

自分の気持ちが強すぎて、自分の欲しい物を求めるほど

現実を生きることがきつくなってしまう。

いい医療とか、理想とか、そういったものを求めるのは自分の欲だ。

自分のそういう欲を大事にして、きれいでいようとすると

実は他人にしわ寄せが行くし、自分の首を絞める。

現場を理解してもらえない現実にぶつかったとき、

自分が磨耗してしまって、前向きに頑張れなくなってしまう。

ココロが動くのを嫌がるようになってしまう。

 

だから学校の先生達も、子どもの将来を考えて「専門家らしく」振舞うより、

クレームをつけてくる親を黙らせる対処を大事にすべきなんだろう。

(あえてクレームという言葉をつかうけど)

そうやって、学校という場を壊す理不尽な要求から自分達を守る。

守って、守る流れの中から、そのなかで出来る

子ども達の教育というものを考えるべきなんだろう。

(バトルというのは防御から入るのが鉄則!)

「専門家として」どんなにおかしい要求であっても、

現場で「専門的な正しさ」を追求してはいけない。

自分というものをどっかに棚上げして、

自分の求められている役回り、自分が「どういう歯車なのか」

という問題と向き合うべき。でないと行き詰ってしまう。

 

そうすれば、クレームはクレームでなくなり、

現場を無視した無茶な要求は、現場を壊さなくなる。

と思う(思いたい)。

 

僕の好きなカントの言葉に「自由とは必然性の洞察である」というのがある。

ここ数年、自分なりにその言葉の重さを実感してる。

社会の中の歯車である以上、どう己を由として廻るか、

それは自分の中の事情は関係なくて、自分の外の事情が大切なんだと思う。

自分の身の回りにある必然性の洞察。

身の回りにある「仕組み」をどういう深さでわかるか。

それを深く自分の中に取り込むほど、自由になれるんだと思う。



 

だから、思う。

「頑張っているのに評価されない」という思いは

自分の思う正しさに依存している。

自分の正しさは、たぶん正しいんだろうと思うけど、

世の中が正しいと思ってくれないことが往々にしてある。

だから世の中の正しさで、自分を修正していかないといけないんだろう。

専門家の視点からすれば、どんなにおかしいと思っても

その「専門」という概念が変わりつつあるのが今だから、

自分を曲げることがかえって不誠実と思える場面でも

自分を曲げて、できる範囲で誠実に対処すればいいんだと思う。

だって僕らはいつも患者さんに「真面目すぎるとよくないよ」とか言ってるわけだし。

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