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< 昔、研修してて思ったこと | メイン | 子どものうつは増えているか? >
2008.07.18 08:17 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

仕事の最大の敵

それはたぶん、飽きるということだと思う。

同じことの繰り返しを楽しめなくなったら、

それは医者にとっても患者にとっても不幸なことだと思う。

             

僕らにとって、妄想や自殺未遂は日常の出来事だ。毎日診てる。      

医者がまじめに10数年、たくさんの患者さんにまみれて仕事をしたら

それに対する自分なりの方法論、構造論みたいなものが出来ると思う。

自分の中の構造論が形になってきたときって、

すごく実力がついた気がして嬉しいものなんだけど、

それが自分の首を絞めることに気がつくのは、すこしあとになる。

 

自分なりの方法論を持つってことは、

要は患者さんを診察してて、いろいろな訴えを聞きながら

この人の解決すべき問題は何か、何から手をつけるべきなのか、

それがすぐにわかる(答えが出せる)ようになるということ。

どんなおかしな質問が来ても、診察室の中ならすぐに答えが出せる。

そして打率7割以上が確実にキープできるようになる。

 

でも一度出来た「自分の形」って、

自分が苦労して獲得した理屈って、

それを否定することがすごく難しい

みんな一目おいてくれるし、自分でもそれがプライドになっているから。

でも、どんなすごいやり方だって、

何にでも当てはまる方法ってのはない。

抽象度が高すぎて何も言っていないことに等しいから。

だから、自分のつくった方法論はそれが実用的であるほど

上手く機能しない状況に必ずめぐり合う。

でも苦労して獲得したやり方を変えるってことは感情的にすごく難しい。

   

たまに「あんたの治療は私にあわない!」とか怒りをぶつけられる。

僕の場合は相手のケースワークを性急にすすめすぎたりするとある。

患者さんの怒りを受け止めたり受け流したりするのは難しいことじゃない。

でもその出来事をきっかけに自分を修正することは結構難しい。

それは、自分を真っ向から否定する人に対して、

人として興味を持つ必要があるから。

罵倒してくる人の立場にたって、学び始めた原点に戻って、

たしかに俺は馬鹿だよなとか思わないといけないから。

 

ちょっと前。ブログを始める前。忙しくて自分に余裕がないころ、

こういう患者さんがすごく嫌で、嫌なことをおくびにも出さず

上手に処理してた時期があった(問題を処理することって簡単だから)

そのころはすごく仕事が退屈だった。

客観的には自分の限界量近い患者さんを捌いて、適切に指示は出してた。

忙しいのに退屈というのも変な話だけど、

たぶん、忙しすぎて「人」に興味を持つ余裕がなかったんだと思う。

病名と状況を相手に仕事をしてた。

それは医者として間違ってない働き方で、

能力が上がったから出来るやり方だったけど、たぶん、僕の偉くなった先輩達もこの流れに乗っかって、

仕事に飽きていったんだと思う。

          

ある程度力がついたから、すごく快適に仕事が出来る。

患者を診るときに「人」に興味を持つというプロセスは、

めんどくさくて苦痛を伴うぶん自分の中から消せる。

消しても働ける。だから忙しくて退屈になる。

でもそれをやると昔はあったはずの中身がすかすかになってしまう。

 

どうせ忙しいんなら、忙しくて面白く、がいい。

仕事の面白さは、「わからないことがわかる」

「難しい仕事が出来るようになる」ということに尽きると思う。

それがないと毎日同じことの繰り返しが楽しめない。

でもそれには学び始めたころのように、「患者さんに教えてもらう」

そういうスタンスをどこかに持ってないといけないんだと思う。

              

なんにせよ「人に興味を持つ」という学びの原点から離れると駄目だ。

原点から離れても仕事が出来るのは力がついたからだけど、

原点から離れると、ついたはずの力もいつか消えてしまうと思う

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 先日知人とメールのやりとりして気づいたのですが、メールにせよ電話にせよ顔がみえないって怖いこともあれば安心できることもありますよね。小生は99%前者ですが。例外的にけんかしたあとなどは後者です。電話で話したあと、電話の相手と会うと「電話ではぶっきらぼうでこわいねえ」と言われることがあります。こちらは顔が見えないので緊張してしまい、そんな印象を与える話し方になっているのだろうと思います。仕事も人間関係も人を人としてみる、接することからはじまりますよね。小生は放射線科の画像診断専門医なので毎日CTやらMRIやら胸部単純写真やらマンモグラフィやらをみて読影して診断するという人間と接しない仕事ばかりです。でも緊急を要する病変をみつけたときには、努めてその人間の苦痛を思い浮かべるよう心がけています。非常に難しいのですが。
 ネットで友人になったり、恋人になったり、いっしょに自殺したり犯罪を犯したりする人たちのことをききますが、彼ら彼女たちは人と顔をつきあわせてじかに接することができないのでしょうか。それともまずは顔をみずに話し出すほうが安心できて、その後気持ちが高まったら会う、というプロセスを経たほうがスムーズに対人関係を築くことができるのでしょうか。なんか騙されるような気がする小生にはなかなか理解しがたいことですが。
written by Paul Carpenter / 2008.07.18 09:27
Paul Carpenterさま
コメントありがとうございます。
たぶんそのあたりは、「違う」んだと思います。僕は、僕の前の世代の人のように深く思い入れたり、厳しい我慢が出来ません。そして今の若い世代の人は、僕らほど深く思い入れたり我慢したりが難しくなっているんだと思います。時代や社会の問題と人の心は切り離せないというのはよくいわれることですが、まさにそうだと思います。
たとえば精神疾患の軽症化の問題。僕が医局に入局したころには、「分裂病が軽症化してきてねえ」とかすでにいわれていましたが、今はさらにうつやらなにやらずべて「軽症化」しているといわれています。昔のシゾの興奮状態の人は、保護室をぶち壊して、看護師4人がかりでもどにもならないとか、××ぶつけられたり食ってたりとか、そういうのがふつうにありました。でも今はめったにというか、ぜんぜんそういうのを見ない。

これを早期介入が出来るようになったからとかいう人もいますが、たぶん、社会が、人が変わってきているんだと思います。精神病は「精神」というくらいだから、高度な精神というか、高度に社会化を求められないと「なれない」んだと思います。それが求められなくなっている今、僕ら自身もまた時代似合わせて変質してきているんんじゃないかと。
やや脱線しましたが、コメントいただいてそんなことを考えました。

僕らは人とあって話して感じる「手ごたえ」というものがあると感じていますが、たぶん、そういうのがないと感じる人にはネットの方がずっとリアルに近いのかもと思います。
written by なし / 2008.07.20 15:47

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