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2008.07.16 21:10 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

昔、研修してて思ったこと

すいません。

ここで再開します。

自分を語るほど蟻地獄にはまるので、

生暖かく見守っていただけると幸いです。

↓本編です。

 

僕が精神科に入局したときに凄く困ったことの一つに、

認識の正常値を誰も教えてくれなかったということがある。

 

もともと外科志望で、「どこから先が生命の危機」で、

そこを凌いで「患者さんをどこまで持っていけばいいのか」、

医療ってそういう明確なラインがあるものだと思ってた。

精神科にきて面食らったのは、そんなラインを誰も考えてなくて、

認識の正常って何ですかと尋ねたら、馬鹿を見る目で見られた。

先輩はみんな、幻聴とか異常な状態しか知らなくて、

異常じゃなくなったら「それが正常」だって。

 

思えば、精神科の医療教育だけ正常からスタートしない。

ちょっぴり心理学っぽいものがあったけど、

印象に残っているのは、犬に電気を当てたらそのうち諦めるという話。

学習理論はわかるけど、「認識の正常値」には程遠いと思う。

内科とかの身体科は、体の正常な構造、正常な機能から講義が始まる。

そしてその「ゆがみ」として病が規定される。

身体科には正常の変化としての病気という概念が確立している。

そういうのはすごく美しい。

 

研修時代の僕は、異常を消すことを目的にして研修したけど、

一つの症状はなくなっても、また違った症状が出てきたり、

いったん退院した患者さんが、わずか1週間でまた入院してきたり、

そんな不毛ないたちごっこが「当たり前」といわれる現場が

すごくおかしなものに見えた。

もちろん、そんなふうに考える研修医の方が馬鹿にされたけど。

 

そんなこと考えて研修してたら医者っぽくない大先輩に、

「お前みたいな馬鹿が理屈で考えてわかるか」とか怒られて、

県北や県南の保健所を連れまわされることになった。

毎月、患者さんの家に上がりこんで生活ぶりを見るように指導された。

そのとき盛んに言われたのは、

「患者さんが100人いれば、100とおりの生活がある。

お前は病気は正常の歪みのはずとか偉そうなことをいうけど、

100通りの生活が描けなければ、こころの正常なんてわからん」という言葉。

当時は患者さんの家を見て経済状態くらいしかよくわからなくて、

何を語られているのかさっぱりわからなかった。

もちろん、怒鳴られるのが怖いので「わかりました」とか言ってたけど。

 

でも、医者になって何年目くらいだったか。

ある患者さんの家族の話を聞かされる機会があって、

「鈴木(仮名)の家を守ることが一番大切ですから」

「この人には、ちゃんとしてもらわないと鈴木本家としての面目が立たない」

その言葉を聞いて、あ、先輩が言いたかったのはこのことか!

と体に電気が走ったような感覚があった。

その患者さんはうつ病の人だったんだけど、

会社でうつ病になって、休職してもなかなか改善しないでいた。

 

家族の常識って、実はみんな違ってて、悪い言い方をすれば「何でもあり」。

この患者さんは田舎のほうの名家の、本家の跡取り息子だった。

実家は分家の人たちの家に囲まれるように建っていて、

分家の人たちは本家の財産にやっかみ半分ながら、本家をたてていた。

婿養子のお父さんは、分家の人たちの手前、

跡取り息子に歯がゆくなって暴言はいたりして、

患者さん自身も、口には出さなかったけど、本家として!とか気張ってた。

「墓を守ることが、自分の結婚(一般的に世間で言われる幸せ)より大事」

そんな世界が今でもあるんだとわかって、

聞けば聞くほど、生活レベルで追い詰められている日常がわかってきて、

これじゃ治療が上手くいかないはずだと思った。

そしこここまで極端でなくても、どんな家族にも、

それぞれの「大切なものの優先順位」があって、そういう常識の中で

患者さん個人がどうしたかったのかを見ないと何もわからないんだと思った。

 

 

結局、人の認識が正常だとか正常でないとかは、

その人を取り巻く小集団の常識を抜きにしては語れないんだと思う。

僕のこころは、僕だけの認識じゃなくて、

僕と家族と職場の人や地域の人と、たぶん一緒になって作り上げたこころ。

その患者さんは「僕は駄目だから・・・・」が口癖だったけど、

周りが駄目だと認定するから駄目になる。

周りが駄目だと思うに違いないと本人が思うから駄目になる。

その人の周りに蓄積されたコミュの常識、その歴史をみないと

その人にとっての正常とその変化(病み)は見えない。

正常な認識って、その環境の中で自分の心が動かせることだと思うから

その環境の常識の中で、笑ったり泣いたり、頑張ったり、頑張らなかったり。

それが出来ることが健康で、マイナス方向に特化して

動けなくなっていく変化が病的になることだと思う。

            

だから、認識の正常値は、100人居たら100通りある。

個人の認識は個人の脳細胞の機能だけど、

認識ってそもそも集団活動のために生成・発展してきたものだから、

個人の問題として捉えると間違えてしまうと思う。 

その辺の深さをもっとわかりやすく語れるようになりたい。

 

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