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2008.07.29 21:24 |  仕事 / 職場  |  趣味  |  なし  | 推薦数 : 3

プロレスの「強さ」

漫画の飢狼伝22巻は久しぶりに面白かった。
プロレスは強いんだって、真正面から書いてた。
もともと夢枕獏の格闘小説が好きで、
たいてい買って読んでるんだけど、
飢狼伝なんて何巻だったか、
主人公にぼこぼこにされた新人レスラーが
仰向けにぶったおされて「強くなりてえなあ・・」とか
言ってるシーンとかひどく感動した。

僕が小学生から中学生のころ、
プロレスが爛熟期を迎えてて、
もうすでにそのとき猪木は神で、神を中心に世界が回っていて
藤波対長州とか、初代タイガーマスク対小林やダイナマイトキッドとか、
すごい面白いカードがたくさん組まれてた。
もちろん切れたハンセンは最高だった。
テレビの前でいつも興奮してみてた。
そのあと少しずつ下火になていったけど、
UWFとかの流れも友達からビデオを借りて見てて、
新日と合流したころなんてかっこよかった。
UWFの連中は平気で顔面けりまくるけど、
それを真っ向から受け止めてやる藤波や越中をみて
超絶に感動した覚えがある。

強い攻撃を強い部位で受けることで「強さ」を見せる
プロレスは、かっこよかった。
ロードウオリアーズなんてドロップキックを
胸板に受けてよろりともしない。鬼のように強く見えた。
今じゃプロレスが強いなんてファンタジーって言われる。
そりゃそうで、強い攻撃を弱いところに叩き込んで
「勝敗」を見せる競技的なものに勝負で勝てるはずない。
今のプライドとかK-1とか、そういうのがどれだけガチなのか
よくわからないけど、あれが競技である以上、
プロレスは勝てない。言い尽くされてることだろうけど。

UWFの頃から思ってたんだけど、
競技的な面が入ってくると、たぶん、すごいんだろうけど、
それがどれくらい凄いことなのかよくわからなくなる。
藤波の凄さは、あの長州の痛めつけっぷりをしのいだり、
前田にボコボコにされても血だらけで立ち上がるからわかる。
血だらけでふらふら立ってるシーンが「凄さ」を伝える。
でも、アキレス腱固めとか、アンクルホールドとか、
関節技の痛みってよくわからない。

プライドやK-1も、
みんな何を面白く感じているのかよくわからない。
素人には勝敗は見えても、その競技の真髄は見えないはずなのに。
僕はジャンボ鶴田のバックドロップには感動できるけど、
K-1とかの、おそらくは繰り広げられてるだろう駆け引きは
よくわからないから、結果だけでカタルシスがない。

そう思って、ふと自分を振り返ってみると、
だからテレビドラマって、そういうつくりになってるんだと思った。
強い攻撃を強い部位で受けて「強さ」を見せる。
いきなり精神科医がトラウマの原因を解明するため探偵の真似事をしたり、
自殺未遂の患者を体を張って助けたり(未遂寸前まで家の外で待機してたのかな)。
ありえねーとか思うけど、そうじゃないと強さが見えないものね。
精神科医の仕事って地味だし。
診察室の中の間近で見ている家族にさえ、
「支持的精神療法固め」の強度は伝わりにくいし。
やっぱり自宅まで駆けつけて、体を張って見せないと
すごいって思ってもらえないかな。

くだらなくてすいません。

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2008.07.27 14:45 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

道徳は「使い方」まで教えるべき

 うつの女性を診察していると、

「うちの子の相談にのってください」

といわれることがときどきある。

子どもが病気だとかなら苦にならないんだけど、

子どもが不登校で、それは学校の先生が悪くて!とか

なってくると、途方にくれてしまう。

 

本当に先生が悪いなら、解決は簡単。

生徒の父兄が徒党を組んで教育委員会を叩けば、たぶん父兄側が勝つ。

でもこの女性がいいたいことは別。

「先生なのに、先生らしくうちの子を守ってくれない」という訴え。

聞くと、不真面目な子を怒らずに、まじめに頑張っているうちの子を守らない。

まじめにやるほど疎外されているのに、配慮してくれない!という話。

僕の患者の女性はすっかり学校と戦闘状態にはいっていて、

子どもが板ばさみになって可哀想だった。

 

この女性と話していると、「学校の先生はまじめな子こそ守るべき」という。

「先生らしくしてくれない担任」「うちの子は正しいことをしてるのに」

そういう話を平気でする。この女性を壊さないように、

それでいて、世の不条理を教えていくのはとっても大変だ。

 

道徳的な正しさというのは、子ども時代に教えるべきだと思う。

なぜなら、そういう「正しさ」のベースを子ども時代に創っておかないと

人を信じなくなるし、人から信じられなくなる。

端的に日本の集団で生きていくうえですごく不利。

だから、道徳的な正しさを教えることはすばらしいことなんだけど、

世の中はずるいやつしか生き残っていけないこともまた真実。

 

今大人で、社会生活をしている人はみんな思うだろうけど、

世の中は正しいやつが勝つんじゃなくて、勝ったやつが正しい。

だから勝つためにはあらゆる不正が、ずるが、許される。

甘い汁をすうやつがいて、おこぼれにあずかるやつがいて、

報われない人がいる。

それが世の中の通常の姿であることは間違いない。

子育ては、こういう社会にぶち込んで自立させるのがゴールなんだから、

「先生が正しさを認めてくれない!」という訴えは、

親の気持ちとしては十分わかるけど、両手をあげて賛成はできない。

 

ものの本を読むと時々、

「世の中には裏があるのは当たり前だから

小さい頃から裏をかくさずに教えたほうがいい」とか書いてあるけど、

ゴールがそうだから小さいころから慣らしましょうというのは間違い。

それは被虐待児の生活。大人の汚いところを満遍なく見せられた子たちは、

「ふつう」を獲得するために何年もの苦労を重ねる。

 

そうじゃなくて、たしかに僕らの社会は半分腐ってるけど、

建前の奇麗事もまだのこっている世界。

そんな世界を一人で渡っていくのは大変だから、

自分の信じる仲間を作って、仲間と一緒に

だましだまされの世界を渡って行けるようにしてあげたい。

だからこそ、「人をだましちゃいけない」とか、

「人にやさしくしなくちゃいけない」

「人のものをとってはいけない」

と教えなきゃいけない。教えて、それを十分自分のものにしてあげて、

その上で子どもは「それはそれ、これはこれ」

「心に棚を作れ!」とか使い分けられるようになっていってほしい。

 

だから道徳は必要。

その女性は、間違ったことを言ってるわけじゃない。

ただ使いこなせてないだけ。

不登校を子どもの問題って捉えていたけど、

本当は彼女自身が正論を「汚い世の中」で使いこなせないでいる。

本当は先生に合わせるなり、逆に表面上合わせて裏で親の組織をつくるなり、

上手に「汚い世の中」に合わせて自分の正しさを使いこなすべき。

こういうケースを見ると、昔の僕は

「正しいことばかり教えちゃ駄目だ」

「もっとずるく生きれるように教えよう」とか思っていたけど、

今は、患者さんの思う正しさを無理に崩そうとはしないで、

「正しさの使い方」を教えたいなと思う。

使えば使うほど、「正しさ」って上手に使えるようになるから。

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2008.07.27 01:41 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

傷つけないとわからない馬鹿

後ろめたさは必要って書いた。

もうちょっとここを書きたい。

僕は人の気持ちなんて全然わからない超体育会系の人だけど、

医学部卒業したころに比べたら、一応成長はしてる。

知識的に精神医療が出来るようになったというのは当然だけど、

感情レベルで、すこしだけ患者さんの思いに寄り添えるようになってる。

前回エントリを書きながら思い出したことだけど、

たぶん、僕の能力がすこしだけ上がったのは、

自分とって一番というレベルで大切な人を

さんざん傷つけてきたからだと思う

ひどい仕打ちをして、泣かせて、

でもそのときはざまあ見ろとか思ってて、

それがひどいことだったことにあとから気がついて

気がついたときには手遅れで耐えるしかない・・・・

そういう状況を何度か経験したからという気がする。

 

僕は一度結婚に失敗してるんだけど、

離婚するときは本当にほっとした。

やっとこの地獄から逃れられるとか、平気で思ってて、

自由を満喫してたくさん遊んだ。

離婚して半年たったころか、

尊敬する先輩にもめてる患者さんのことを相談に行ったら

(この患者はクレーマーだ!みたいな勢いで行ったら)

「お前はこの患者の言葉を聴いて気持ちを見てない。

お前が上手くいかなかった○○さんもそうだっただろ。

言葉を聴いて、言葉を真に受けるだけで、

それを言わせる気持ちを見れないから、彼女を傷つけたんだろ」

とか指導を受けてしまった。

 

これはがーーーーんときた。

不覚にも涙を流してしまった。めったに泣かないのに。

彼女と過ごした楽しかったことを思い出しつつ、

そういや後半の生活では気持ちがわからなくなっていたことを思い出して、

あの憎まれ口が僕に振り向いてほしいというアピールだったと考えたなら、

あの意味のわからない失踪も、僕のことを好きだからこじれたんだと思うなら

僕の行動はまったく的をはずし、僕が動くほどに関係は悪化していた。

僕は彼女が不安を抱いていることにまったく関心がなかった。

僕は僕なりに出来ることをろうとしていた。

彼女の思いに寄り添って、彼女が求めることをするわけじゃなかった。

そう思えば、患者さんに対する対応と同じことだ。

僕の出来ることを頑張ろうとして、「そうじゃない」という患者さん。

相手のニーズに寄り添えずにいて、患者さんとも離婚が近い。

僕なりに出来ることじゃなくて、

女のために出来ることをすべきだった。

そういうアタマじゃないから、患者の話がわからない。

僕は彼女をひどい身勝手なやつだと決め付けていたけど、

同じように患者さんをクレーマーだと決め付けてた。

その辺を先輩が教えてくれたんだろうと思う。

ひどい先輩だから、いきなり油断しているところを切りつけてきて

ざっくり出血したんだけど。

 

どこまでも自分勝手な僕のような凡人は、

本当に痛い目にあわないと、人の心に向き合えるようになれない。

もっとこうしてあげればよかった。

もっとやさしくしてやればよかった。

何故僕はあのとき何もわかってなかったのか。

昔もらった手紙を読み直したりしてしくしく泣いたり。

そうやって自分のせいでひどく傷ついた人の気持ちを悶々と考える。

でもそのおかげで言葉じゃなくて、言葉の奥にある

アタマやココロを見ようとする癖がついた。

みんな本当は無理してんじゃないのか?

その言葉は無理して話してんじゃないのか?

それが僕が人に踏み込んでいく原点。

時々言葉の使い方が精神科医の命だ!とかいう人がいるけど、

僕はそれは違うと思う。言葉は枝葉。

枝葉から本流に向かうことの大切さを否定する気はないけど、

やっぱり言葉の背後にある認識をどう捉えるかが大切だと思う。

 

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2008.07.25 21:01 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

後ろめたさも必要

僕は今でも大学にちょっとだけ関わってるんだけど、

その動機は「後ろめたさ」というのがメインだ。

大学に夢も希望もなくなって民間に出たんだけど、

地方の大学って、県に総合病院精神科とかほとんどなくって、

なんかごちゃっとしたややこしい患者はたいてい大学に投げられるから、

そういう最後の砦みたいなところを逃げ出した後ろめたさは今もある。

働かない看護(働く人も一部いたけど)と、意味不明のシステムと、

山ほどの書類と、毎週まわってくる何とか委員会とか、

よくわからない研修医の面倒とか、改革案に動かない教授とか。

事務部からは精神科は稼ぎが少ないからと小言を言われ、

働かない講師陣(上司)に、一部の、

しかしすごく大きな影響をふるう非常識な部下。

彼らの尻拭いをしつつ患者のクレームは全て処理しないといけなくて、

外来日には60名の患者をさばかないと廻らない。

上司は10人ちょっと診たら「疲れたー」とかいって医局に帰る。

もともと我慢がきかない性格なのに、中間管理職でよくもったなと思う。

いや、もたなかったか。最後は薬を処方してもらっていたし。

 

で、なにが書きたいかというと、

この「逃げ出した後ろめたさ」というやつは、

今の僕にとって、決してマイナスばかりじゃないってこと。

二度と医局に戻る気はないけど、僕がやめたあと、堰を切ったように

指導医が逃散して、医局が崩壊してる。

自分のせいで迷惑が掛かっている人間のことを思う。

やめるときは「仕方ない」と切り捨てられたけど、

時間がたつと後ろめたくて何かしなくちゃと思ってしまう。

僕のすねには傷がある。だからすこし変われた。

まあ、大分時間がたって麻痺してきてるけど。

 

Paul Carpenterさんからコメントをいただいてすごく考えた。

ただ、Paul Carpenterさんの感じる後ろめたさは決して悪いばかりじゃないと思う。

後悔する・後ろめたさを抱えるというのは、

少なくとも子どもが好きで、愛着があって

すごく自分にとって大切なものが自分の思うように行かなくて

壊してしまいそうな自分がきついんだと思う。

 

前回のエントリで、自分に向き合えない人たちのことを書いた。

これは要するに、自分の行為を問題視する人がいたり、

それおかしいよと指摘されても、「そうか」と思えない人のこと。

いや、家とか友人といるときは、ちゃんと修正できる人なのかもしれないけど、

すくなくても、病院という職場で「おかしい」といわれても

「そうか」と思えない人。

ふつうは「そういうこともあるか」とどこかで思うのに。

彼らは自分の中で自己正当化の回路を強固に作っている。

後ろめたさを感じない人たち。

 

僕自身、大学病院時代にそうなった経験がある。

上記のようにいっぱいいっぱいの状態になって、

自分がすごく不幸で、すごく頑張っているのに報われないと思ってた。

患者を投げる民間の連中は「怠け者」とか思っていたし、

自分が一番仕事してるとか思ってた。

産科の先生方に比べれば、精神科なんて屁のようなものなのに、

自分が不遜な態度で他の科や他病院とけんかしても、

相手が悪いと本気で一方的に思ってた。 

でも今、民間に出て後ろめたさを感じながら働いてみて、

自分がすねに傷を持つ身だからこそ

やっと客観的に物が見れるようになってる。

いや、すねに傷があるからこそ、昔より後輩が思いやれる。

後ろめたさは必要だと思う。

自分の思い込みにブレーキをかけるために。

自分の中に自己正当化の回路を作らないために。

            

だから、グサグサと感じたPaul Carpenterさんは

後ろめたく感じてしまうんだろうけど、

それは「自分と向き合えない人たち」とは本質的に異なる。

その後ろめたさは、決して悪いばかりじゃないと思う。

最悪の展開を確実に止めている。

その後ろめたさは、自分の思い込みにブレーキを欠ける役割を担っていると思う。

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2008.07.21 15:50 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 5

自分と向き合えない人たち

面倒見てる・・・とまでいかなくても親交のある後輩と研修医が大変そう。

それぞれ別の問題で困っているんだけど、根が同じ問題。

 

後輩のほうは患者さん。

古い精神病院から急性期病棟のある病院にうつって、

「うつ病」として紹介された患者さんともめてるらしい。

自分は2ヶ月入院してるけど全然よくならない!その責任は主治医にあるので

土下座して謝るなり、入院費をただにするなりしてほしい!

とか診察室で恫喝されたらしい。

いかんせん後輩は僕の数倍頭がよく、数倍人がよいので

汚れ仕事の経験が薄い。だからすごく困ってへこんでた。

 

研修医のほうは指導医との関係。

大学では有名な「いじわる女医さん」についたらしく、

その日の気分でほっとかれるか、馬鹿呼ばわりされるか、するらしい。

女医さんの上司の指示で出した指示や書いたカルテまで

「この指示おかしいじゃない」「カルテ記載が学生レベル!」とか言われてる。

いやそれあなたの上司が・・・・とかいえる研修医ならいいんだけど。

僕は「その女医は馬鹿だからほっとけ」といってるんだけど、

まじめだから女医さんのいうこときいちゃって、

何時間も同じ文書を書き直させられてる(書き直したほうが駄文)。

で、目の下のくまがとれない。

 

彼らは、世の中には自分のやったことから目をそむけて

人に責任転嫁しながら生きている人がいることを知らなさすぎる。

誰かが自分の咎を引き受けてくれないと、

自分が苦しくなるから、絶対に自分では受けない人はいるんだよ。

だから、まじめに「わかってもらおう」という姿勢は最悪の結果を招く。

 

わかりやすく言えば、いじめの構造がそう。

いじめるほうが絶対悪いはずなのに、

なぜかいじめられるほうが「悪い」ってなっちゃう。

それはその世界が2人とか3人の少数で閉じてしまって、

世の中の人の視線がとどかなくなるから。

 

だから、いってやったんだけど、

目の下にくまつくって、ねむれなくなって、ボロボロにされるくらいなら、

後輩には、診察室に事務長を入れろ、研修医には医局長に入ってもらえと。

研修医に関しては詳しく聞いたら、本当におかしな医者なので、

頭にきたので研修委員会とかにまじでお願いして、

適切な指導をするようにしてもらえ。無理なら休めと。

勉強なるどころか、病気になるぞと。

 

いや、後輩や研修医が悪かったり、勉強になるならべつにいいんだけど、

こんな苦労は意味がないだけじゃなく、相手に利用されているだけ。

長年やってると、「診察室で土下座させられた若手」の話をよく聞くけど、

土下座させられているのは例外なく気が弱くてまじめなやつ。

そして、医療ミスじゃなくて、「治してもらえなかった」とかいう理由。

土下座させた患者はその後も平気で通院してたり。

「気が済みましたから先生も頑張って診察してください」だって。

そんな人、一生治るわけないじゃん。

病気以前の人格の問題だもの。 

まあ、そういう経験をして汚れ仕事のやり方を勉強できればいいけど、

まじめな後輩にはちょっと無理か?

             

大切なことは、常識のラインをつくること。

診察室で、研修室で2人だけだから、2人の世界を作るから、

常識はずれな事態がおきる。

バカップルが馬鹿な電車で馬鹿な行為に及ぶのは、周りがみえないから。

周りが声を上げたら、家に帰ってからする。

家庭内暴力が長く続くのは、家族の中で、

家族だけの特別な常識をつくっているから。

殴られたら警察をいれろというのは、

それが一番互いのためだからだ。

 

治してもらえなかたからと、医者を土下座させた精神科の患者さん。

何人か知ってるけど、良くなるわけない。ずっとぐちゃぐちゃ。

先に医者が倒れると、別の病院にうつされるか、ひどい医者に当たって

ひどい目にあう(この手の患者を全否定して

ぶっ壊してしまうスーパー精神科医は結構いる。特に50台)

だから患者のためを思うなら、意味なく土下座はしてはいけない。

馬鹿な指導医のいうことも聞いてはいけない。

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2008.07.20 15:29 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

共感を目指さない

昔ちょっと書いたけど、

医者というか、精神科医は非常に共感能力が乏しい。

患者さんの話を聞いて、「感情でわかる」医者なんてまずいない。

だって、多感な時代を勉強メインですごしてきて、

羽目をはずすのはたいてい大学に入ってから。

まじめなやつは大学に入っても、医者になってからも

はずすことが出来なかったりして、堅いまま今に至る。

「感情でわかる」には柔軟性が必要。

そういうやつに「これしちゃ駄目って知ってるけどやってしまうんだもの」

という患者さんの話を「そうだよね」って聞けというのが無茶な話。

 

だから僕らはいつもわかったふりをして患者さんの話を聞く。

情緒的な理解は出来ないぶん、理屈でカバーして

最低限はずさないように、患者さんに不快な気持ちを与えないように聞く。

例えるならば、サッカーで相手のフォワードがボールを持った瞬間、

全員最終ラインに下がって、相手のコースを塞ぐような対応。

                     

そういう守り方は相手を壊さないのでいい。

ときどき相手を壊すような「気持ちわかるよ!だからこうしてみよう!」

とか積極的にアプローチする人を見るけど、それは危険。

成功する可能性もあるけど、無理を重ねてきた相手を壊す可能性もある。

たしかに守ってるだけじゃ、引き分けねらいになっちゃうけど、

時間をかけて付き合い方を探るのが一番安全。

毎回の診察は引き分けでもかまわない。

薬という武器もあるんだから。

 

でも、僕だって守っているばかりじゃない。

精神科医はみんな得意技があるんだと思うけど、

得意技が効く!と思うときには、一気にカウンター攻撃を仕掛けるときがある。

僕は共感能力は低いけど、馬鹿じゃないから

自分の経験を抽象化して使える武器にしている。

たぶん、そういう精神科医って多いんじゃないかな。

それは本当に自分の経験だったり、

治療して上手くいった経験だったり、それはまちまちだけど、

患者さんがしゃべっていないところまで踏み込んで

「実はこうだったでしょう」「こんな風に考えてるんでしょ」とか当てちゃう。

その上で状況を俯瞰して教えて、きつい現実を受け止められる範囲で

受け止めてもらったり、対処法を指導したりする。

そうやって、患者さんに「そこまでわかるんですか」とか感心してもらって

こっちが立てたプランに乗っからせる。

 

僕がこの手を使うときは、

「うちに監視カメラでも仕掛けているんですか?」とか

患者さんいわれることがあるので怖いこともあるんだけど、

しゃべっていることは、単に自分の経験を患者さん風に

アレンジしてしゃべっているだけだったりする。

実は人間の悩みなんて、そんなに差はなくて、

たいていは、自分が疎外されているとか、正当に評価されてないとか、

「自分が受け入れられていない」とか、そういうことに収斂するから、

そこまで大まかに捉えるならば、僕と患者さんに何の違いもない。

 

共感応力が乏しい医者が、患者さんに共感しているように見えるときって、

実は自分のことを話しているとき。

もちろん一部、才能あふれる人は別だけど、

凡人精神科医は、自分の経験を一般化する作業をまじめにやるべきだと思う。 

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2008.07.19 20:26 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

子どものうつは増えているか?

区の小児科医会の講演を薬屋さんに頼まれたので

久しぶりに大学の図書館で調べ物をした。

いろいろ面白かったので、講演のプロットをメモ。

 

子どものうつは増えているか?

 

よく新聞などで報道されるように子どものうつは増えているのか?

→答えはノー。

20年前の厚生科学研究で、福岡の小学生1000人と中学生500人を調査して、

小学生の13%、中学生の22%に抑うつ傾向が見られた。

2004年に北海道で約3000人の小中学生を調査したところ

小学生の8%、中学生23%に抑うつ傾向が見られた。

小学生に関しては2004年に筑波の先生が小学4年生から

6年生3000人を調査して、12%の子どもに抑うつ傾向が見られた。

 

この2004年の調査結果は大々的に報道されて、

「子どものうつは増えている!」とか言われたけど、

昔の資料をひっくり返してみると、一般の児童における

うつ状態の子どもの割合は決して増えてないと思う。

 

では、うつ病と診断される子どもの数は増えているか?

→答えはイエス。

いくつかの病院で調べたら、20年前は「うつ病」と診断される子どもは、

未成年者の患者の3パーセントにも満たなかったけど、

今は20%~30%を占めるらしい。

 

ここから考えられるのは、2つ。

この20年、薬屋さんのキャンペーンもあって、

大人のうつの概念が大きく変わったこと。

昔は「うつっぽい」状態でも、それは自分で何とかするものだ!

といわれたり、そんな甘えてないで働け!とかいわれたり。

よほど重症にならないと「うつ病」っていっちゃいけない状況だった。

それが今は「うつ病」が社会的に受け入れられて、

診断をつけやすく、治療が受けやすくなってる(昔よりは)。

そういう大人で見られる現象が、子どもの世界に波及しているということ。

 

もう一つは、社会そのものの性質が変わって、

昔はうつ状態の子を家庭が、学校が、地域がそれなりに支えてきたのが、

(悪い意味で言えば、病院に連れていかずに何とかしてた)

今はそのセーフネットが崩れて、病院も一緒になって支える必要が

出てきているということ。

小学校や中学校の現場や、家庭の機能がすごく限定的になってきていて、

あいまいなまま家においておくとか、

あいまいなまま学校においておくとかが出来なくなってる。

だから、何か結果を出さないといけない、

振り分けて整理しなくちゃいけない、そんな感じ。

 

結果、病院という治療機関が交通整理に一枚噛まないといけなくなってる。

だから、小児科の先生方は大変だと思う。

そもそも子どもの場合、

あたまが「精神」というレベルで出来上がってないのだから

大人みたいに自分で悩んでうつになるのと違った構造があるはず。

だから、本人に対するアプローチ以上に

ケースワークが重要になるはず。

学校や親は子どもを何とかしてくれといってくるけど、

子ども以上に学校や親が何とかならなくちゃいけない場合が多い。

だからスクールカウンセラーが廃止されて

スクールケースワーカーが導入されつつあるということ。

 

で、この流れで治療について。

小児科医の先生方は薬の使い方で悩んでいるらしい。

薬屋さんが儲けるための会でこんなこというのは気が引けるんだけど、

子どもに薬は使いにくいし、使わなくていいんじゃないか?

 

うつって、SSRIでしょ。

自殺のリスクを上げるとか書いてあるのでふつう怖くて使えないでしょ。

ただ、薬屋さんのために一言言っとこう。

(金もらって全否定では申し訳ないので)

子どものうつの診断をよく読んでみると、

「子どもは抑うつを上手く表現できなくてイライラ感として表現する」

とか書いてある。んー。

急性期をやってるとそれっぽい子はたくさん見てて、

そういうイライラ感とか、情緒不安定な要素を抱えてる子に

SSRIを使うから駄目なんじゃないか?

むしろ、そういう情緒不安定な子は躁うつの文脈で捉えて

デパケンとかを使用したほうが上手くいく気がする。

病気として完成しないのが子どもだから、症状レベルで

もうちょっと柔軟に捉えたほうが上手くいくと思う。

SSRIは小児科だったら、慢性疲労症候群とか診断されそうな、

それでいて生活を改善してもよくならないような子に使うといいのかなと思う。

だから子どものうつって、一つと考えて治療するより、

定型と非定型にわけて捉えたほうがいい感じ。

 

そんな感じの話をしようかな。受けるといいな。         

もうちょっと教科書的な話を入れたほうがいいのかな。

今回はメモでした。明日パワーポイントにまとめよう。

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2008.07.18 08:17 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

仕事の最大の敵

それはたぶん、飽きるということだと思う。

同じことの繰り返しを楽しめなくなったら、

それは医者にとっても患者にとっても不幸なことだと思う。

             

僕らにとって、妄想や自殺未遂は日常の出来事だ。毎日診てる。      

医者がまじめに10数年、たくさんの患者さんにまみれて仕事をしたら

それに対する自分なりの方法論、構造論みたいなものが出来ると思う。

自分の中の構造論が形になってきたときって、

すごく実力がついた気がして嬉しいものなんだけど、

それが自分の首を絞めることに気がつくのは、すこしあとになる。

 

自分なりの方法論を持つってことは、

要は患者さんを診察してて、いろいろな訴えを聞きながら

この人の解決すべき問題は何か、何から手をつけるべきなのか、

それがすぐにわかる(答えが出せる)ようになるということ。

どんなおかしな質問が来ても、診察室の中ならすぐに答えが出せる。

そして打率7割以上が確実にキープできるようになる。

 

でも一度出来た「自分の形」って、

自分が苦労して獲得した理屈って、

それを否定することがすごく難しい

みんな一目おいてくれるし、自分でもそれがプライドになっているから。

でも、どんなすごいやり方だって、

何にでも当てはまる方法ってのはない。

抽象度が高すぎて何も言っていないことに等しいから。

だから、自分のつくった方法論はそれが実用的であるほど

上手く機能しない状況に必ずめぐり合う。

でも苦労して獲得したやり方を変えるってことは感情的にすごく難しい。

   

たまに「あんたの治療は私にあわない!」とか怒りをぶつけられる。

僕の場合は相手のケースワークを性急にすすめすぎたりするとある。

患者さんの怒りを受け止めたり受け流したりするのは難しいことじゃない。

でもその出来事をきっかけに自分を修正することは結構難しい。

それは、自分を真っ向から否定する人に対して、

人として興味を持つ必要があるから。

罵倒してくる人の立場にたって、学び始めた原点に戻って、

たしかに俺は馬鹿だよなとか思わないといけないから。

 

ちょっと前。ブログを始める前。忙しくて自分に余裕がないころ、

こういう患者さんがすごく嫌で、嫌なことをおくびにも出さず

上手に処理してた時期があった(問題を処理することって簡単だから)

そのころはすごく仕事が退屈だった。

客観的には自分の限界量近い患者さんを捌いて、適切に指示は出してた。

忙しいのに退屈というのも変な話だけど、

たぶん、忙しすぎて「人」に興味を持つ余裕がなかったんだと思う。

病名と状況を相手に仕事をしてた。

それは医者として間違ってない働き方で、

能力が上がったから出来るやり方だったけど、たぶん、僕の偉くなった先輩達もこの流れに乗っかって、

仕事に飽きていったんだと思う。

          

ある程度力がついたから、すごく快適に仕事が出来る。

患者を診るときに「人」に興味を持つというプロセスは、

めんどくさくて苦痛を伴うぶん自分の中から消せる。

消しても働ける。だから忙しくて退屈になる。

でもそれをやると昔はあったはずの中身がすかすかになってしまう。

 

どうせ忙しいんなら、忙しくて面白く、がいい。

仕事の面白さは、「わからないことがわかる」

「難しい仕事が出来るようになる」ということに尽きると思う。

それがないと毎日同じことの繰り返しが楽しめない。

でもそれには学び始めたころのように、「患者さんに教えてもらう」

そういうスタンスをどこかに持ってないといけないんだと思う。

              

なんにせよ「人に興味を持つ」という学びの原点から離れると駄目だ。

原点から離れても仕事が出来るのは力がついたからだけど、

原点から離れると、ついたはずの力もいつか消えてしまうと思う

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2008.07.16 21:10 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 3

昔、研修してて思ったこと

すいません。

ここで再開します。

自分を語るほど蟻地獄にはまるので、

生暖かく見守っていただけると幸いです。

↓本編です。

 

僕が精神科に入局したときに凄く困ったことの一つに、

認識の正常値を誰も教えてくれなかったということがある。

 

もともと外科志望で、「どこから先が生命の危機」で、

そこを凌いで「患者さんをどこまで持っていけばいいのか」、

医療ってそういう明確なラインがあるものだと思ってた。

精神科にきて面食らったのは、そんなラインを誰も考えてなくて、

認識の正常って何ですかと尋ねたら、馬鹿を見る目で見られた。

先輩はみんな、幻聴とか異常な状態しか知らなくて、

異常じゃなくなったら「それが正常」だって。

 

思えば、精神科の医療教育だけ正常からスタートしない。

ちょっぴり心理学っぽいものがあったけど、

印象に残っているのは、犬に電気を当てたらそのうち諦めるという話。

学習理論はわかるけど、「認識の正常値」には程遠いと思う。

内科とかの身体科は、体の正常な構造、正常な機能から講義が始まる。

そしてその「ゆがみ」として病が規定される。

身体科には正常の変化としての病気という概念が確立している。

そういうのはすごく美しい。

 

研修時代の僕は、異常を消すことを目的にして研修したけど、

一つの症状はなくなっても、また違った症状が出てきたり、

いったん退院した患者さんが、わずか1週間でまた入院してきたり、

そんな不毛ないたちごっこが「当たり前」といわれる現場が

すごくおかしなものに見えた。

もちろん、そんなふうに考える研修医の方が馬鹿にされたけど。

 

そんなこと考えて研修してたら医者っぽくない大先輩に、

「お前みたいな馬鹿が理屈で考えてわかるか」とか怒られて、

県北や県南の保健所を連れまわされることになった。

毎月、患者さんの家に上がりこんで生活ぶりを見るように指導された。

そのとき盛んに言われたのは、

「患者さんが100人いれば、100とおりの生活がある。

お前は病気は正常の歪みのはずとか偉そうなことをいうけど、

100通りの生活が描けなければ、こころの正常なんてわからん」という言葉。

当時は患者さんの家を見て経済状態くらいしかよくわからなくて、

何を語られているのかさっぱりわからなかった。

もちろん、怒鳴られるのが怖いので「わかりました」とか言ってたけど。