なし
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2008/06 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着コメント

  • 不眠について
    • しぎ (12.04 00:45)
    • なし (11.22 09:30)
    • full (11.21 10:52)
    • Paul Carpenter (11.21 08:42)
  • 踏みとどまることの大切さ
    • 山本 由美子 (12.01 22:58)
    • 突然メ-ルを送り失 (11.30 03:22)
    • 山本 由美子 (11.26 17:29)
    • 田中 静香 (11.21 11:27)
    • 山本 由美子 (11.21 00:08)
  • 年金テロ?
    • Paul Carpenter (11.21 08:36)
< 前のページ

診療していて思うことの一つに、入院治療の位置づけがある。

入院治療って精神科では最後の手段になっているけど、

今の世の中、ファーストチョイスにしたほうが

上手くいくんじゃないかって思うときがある。

 

今、うつにしても、統合失調症にしても、

すごくラベルを貼る範囲が広くなっている。

統合失調症なんて、昔は先輩から

「被害関係妄想がない統合失調症があるか!」とか指導されて、

病気の本質は何か学べとかすごく言われた。

でも民間病院では・・・というか現場では、

病気の本質がどうとか本格的なものは二の次で、

患者さんの困り具合を何とかすることが求められてる。

 

今は大学でも、ちょっとした自我障害があると

「認知の歪みがある!」とかいって統合失調症というラベルが貼られる。

大学の後輩からの入院依頼の紹介状を見て、

本当に統合失調症なの?とか思うんだけど

たしかに職場や学校には出て行けなくて、家での生活を充実させるべきレベル。

ちゃんと家族が受け入れないとやっていけなくて、

きちんとラベルを貼って、みんなで患者さんに

無理させない生活を作らないといけないからよしとすべき。

 

でも思うのは、だったらギリギリまで外来で引っ張らずに

もっと早い時期に入院治療を導入すればもっと上手くいくのにということ。

たしかに、入院はコストがかかるし、「精神科入院」に対する偏見も強いから

患者も、医者も、入院は出来るだけ避けようとする。

でも、本当はコストをかけないということは、

それに見合うものしか受けられないということ。

たった一度の自分の人生にはもうちょっとコストをかけてもいいんじゃないか。

 

入院の利点というのは、病気を起こした環境(家)を離れて、

薬物療法の調整ができることだと一般に言われるけれども、

本当はもう一つ。「教育」という要素があると思う。

ただ、今やられている教育は、「病気の理解」と

「再発させないための疾患教育」とかいわれているけど、

しょせんその中身は「お薬をきちんと飲みましょう」というだけ。

薬の大切さは十分わかっているけど、

その教育は十分病気悪くなった人たちのための教育でしかない。

 

本当は、もう一歩進めて、悪くなりきる前に、

その人の生活を支えるための教育というのが大事なんじゃないかと思う。

先に書いた軽い認知の歪みがある人のケースでも、

周りの家族を巻き込んで、患者さんに見合った

「自分を追い詰めない生活」とか、その人の特性を

心理検査とかで調べて、フィードバックするような、

そんな入院があってもいいと思う。

期間は1ヶ月・目的は発病しないための生活モデル作成。

 

実際、今の精神科医療って、従来型の医療のモデルでは

カバーできないところもカバーしようとしている。

軽症うつの人を従来型のうつの治療で治療できるかといえば無理だ。

自由な環境下でなら安定していられるけど、

職場に出るときだけうつになるとか、

そういう人に休養と薬物療法の大切さを念仏のように唱えるほど、

患者の家族の信頼を失い、もしくは悲壮感あふれる信仰を寄せられ、

患者さんはかえってすさんでいく。

 

僕はだから、外来でやるなら治療以上に

生活の枠組みの設定が大切なんだって書いたけど、

それって要は患者さんとその家族に対する「教育」。

でも実際外来でやるのは無理があって、

本当は入院でそこをあつかえればいいなとずっと思ってる。

なぜなら、入院でそこを扱えれば看護や心理や、

多職種を絡めることが出来て、看護や心理は僕みたいな医者なんかより

ずっと患者さんの今の悩みを捕まえることが上手で、

僕が退院してからの生活の建て直しのビジョンを示すのに専念できるから。

誰か僕にスタートとしての入院治療をやらせてくれないかな。

こういうのって、偉くならないと出来ないから困る。

固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)

2008.06.27 18:34 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 4

大量服薬を繰り返す人で困ること

しょっちゅう大量服薬して近くの救急病院に運ばれる人がいる。

すぐにうちの病院に連絡がくるんだけど、

「自殺未遂」として正しい対処をすると、その患者さんはすごく怒る。

入院治療をしましょう、いったん家を離れましょうと勧めると、

「死ぬ気はなかったという自分の気持ちを何故わかってくれないのか」

「死にたいくらい辛いけど、死ぬ気はないんだ」

「もらった薬1週間分全部飲んだけど、たぶん死なないと思ってた」

「全部もう飲んじゃってないから薬ちょうだい」

そういって薬をもらって帰ろうとする。

 

そんな患者さんはたくさんいるわけじゃないけど、

精神科医ならみんな何人かは抱えていると思う。

 

誰でも10年以上精神科医をやっていれば、

「死ぬ気はなく」ても亡くなってしまうケースを知ってると思う。

明らかに夫を試すとか、周りに分かってもらいたいとか、

そんな気持ちで中等量服薬をしたケースでも

状況やタイミングが悪ければ、簡単に亡くなったりする。

だから、死ぬ気はないからもう大丈夫と言ったって、

数日でいいから落ち着くまで入院してほしい。

自傷って立て続けにおきるものだし。

 

先日ももめて、最後は「もういいです!」とかいわれて逃げられた。

いつもこういうケースについて、正しい医療を押し付けないで

出来ることってなんだろうとか考えたりするんだけど、

うまい方法は考え付かない。

結局患者さんとの関係がどう築けるかが大事で、

罵倒されるのも関係つくりに使えないかと考えるくらいか。

そういうときに一番恨めしいのは患者の家族だったりする。

 

こういうケースの家族の常套句

この子(人)の思うようにさせてあげてください」という言葉。

この一見患者さんの自主性を重んじるような言葉。

これをやられると、患者を守りたいはずの医者が一気に悪者になる。

罵倒されたりすることを関係つくりに使うというのは、

患者さんが「言い過ぎたかな」と思うところで、

それでも君に関心があるんだといい続けて、アクセスして、

一緒に繰り返さない為の治療に入っていくことなんだけど、

アクセスするためには、それが成立するまで患者さんを

場に留めておく場と時間が必要。言い方を変えると粘りが必要。

でも、この一言は簡単にその粘りをぶっとばす。

なんだか僕一人無理解な人みたいな立ち位置に置かれるし

言葉の中身は単なる家族による「見捨て」なのに、

僕の行動を著しく縛る。

 

「この子の思うようにさせてあげてください」という言葉の裏には

期待はするけど、介入しないというあり方があると思う。

家族として「本人に何とかしてほしい」ということ。

手を出して当たられたり、ひどい目にあった過去があるんだろうけど、

一緒に恨まれてくれないと、家族だけいい子になられると手が出せない。

 

期待はするけど介入しないってやり方は、

ある意味自主性を尊重するということだから、

ノリノリで発展している子どもやスポーツマンの指導にはいいけども、

大量服薬とか、追い詰められちゃって

どこにも行き場がなくなっている人にやったら絶対いい結果は出ない。

期待してないという人もいるかもしれないけど、

それはうそだ。親子や夫婦や交際関係で、

関わっているのに期待をかけないなんてことが出来るわけがない

患者さんのほうはそういうの、すごく敏感に感じ取る。

期待かけるほうが鈍感なだけで。

固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)

2008.06.25 13:12 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 4

等身大の医療

物事を理屈で考えていくと、

どんなものも内側に「創る」というプロセスをもつのに気がつく

創るからこそ実体化して「使う」ことが可能になり、

使うことで成果を出して、物事は変化発展していくんだけど、

使えば崩れたり消耗したりするから、それを創りなおす必要がある。

つまり、実体化したものを使い続ける為には、

その中に「創り続ける」という要素がないといけないと思う。

 

病院という建物一つとっても、

老朽化したら補強工事をしたり立て直したりする。

だから病院は内部留保の資金を必ずつくって、

維持費という名目のお金をもってる。

使いすぎて壊れたときに、それを補填するためだ。

夫婦関係だって、ただ相手に求めるだけでは

だんだん最初にあった感情が冷めてしまう。

離婚に至ることだってある。

だからいつだって、2人だからこそ出来る共同作業

(子育てでも趣味でも)が必要で、それがないと関係は形骸化していく。

維持するということは、「創る」というプロセスを

内に含むということだと思う。

 

人の技術も同じだと思う。

プロ野球選手が高打率をキープする為には、

フォームの修正(1人練習)を随時必要とする。

勝負という「使用」をおこなうと、

それがどんなに見事な使用であっても、

いや、見事だからこそフォームの変化・崩れが生じる。

だからプロはみんな死ぬほど素振りをする。

オープン戦や2軍の試合では打つことよりも

自分の中の感覚を創ることに重点をおくらしいし。

 で、言いたいことは創るって行為や

維持するって行為にはモデルが必要ということ。

 

今はすっかりメジャーになった医療崩壊って言葉も、

結局は医者を創る部分を壊しちゃったからおきたことだと思う。

多少酷使して疲れたとか、そういうのはまだ修正が効くけど、

(むしろ学生の頃は外科にいった先輩達の疲れた様子に憧れたし)

「医者はかくあるべし」というモデルをぶっ壊したから崩壊してる。

みんなが凄いと認めるかっこいいドクターがいなくなって、

「かっこいい」モデルの変わりに「等身大」モデルが幅を利かせてる

だから医者を使えば使うほど、壊れた部分が等身大に修復されて、

今の研修医の教育も、等身大のそれになってる。

 

それはすごく正しいことで、僕にはまったく異存ない。

ただ、「誤認逮捕する思考プロセスは正しい」の繰り返しになるけど、

等身大になるってことは、今まで広げていた大風呂敷をたたむということで

難しい疾患が見れなくなるということだ。

 

今はまだ違う。今一線の人たちは「かっこいい」モデルを見てきた人たち。

ワーカホリックな先輩に目を散々鍛えられて、

成功からも失敗からも何かを学んできた人たち。

(誤解を恐れずに言うなら、失敗が許された過去をもつ人たち)

ちゃんと一歩踏み込むことを続けてきたから、

難しい疾患を踏みとどまってあがいてなんとかするという技術を知ってる。

今は訴訟が怖くて難しい疾患を敬遠したりするけど、

それは「診ない」ってこと。

でも、この先は「診れない」「診る能力がない」ことになる。

なにせ、僕らモデルが等身大を目指して、一歩踏み込まなくなってるし、

研修医たちは失敗することを許されないから。

 

それもまた正しい未来。

今は「創る」という行為に価値をおかれず、

「使う」「消費する」ということに価値があるのだから。

ただ、創るという部分に価値をおかず、

失敗を無駄なもの、駄目なものと一面的に処理をすることで

変質するものがあるってだけの話。

固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.06.23 18:24 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 5

研修医のする精神科治療

関わっている研修医の話。
まじめなやつで僕は彼が嫌いじゃない。
「(多重人格の)患者さんに治療らしいことがしてやれなかった」
「すごく心残りで、もっと何かできたはずなのに」
なんてかわいいことをいうものだから、
「それ違うよ。お前が治療しようなんて思ったから退院したんだよ」
と教えてやった。

まじめな研修医は治療したがる。
でも、相手のことを十分わかっていないのに、
病名だけでわかったつもりになって関わってうまくいくはずがない。
だから研修医は患者さんに教えを乞うつもりで関わっていかないと治療にならない。
僕はそういう指導を散々うけた。

僕の最初の患者さんは境界性人格障害の女の子。
当時、外科医になりたくて、いろんな事情が絡まって
最初の数年精神科で研修することになった。
(そのまま抜けられなくなったけど)
だからぜんぜん人の心の病とかに興味がなくて
興味がないけど、医者だから医者らしく頑張らないといけなかった。
その境界例の患者さんは今でも忘れられない。
地獄の日々だった

初診でシュライバーについて2時間。
その後毎週火曜に1時間以上話をきいた。
悩んでいて、苦しい思いがあるというけど、
その都度訴えが変わって、ぜんぜん理解できなかった。
一生懸命くらいつくんだけど、1時間の最後には必ず
「なんでわからないのか。お前は馬鹿か!」
みたいな雰囲気になって、罵倒されたりして、悔しくて悔しくて。
で、ときどき先輩ドクターが診てくれて、
一緒に診察室に入るとものの10分位でその女の子がすっきりして帰っていく。
この屈辱。
たぶんあの子も馬鹿な研修医にわかってもらえなくて大変だっただろうなと思うけど、
火曜の午後2時はつらい時間だった。                  

ただ、その先輩ドクターに唯一ほめられたことは、
「お前は馬鹿だけど、ちゃんと罵倒されているからいい」ということ。
なんだかんだいって、その後2年くらいその患者さんは僕の外来に通ってきて、
僕が転勤するまで縁が続いた。転勤するころアルバイトを始めた。
しばらく手紙をくれてて、その子が教えてくれたベンフォールズファイブは今でも聞いてる。
先輩がいうには、「あの子の周りには、あの子が正しいと思うことをわかってくれる人がいない。
もちろん、お前もわかってない。でも、周りの人間はあの子を馬鹿にするけど、
お前は馬鹿にしないで、ちゃんと罵倒を受け止めてるから、あの子はお前の外来に来る」だそうだ。
悲しい評価だった。             

今はほめ言葉とわかるけど。
当時はさっぱりわからなくて、
精神科は100%向いてないからやめようかと思ったものだが、
今思えば、ちゃんと汗をかいて、彼女を主役にして、彼女の世界を立てようとはしてた。
その構造というか、彼女が主役となる関係そのものがかろうじて治療的だったんだと思う。
今なら、彼女をちゃんと治療できると思うけど、
研修医でわからないうちは、患者さんが主役なんだということを
必死で守ることが正しいんだと思う。             

僕の教えてる研修医。
多重人格の患者さんを治療しようとして関わってた。
治療的に関わるというのは、医者のビジョンを相手に押し付けるということ。
相手のことをわかって、相手が一番受け入れやすいビジョンならいいけど、
わからないまま押し付けたらちょっと厳しい。
わからないうちは、「患者さんに教えてもらう」「馬鹿なうちは患者のために汗をかく」
その姿勢が、研修医にできる唯一の治療的かかわりだと思う。
彼は患者さんの訴えを聞いて振り回されて、看護からブーイングを受けて、
四苦八苦してる姿を患者さんに見せているときが一番治療的だった。

固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.06.23 01:19 |  診療  |  仕事 / 職場  |  なし  | 推薦数 : 4

わかりやすい教えは能力劣化を招く

わかりにくいことを「わかりやすく」教えることが大切だ!

とか思ってきたんだけど、実はそうでもないのかもしれない。

むしろ「わかりやすくする」方法を教えるべきなのかも

 

患者さんのことを研修医にわかりやすく伝えようと思ったら、

いろんなことを省いて、核になる部分の話を中心にするしかない。

一緒に診察室で診療してると、研修医の顔が難しくなってて、

(診療の展開は研修医にはまだ難しいので)

診察室で展開された診療の骨子をわかりやすく教えてあげると顔が輝く。

それは僕にとって嬉しいことなんだけど、

患者さんのリアルな思いはあまり伝わってなかったりする。

僕だって、患者さんの苦しすぎる思いは薄くしか理解できないけど

研修医の理解はさらにそこから劣化したものになってる。

 

ありのままの事実とか、ありのままの思いとか、

そういうものは、そのまま伝達できない。

雑多な情報が入り混じりすぎてて、必要な情報が何か判断できない。

だから患者さんと医者の間でも、指導医と研修医の間でも

必ず一度「抽象化」という作業をして

(言い方を変えるとわかりやすく構造化するということ)

無駄なものを省いて、骨組みを取り出して全体像を捉え、伝えようとする。

僕は患者さんの話をそういう風に聞くし、

自分の中で骨組みにしたものを研修医に教えてる。

 

これってものを教えるのにすごく有効だと思っていたんだけど、

実は「骨組みをわかる」ためのスキルの部分を

ブラックボックスにしてるのかもしれない。

僕も苦労して「端的に捉える」とか、「大まかに捉える」とか、

抽象化するとか、構造化するとか、

そういったわかりやすくするスキルを磨いた。

とにかく全体像が見えないと、具体的な方針が立てられないから。

自分が苦労したぶん、研修医にわかりやすいように

骨組みを知識的に教えちゃうんだけど

そういうのって、研修医が自力でわかりやすくするスキルを

磨く機会をスポイルしちゃって、むりやりわからせているのかなと思う。

 

たとえば、4年前に教えた研修医のインテリジェンスはきわめて高い。

抽象化した話の飲み込みは異様に早くて、

僕が7年でわかったことを1年たらずでほぼ理解しちゃった。

絶対すぐに抜かれると思っていた。

でも、明らかに僕よりIQが高いはずの彼が、

いつまでたっても僕より治療が上手くならない。

なんだろう。あのバランスの悪さは。

 

結局自分がわかりやすく教えてもらったことは

自分で再度構成しなおす必要があるということかもしれない。

初心の頃に骨組みをわかりやすく教えてもらうぶんには、

昔の人たち(僕とか)よりずっと早く上達するけども、

自分で「わかりやすくする」やり方を覚えないと、

実力にならないということか。

そのあたりを、大前研一さんは「勉強は本を一冊書くつもりでやれ」

と表現したのかなとも思う。

 

だからこそ、自分でわかりやすくしようとしないで、

わかりやすく教えてくれる人の信者になってしまう人は、

オリジナルの人の劣化バージョンになるしかない。

 

たとえばなんとか流空手とか。

あれって、昔のめちゃくちゃ強かったオリジナルの人が、

自分の強さを抽象化・構造化して(突きの形とか、戦い方とか)、

わかりやすい形に直したものが今に伝わっている。

空手を習うというのは、その強かった人が強さを発揮した技を習うんだけど、

どう頑張ってもオリジナルの師範の劣化バージョンになるしかない。

わかりやすいことを教えてもらえる状況になじんで信者になると、

たぶん空手は上手になっても、戦いは強くならないだろう。

ルールのあるスポーツは上手くなっても、路上では戦えない。

だからまともな人は流派を離れて自分の流派を立ち上げたりして、

傍流みたいなものがたくさんあるんだと思う。

 

宮崎駿監督のファミリーも同じだと思う。

オリジナルと劣化バージョン。

お父さんは、狂ったような自分のオリジナルな世界観があって、

その世界観を抽象化・構造化してわかりやすくアニメにした。

たぶんお父さんは、自分の感じる「面白いこと」と死闘を繰り返して、

死ぬほど試行錯誤を繰り返して「わかりやすさ」を手に入れたんだと思う

だからあの宮崎アニメという結果からスタートしたら超劣化するしかない。

だから本当は、あの息子は宮崎アニメからスタートするんじゃなくて、

自分なりの面白しろいことと格闘して

「わかりやすさ」を手に入れるところから

スタートするべきだったんだと思う。

 

・・・もしかしたらあの映画はそういう努力の第一歩なのかもしれないけど、

だとしたらよけい悲しい結末だ。お金を返してほしい映画だったから。

 

どちらにせよ、僕は教え方を変えないといけないかなと思う。

昔の人のように一方的に駄目だししたり、不親切だったりは出来ないけど、

手取り足取りはまずいんだということは感じてる。

自分で「わかりやすくする」ことを頑張らせるという視点が、

そう、部下に誰かを指導をさせるという視点が大切と思えてきた。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.22 01:49 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 6

親を責めてはいけない

研修医が以前に書いた多重人格の子から

急に退院したいといわれてあわててる。

 

研修医は何でそういう事態になったのかわからずにいるけど、

たぶん、患者さんが自分の親の悪口を散々言うのに同調して

一緒になって責めるようなことを話したんだろう。

 

たしかにその患者さんは、勢いで親をミソクソにいうかもしれないけど、

それは患者さんの中の一面でしかなくて、

医者が一緒になって親を責めると、あとから患者さんが追い詰められちゃう。

患者さんの一面しか目にはいらなかった研修医のミス。

昔僕も同じようなことをやって死ぬほど怒られた経験がある。

 

医者1年目の冬。17歳の女の子が落ち着かなくなって、不眠を訴えて来院した。

当時は「心因反応」という診断がよくつかわれていて

不登校をきっかけに多彩な精神症状が現れていた。

背景に親の登校刺激があって、まじめなその子は追い詰められてた。

 

先輩ドクターに状況を解説されながら診療したので、

患者さんの女の子が追い詰められているのがよくわかって、

結構感情移入してしまった。

診察室でうつむいてしゃべらない患者さんに

「君のそういう気持ちをわかってくれないなんて!」

「君のお母さんはひどいな!」とか話してしまった。

患者さんはすごく困った表情を浮かべて、

それがよくわからなかった僕は先輩にそれを伝えたら、

烈火のごとく怒られた。人格レベルで駄目出し。

 

今思えば、すくなくても彼女の周りで彼女のことを

一番一生懸命考えていたのは親。

たしかに親が彼女を追い詰めた一面はあるけど、

親の指示に従おうとして彼女は苦しんでいて

親を否定したいんじゃなくて、親にわかってほしいだけだった。

だから、親を否定することは、彼女自身を否定するに等しい。

でも当時はアタマが廻らなくて、患者さんの一面しか見えなかった。

 

そういうことがあった後、結構長い時間がたって

虐待された子が絶対にお母さんを非難しないのを見て、少しわかった。

人間って、自分で自分を肯定するのってすごく難しい。

自分にとって大切な誰かに「あなたは正しい」と言ってもらえないと、

なかなか自分を肯定することが出来ない。

「あなたが大切よ」といってもらえないと、

なかなか自分を大切にすることが出来ない。

ちゃんと自分で自分を支えられるようになるのが大人なんだろうけど、

そんなちゃんとした大人は少なくて、僕自身だって誰かの声を必要としてる。

だから僕は患者さんの女の子の気持ちを汲みながら

彼女にお母さんを大切する方法を教えるべきだったんだと思う。

それが彼女自身を大切にする方法だから。

                 

で、研修医は親を責めることの愚をわかってくれたけど、

なかなか・・・・指導って難しい。

僕は死ぬほど怒られたけど、僕はそこまで研修医を怒れない。

一気に怒るには、いろんなものを相対化してしてしまう癖がついてるから。

いや、研修医にとっていい人でいたいからか。

 

固定リンク | コメント (3) | トラックバック (1)

2008.06.19 22:50 |  診療  |  仕事 / 職場  |  なし  | 推薦数 : 3

誤認逮捕する思考プロセスは正しい

刑事ものの映画を見ていると、

目つきの悪い刑事が、見た目が怪しい人物を見つけて

言いがかりをつける場面が良くある。

言いがかりをつけられた方が主人公の場合、

主人公の視点で物語が進むから、刑事はヒドイやつに見える。

でも、いつも思うけど刑事はぜんぜん間違っていないと思う。

そんな怪しいやつを見て見ぬふりをする刑事がいたら

そいつは無能で、市民に対してずっとひどいことをしてる。

 

見た目で怪しいと決め付けてしまう警官。

でも刑事視点で物語を紡ぐならば、

仕事の中でたくさんの救いのない事件を経験してるはず。

ちょっと怪し気だけど、強引に引っ張るまでもないと思ったやつが、

麻薬を売りさばいて、自分の守るべき人たちに害をなすとか。

そういうのって、一般人には稀有な経験でも、

刑事にしてみれば年がら年中ある話。

そもそも専門家というのは、普通の人にとって特殊な出来事を

当たり前のこととして生活するということ。

 

ドラマや本を読んでいると、離婚した刑事の話が出てくる。

中でもリアルなのは、人を疑うことに慣れすぎて

家でも妻子を疑うような目で見てしまって、

耐え切れなくなった妻子が家を出て行くという話。

たしかにありうる話だなと思う。

毎日、うそばかりつく犯罪者に囲まれてすごせば、

その人の人間観が、「人間には、上手にうそをつく人間と

うそが下手な人間の2種類しかいない」とかなってもおかしくない。

ふつうの人にとって特殊な出来事を当たり前として生活するあり方は

その人の日常生活を侵食する。

                       

だから僕は映画の中で誤認逮捕する刑事を否定できない。

彼の中には「こんなやつが犯人」という先入観があって

それがあるから人が守れたという実績があるはずだから。

もちろん、捕まえて長々と拷問しちゃうようなやつはまずい。

現実とのすりあわせを怠る怠け者という意味で。

映画に見る怠け者は、そんな自分を自己正当化しようとして、

トラブルを大きくして映画を盛り上げてしまう。

だから、自分の中の犯罪者の像と、現実の犯罪者を見合わせて、

いつだって自分を修正しないといけない。

自分のなかの先入観、イメージは、いつだって更新しなきゃいけない。

 

とにかく僕が言いたいのは、

誤認逮捕するやつがいるから、刑事はひどいとか、

先入観で判断するのはまずいとか、ありのままを見ようとか、

それは一般の人の考えとして正しくとも、

専門家としては間違っているということ。

人間はどんなに頑張ってもありのままになんて見れない。

人間に出来ることは、いつだって自分の先入観を、イメージを鍛えて、

実際の犯人の像に近づけていくことだけだ。

精神科医ならば、自分の先入観を鍛えて、イメージを膨らませ、

実際の患者さんのアタマに近づけていくことだ。 

映画の中で、誤認逮捕したのに拷問したとかそういうのは、

相手を逮捕しようと判断したプロセスじゃなく、

自分の先入観が現実と合わないのに、

その修正を怠ったことを責められるべきだと思う

学習し続けることを怠ったことが罪。

               

患者のありのままを見ろ!とか、犯罪者と決め付けるなとか。

そういう美しい素人の視点は、確実に現場に入ってきているし、

ちゃんと決め付けずに見る青年医師は増えている。

そういう青年刑事も増えているんじゃないかな。

サラリーマン刑事。間違いを起こさないけど成果も挙げない。

犯人を見つけても危なかったら手を出さない。

             

先入観を持たずに相手の話に耳を傾け

適切な知識を提供し、相手の自主性を尊重する。

こういう治療って美しくて、文句がつけにくい。

文句のつけにくい治療は、誤認逮捕みたいなことは起こさず

手がかからない軽症の人をきれいに治す。

そして本格的に手をかけなきゃならない患者は絶対に治せない。

固定リンク | コメント (5) | トラックバック (1)

2008.06.18 23:13 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 4

大学病院の医療レベル

研修医が大学で多重人格の治療に困っているらしい。

入院中のその患者さんがいろんな人格を出してきて、

その都度それに振り回され、(どうも頼まれるまま

各科に紹介状を書いたり、行動制限を解除したりしたらしい)

看護婦さんからブーイングがきて大変とか。

 

直接の主治医は、「患者さんのやりたいようにやらせればいい

という方針らしく、放置しているようだ。

看護師さんは、「やりたいようにやらせては看護にならない」とかいって

患者さんに介入しようとして、方針が違うドクターが邪魔らしい。

間に挟まれた研修医が治療に難渋してSOSを出してきた。

           

 大学病院精神科の臨床レベルは、地に落ちていると思う。

まともな指導医クラスはみんな市中病院や民間病院に出ていって、

医局にいるのは教授と准教授と5年目以下と病気のひと。

看護の面子は昔とかわらないから医者をなめているのだろう。

直接の主治医でさえ、使えないと切り捨てて、患者の治療は自分達でやる!とかいってるらしい。 

                

それはそれでいいけども、みんなすっかり素人集団。

ケースの詳しい事情はわからんけども、

専門家として必要な病気のイメージがないから迷走する

「やりたいようにやらせる」でも「看護する」でも

どっちでもいいから、相手の求めるものを描くべき。

多重人格の患者さんって、まともに自己主張できない人でしょ?

 

本物に多重人格の患者さんは、たいてい悲惨な生育歴があって、

寄って立つことの出来るルーツがない。

自分を支えるたしかな関係を持てずにここまで生きてきて、

そのときの感情、テンションで場を乗り切ることしか出来ない。

そして支えを求めるほどに人間関係の悪循環を引き起こす。

プロならそういう基本的なイメージを自分の中に創らないと。

 

そう考えれば、研修医が紹介状をたくさん書かされたり、

行動制限を解除させられたりする状況がわかるはず。

入院までしているのだから、「住んでいたところにいられず」

入院したものの「入院環境でも落ち着けない」ということ。

「うぶな研修医相手にたくさんの方法(人格)で訴え」、

「看護師は思うように介入指導できないでいる」ということ。

そして現場の治療が迷走している。

こんなの、入院前の状況と同じだという人間がいないのがおかしい。

支えを求めて悪循環にはまっているじゃない。

 

患者さんは支えが欲しいんであって、

別にたくさんある人格を統合したいわけじゃない。

相手が自分の話に真剣に耳を傾けてくれるか、自信がなくて、

自信のなさが心底刷り込まれているから、簡単に相手を信じられないだけ。

主治医は主治医で「人格障害は人格を認めたら余計酷くなる」とか、

「人格の統合が目的」とか、馬鹿なこと言ってるらしい。

いや、それはたしかに教科書的な答えだけど、

人格の統合は目的じゃなく結果だと思う。

もしくは長期の目的であって、今対処すべきは

入院しないといけなくなった状況への対処。

患者さんが求めているのは「わかってもらうこと」のはず

看護も看護で、すぐ指導しようとするから患者さんが研修医に行く。

研修医にひたすら訴えるということは、

一番経験年数の少ない研修医が一番耳を傾けてくれるという状況だということ。

「治療は主治医に任せておけない」とか言う以前に恥ずかしいと思うべき。

 

大学から逃げ出した僕がいうのもなんだけど、

昔はそういうイロハを教えてくれる先輩がいた。

大学は厚生省にすっかりぶっ壊されたんだなと思った。

まあ、後輩への後ろめたさもあって、

いまだに大学に関わっているわけだが。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.06.13 19:36 |  診療  |  生活 / くらし  |  なし  | 推薦数 : 4

秋葉原の事件について(補)

根本的に間違っていました。

ダイレクトに書くのがきつかったので、

ラ●ボーのこと例えに上げちゃったけど、

ラ●ボーのストーリーがずいぶん間違っていたらしい。

あれは映画評論見て覚えていた僕の脳内物語です。

映画ファンの方すいません。反省しました。

 

ただ、人の映画評が僕のアタマに刷り込まれたのは、

その評論にすごく納得したからだと思う。

人が一線を踏み越えるプロセスとして

「その流れはありえる」と思えた。

僕の診た患者さん達がそうだったから。

 

妹を殺そうとして夜中に首を絞めてた子や、

父親を殺そうとして包丁を枕元においていた子。

 

何人か、人を殺そうとして、

間一髪でやらずにすんだ人達を知ってる。

そういう人たちの話を聞いてみると、

みんなそうする必然性を抱えていた。

ある意味、自分が生き残る為に人を殺そうとしてて、

少なくともその瞬間は「(殺人が)正しい」と思って行動してた。

 

だから昔から「殺人犯は身内か金がらみ」といわれてきたんだと思う。

すごく反社会的な行動で、その人なりの正当性を保持するには、

すごく濃い情念が、濃い関係が必要だから。

でも、最近はそういう濃い背景がみえない犯罪が増えてて話題になってる。

 

通行人をノミで人を刺したあと、

「誰を刺してもよかった」と言い放った子を診たことがある。

個人的な感情では、貴様ふざけんな!という犯罪だけど、

医者として一生懸命自制して聞けば、

刺した通行人は親に似ていた。

親の期待にこたえられず見放され、

クラスに向かう途中での衝動的な犯行だった。

 

このノミの子は、自分が殺すべき恨みを

感じる相手ではない誰かを八つ当たり的に刺した。

強い情念や必然性をもってしても、まだ相手と向き合えない。

向き合えないことを正当化するシステムが彼の中に出来ていて、

それが彼をより孤立させて悪循環してる

そんな印象だった。

 

あの事件の犯人は、会社に恨みとかぬかしているけど、

その直近の理由にさえ向き合えない臆病者だから八つ当たりをする。

人のつながりを馬鹿にして、個人の正当性ばかりを主張して、

うまくいかない付けを人のせいにして逃げていった先に、

今回の犯行があっただけだと思う。

 

これをテロとか評価するコラムを読んだけど、

そんな立派なものじゃないと思うし、

理由がよく見えないのは、人と向き合えなくて、

向き合えないことを正当化して、それを周囲が、

社会が守っている状況のためだと思う。

固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)

2008.06.11 17:41 |  診療  |  なし  | 推薦数 : 2

秋葉原の事件について3

被害者の方々のご冥福を心からお祈りします。

続きです。