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実家で親父と飲んでいて、びっくり。
「うつの人間って望みが高すぎるんだな」とかいう。
僕が10年かけてたどり着いたところを
さらっと素人の親父が話す。
なんだかすごく微妙な気分。
ニュースで自殺の問題をやっていて、
親父の昔の部下が、転勤して行った先で自殺したらしい。
親父のもとにいた時からコミュニケーションが
上手くとれなくて職場でいろいろ苦労したらしい。
「薬を飲み続けてれば本当に自殺しなかったのか?」
とか聞かれた。わからないとしかいえなかった。
親父はふつうの公務員で、
仕事のあまり出来るほうじゃなかったその人に、
いろいろ世話をやいてやったらしい。
「愛想は悪くなかったが、気分の上がり下がりがあった」という。
仕事は一緒に出来てるから、無理に精神科に
引っ張っていくことはなかったけど、
心配はしていたらしい。
親父が言うには、上司として見ていて、
決して仕事が出来るほうじゃないんだけれど、
本人は「出来る」と見られたがっていたらしい。
すごく最初は愛想が良くて、何でもやろうとするけど、
負荷がかかるとすぐ萎んでしまう。
それに助け舟を出して、親父の部署にいた頃は
グダグダだったけど最後まで仕事は全うできたらしい。
移動した先での評価は「明るくて、頑張ってやれている」
との評価だったらしく、心配要らないといわれて
親父はほっとしていたらしいけど、
「グダグダと」だったその彼を「やれている」と見る上司って
要はちゃんと面倒見てないってことだから、
その彼はきつかったんだろうな、
アクセルを吹かし続けて、限界を超えちゃったんだなと思った。
そんな話を実家で飲みながらしていると、親父が
「能力以上に評価を求めてしまうことが、彼自身を追い詰めてしまったんだな」
とか言い出した。親父なりに、その彼が卑屈にならないように
評価しながら出来る仕事を当ててたらしいけど、
本人が「もっと出来る」といいだして、それを与えると自滅する・・・
だからコミュニケーションがとりにくかったらしい。
彼自身の「こんなもんじゃない。俺はもっと認められるべき」
そんな思いが、彼を追い詰めてたんだろうな・・
家族もわかってなかったし・・・・とか話す。
で、「俺は病気のことはわからんけれども、
こういうのが薬を飲めば治るというのはどうも信じられん。
ほんとに薬で治るのか?」とか言われて参ってしまった。
だから精神科は治癒っていえなくて、軽快というんだけど。
しかし、素人の意見は専門家よりずっと本質を突いていると思う。
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会社じゃなくて、人にお金をかけていかないと、
どんどん中身がすかすかになって、
戦うための能力自体が枯渇していくはず。
そもそも日本が戦争に負けたのだって、
戦いに補給が追いつかなくなってしまったから。
補給の範囲内で戦闘をデザインしないといけなくて、
勝つことで補給を現地調達・・というのは、
一部真理ではあるけど、長期的には無理がある。
そういう戦略を練るところに議員さんの存在価値が
あるはずなのに、補給とか、補給物資そのものを
作り出す人を軽視しすぎ。
どんな会社だって、儲けを目指して活動しているけど、
儲けの一部は必ず内部留保しようとする。
いわゆる裏金もそう。裏金ってそもそも
何かあったときに人にかけるお金。
どんな組織にも、裏金に当たるものがあるのはよくわかる話。
これが会社を維持するために必要だからだ。
もしかしたら、会社が内部留保の分も仕入れに使ったら
もっと儲かるかもしれないけど、
それをやる会社はつぶれるリスクが跳ね上がる。
で、もっというと、長い目で見れば
社会保障などの補給の範囲と、
国の経済的実体的戦闘行為は、
お互いがお互いを既定し合うんだと思う。
で、さらにいうと、
僕は人だって同じ論理が当てはまると思ってる。
人は他の人たちと戦闘を繰り返して生きているけど、
社会で何かを望むとき(戦闘行為に及ぶとき)
自分の補給をつかさどる背景をぬきにして
望んではいけないと思う。
単純に金銭面で考えても、
昔は「人は人、うちはうち」とその家の持つ
金銭の余裕の範囲内で小遣いがもらえ、
分相応な買い物しか出来なかったし、そういう
補給に見合ったお金の使い方が叩き込まれた。
僕自身貧乏性はまったく抜けない。
贅沢するとすごく不安になる。
そういう自分という独立国家?みたいなものを
補給の範囲内でものを望むやり方は、
家庭で「我が家のやり方」として
レクチャーされてきたんだと思う。
金銭面に限らず、社会の中での人間関係においても。
だから、「あれが買いたい」と欲しがって、
サラ金に補給を頼むようでは破綻して当たり前だし、
人間関係で、人に認められたいと望むのも、
自分のもつ実力以上に望むとき、補給がないままに望むとき、
人間関係が激しく破綻するんじゃないかと思っている。
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金曜の夜に朝○で生テ○ビ?を見て
もやもやした気分が抜けない。
ワーキングプアの問題を取り上げて、
貧困問題について議論していた。
自民党の議員さんが、社会保障をうんぬんするより
プアな人にスキルを学ぶ機会を!と繰り返しているのは
すごく嫌な感じだった。
プアな人の側にたつ人の「社会保障は全てに優先する」という主張は、今回に限って僕は大賛成。
何が嫌って、スキルを学ぶ機会を!というけど、
その発想の順番がおかしいと思う。
欧米諸国との経済戦争を勝ち抜くため、みんな
今の社会で生きるためにスキルを高めるべきって・・・
スキルって何?専門性のある能力という意味なの?
それは搾り取る側の論理でしかないじゃない。ちゃんと国として戦略的に考えようよ。
まずおかしいと思うのは、
たしかにスキルというパラメータで計ると
格差がつく背景に、個人能力差がベースにあるんだけど、
勉強し慣れていない人に「勉強が足りん!」といって
「勉強できる機会を与えよう!」って・・・・
それ絶対問題を解決しようとしてないと思う。
具体的に考えても「スキルを取得する機会を!」
とかいわれて、失業者が資格をとったとしても、
その先資格を使いこなせる人がどれだけいるんだろう。
これ学校の先生なら、教師失格って言われても仕方ない。
まともな学校の先生なら勉強以外のいくつかのパラメータ
(優しさとか運動が出来るとか、面白いとか)を用意して
別の角度で評価して、勉強し慣れていない子に社会に評価されて貢献する機会を与えると思う。
自民党の議員さんは、スキル(能力)というパラメータで
個人だけじゃなく、社会をズバッと切って見せた。
でも、そもそもたった一つの切り口で
社会を論じるのがおかしいと思う。
社会を論じるなら、少なくても2つのパラメータが必要。
①別の(敵対する)社会と戦うための戦力、
②その戦力を維持するための補給力。
スキルうんぬんと語っていた自民党の議員さんは、
本当は諸外国との戦いしか語っていない。
外国経済の戦いに勝つためには、今企業に負担はかけられない!と。
極言すれば、勝つためには犠牲はつきものと話している。
「だからみんなスキルを高めようよ!」という議員さんの話は
一見筋が通ってみえるけど、うそばっかり。
逆に補給が戦闘を限界付けるという面が抜けている(続く)。
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週末に薬屋さんの勉強会で、発達障害(アスペ)の症例報告を聞いた。
児童精神科の先生がすごくまじめに検討していた。
すごく手間ひまかけて診断してる。
えらいなと思う。
でも、僕がいるような民間病院で、
あれをやれといわれたら大変だなとも思う。
たぶん、1人の子どもを診察する間に、
5、6人の患者に手間をかけたいい診察が出来る。
薬屋さんの勉強会を聞いていて違和感を感じたのは、
発達障害(アスペ)かどうか、そのことにすごく神経を使っていて、
その後の治療展開からあんまり逆算して考えいるように見えないこと。
僕は病名(精神病以外)はラベルだと思っていて、
その貼り方は、その人の治療プランが決めるんだと思っているけど、
あんまり児童の人はそう思っていないらしい。
僕は今まで発達障害という診断は、
患者さんを取り巻く状況がこじれてしまって、
みんながその罪を互いに擦り付け合って困るからつけるんだと思っていた。
悪いのは誰かじゃなくて、生まれつき。
患者さんが社会に合わせる前に、
社会を患者さんにあわせましょうというラベル。
「障害」と診断をつけることで交通整理をする。
当然ラベルを貼る以上は、社会とのすりあわせまで
責任もってやるべきなんだけど、どうもそういうのは
児童では常識じゃないのかな?
診断して、社会を患者さんにあわせましょう!では、
今の一瞬は患者さんも家族も楽になるけど、
時間がたつにしたがって矛盾は大きくなって大変だと思う。
それが「障害」といわれるレベルであるほどに。
僕はADHDだけど、やたら衝動性が高いのを
障害として尊重されてしまっていたら、今社会でやれていたのか疑問。
やたら叩かれて痛い目をみたし、自己突っ込みみたいなものは
すごく強くて、いつも道を歩きながら「馬鹿じゃないのか」とか
自分に対して独り言をぶつぶつ言っているけど、
それでも社会人として何とかやれている(たぶん)。
個人に社会のほうを合わせるような指導というのは、
すごく怖いことだと思う。個人の能力をスポイルして、
本当に困るのは数年後。
そして、その数年後はもはや手遅れ。
社会にでるなんて出来なくなっているんだと思う。
だから場末の民間病院で毎日患者さんをたくさん捌いて
患者さん(お得意様)と一緒に生きていく立場からは、
その診断に要する労力を数年先のプランを描くところに
さいてほしい。それを勉強会では教えてほしい。
みんなどうやって患者さんを支えているんだろう。固定リンク | コメント (6) | トラックバック (0)
(前回の続き)家庭だって同じこと。
よくいうのが、精神科医の家庭と教師の家庭は正反対。
精神科医の家は、子どもが学校できつくなると、
現実を撤退(不登校)することに妙にハードルが低いけど、
教師の家は非常に厳しかったりする。
別に親がうるさく言うわけじゃないのかもしれないけど、
監督である親の価値観はチーム(家族)の戦略に影響を与える。
だから、「うちは普通の家です」という人がいるけど、
普通の家なんてどこにもなくて、みんなどこかしら個性的。
そこにいる監督と選手が一緒になって作る価値観があるから。
親と子ども、家族の責任者と家族が一緒になって創る価値観。で、昨日の続き。
自分の気持ちにこだわることなく、
周囲の人に目が向けることが出来るかどうかというのは、
この「価値の問題」に関わると思う。
特に家庭という集団で考えるなら、
そこでは、家族と本人で作り上げた価値観がある。
チームのスピリッツがある。
患者さんは、そこから脱落したから精神科に来るのであって、
チームで活躍できている選手は精神科に来ない。
だからこそ、脱落した選手を再生させるには
「野村再生工場」じゃないけど、チームのスピリッツそのものを
修正する必要があると思う。
自分がチームの勢いに乗り遅れていたり、完全に脱落している時に
フォアザチームの心は育たないし、フォアザチームの行動はとれない。
父がいて母がいて、一般社会の常識で生活している家では
「まじめに社会のために働いて食っていくのが当たり前」の状態。
(もしくはもっときつい価値観かもしれないけど)
そういう価値の元毎日みんな生活している。
そこで脱落してやんでしまった場合、一人だけ違う価値観で
「はたらくより病気の治療優先」ということが本当に出来るのか。
医者はそれをすすめるけど、後ろめたさで
敏感になっている患者さんには「休む」のはきつい。
外来で専念している患者さんが、入院するだけでスッキリよくなるのを
何度もみているけど、たぶん「治療優先が当たり前」という
病院独特の価値観が、その人に有効に働いているんだと思う。
だから、弱っている患者さんに「いいよ休んで」という家族は、
自分の価値観にもう少し敏感になると上手くいくんだと思う。
休んでいいよといいながら、いっていないケースがたくさんある。
もちろん家族に悪気なんてないし、良くなって欲しいに決まっているけど、
だからこそ、自分たちの社会に対する本当の気持ち(価値観)と、
患者さんに対してとっている行動のギャップを、
家族自身が上手く消化しないと、
患者さんが休めないし、家族の優しい気持ちに向き合うことが
出来なくなってしまうと思う。固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
人間はみんな立っている。
立つってことは、立つために必要な体の構造というものがあって、
それはベースとして人類共通の構造があるんだけど、
実はみんな一人一人は微妙に「立ち方」は違っている。
その人独特の生活のあり方-野球選手だったり、
サラリーマンだったり、農家の人だったり、
その人の毎日の運動の仕方や休み方で、
その人の立つという運動のあり方は違ってくる。
人間の心も同じで、同じ日本に住んでいれば
基本的な「(社会に対する)価値観」は同じで、
日本の憲法や法律の範囲内で社会の中でどう立つべきか、
基本的な構造、最低限のルールはみんな共通。
でも、一人一人をみると微妙に「社会観」というか、
社会に対する価値観が違っていて、
自分の肯定の仕方が違っている。
単純に考えてお金持ちのぼんぼんと貧乏人の倅では
同じルールで生きていても、社会の見方が全然違う。
社会から与えられるのが当たり前と思う人と、
社会の一員となるには頑張らないと!と思っている人。
(ここで書いている価値観というのは、野球よりサッカーが好きとか、
そういったレベルじゃなくて、社会の見方という意味)
人それぞれ価値観が違うのは、みんなわかっているけど、
集団には集団の価値観というものが存在することには意外と鈍感。
今日の話は、家族という集団にも、独特の価値観というものがあって、
患者さんが社会復帰する上で、そこを意識すると
だいぶ上手くいくんじゃないかという話。
たとえば、プロ野球チーム。
監督が変わるとガラッとチームが変わることがある。
スポーツニュースで解説を聞いていると、
昔は「気迫が変わった」とか監督の闘志が乗り移ったとか、
よく精神論で語られてきたけど、今では「チームのコンセプト」
という文脈で語られることが多い。
チームのコンセプトが変わるってどういうことかというと、
「何が正しくて何が間違っているか」という価値の変更が行われるということ。
一人の監督の強烈な認識が、集団の価値を強制的に変更し、
それがチームの戦い方を変える。
だから、サッカーでオシム監督が日本代表監督に就任したあと、
すごく日本サッカーが面白くなった。素人ながら
試合の仕方が少しずつ変わるのがわかって面白かった。
今はそのコンセプトがみえないからダメダメになっている。
家庭だって同じこと。(続く)固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
患者の気持ちを大切にする医療ってすごく大切。
でも、そもそも患者の気持ちを大切にするって何?
個人的な気持ちを大切にしすぎると社会復帰がおろそかになる。
熱心な同僚のドクター。
遅い時間まで残って一生懸命入院患者と話している。
口癖は、「患者さんを支えてあげたい」。素敵だと思う(まじで)。
だけど、患者個人の気持ちを医者が尊重して支えるというのは
美しい話で異論の余地はないはずなのに、
現実には「支えることで病気や状況が悪くなる」ことがある。
患者さんの辛い・苦しいをわかってあげられる
ドクターは素敵だけど、守り続けてどんどん悪いほうへ。
軽症に限らず、病気がよくなりつつある人は、
周囲で支えてくれていた人の気持ちに気がつく。
「今まで支えてくれた親(友人)に感謝してる」とか。
目がちゃんと周囲の人に向いて、
周囲の人の気持ちにこたえようとする姿は感動的。
そこから無理して社会生活が破綻しないように
コントロールをするのも医者の大切な仕事なんだけど、
今日の話はそっちじゃなくて、
どうしたらそういう風に周囲の人の気持ちに
目を向けられるようになるかということ。
だって、本当に大切にしてあげたい気持ちって
そういう気持ちじゃないですか。
「患者さんの気持ちを大切に」という医療者の多くが、
家族に患者さんの「辛い・苦しい」気持ちへの隷属を要求する。
そのつもりはなくても、医療者のスタイルがそれに近いので、
家族はそれに習うしかなくて、煮詰まるばかり。
(医療者の場合は、隷属しているスタイルでも
患者をいつでも捨てられるので患者は無茶がいえない)
僕は、患者さんが周囲の人と向き合えるようにするためには、
患者さんの今の気持ちを大切にしても仕方ないと思っている。
それよりは、たとえば家族なら、家族の一員としての義務を、
社会人なら社会人としての責務を、可能な限り
本人の出来るレベルまで落として(必然的に家庭内の話になるが)
全うさせることが大切だと思う。
周囲の人間の気持ちを大切にできるために、患者さん自身の
気持ちを大切にする・・・なんてファンタジーだと思う。
気持ちって、生活の中の事実から2次的に派生してくるものだから、
「生活の形」をつくるところからスタートすべきというのが持論。
病気だって、器質的なものでなければ、生活からの2次的な派生。
だったら、その生活の形・・・家族の一員として
食器のあげさげ位するとか、朝の挨拶やそうじくらいは必ずするとか、
一見ばかばかしいと思われがちな、そんな事実の積み重ねを
無理ないレベルで行っていく。
患者の気持ちを大切にするといいうのは、
僕にとって、患者の個人的なこだわりを大事にすることじゃなくて、
社会の一員としての感情を大切にすること。
だからミニマムな社会でちゃんと一員としての生活をさせる。
たぶん、患者さんは本当はそういう世界での喜びを求めているはず。
僕が患者になったら、たぶんそうだし。
この話には、本当は生活の中の頑張りを「価値として評価する」
という大事なプロセスが抜けているけど、それはまたこんど。固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
先日商社の友人と飲んでいて、恐ろしい話を聞いてしまった。
官僚は本当にインテリジェンスが低いのかもしれないという話。
僕なんかは、国の舵取るをする人たちは東大卒で、
僕よりずっと頭がいい人たちのはずだから、
どんなに頭が悪いような策を提示してきても
裏があるはず・・・とか思っていた。
実際、昔よく見た餌を撒いてはしごをはずすやり方は、
良くも悪くも「そこまでやるかよ」という感じで、
読めていても、それに従わざるを得ないような
そんなビジョンの描き方をしていた。
「ひどい!」とかいう病院経営者もいたんだろうけど、
それに鍛えられて、今ではみんなソフトランディング。
でも、今の先の読めなさはびっくり。
主治医制も頓挫し、姥捨て制度も「包括制」という本丸を
守るために「天引き」とかいうどうでもいいことを
マスコミで騒がせているのかと思っていたら・・・・
本丸すら危ういのか?どうも見ていてよくわからない。
で、商社の友人が酔っ払っていうには、
本当にお役人、特に今の課長クラスは頭が悪いんだそうな。
ポイントは「バブル」。
バブルの時期って、就職活動をしている大学生には
信じられない天国のような世界で、民間企業から
すごい待遇で迎えられていた。
その友人は1流半の大学出身だったけど、
それでも30社以上引く手あまたで、就職活動中はまさに「豪遊」。
そんな時期に官僚に入ろうとするやつって、
どんなタイプか考えてみたらわかるだろといわれた。
みんな高給を約束されて、引き抜かれていく中、
同期の半分以下の給料で酷使されることを選ぶ人間とは?
使命感の強い人間?親や親族が官僚だった?
もちろんそれもあるだろうけど、そこに行くしか
他になかった人が少なからずいたんじゃないかと。
大学生だけどボーダー○イキューとか。
そして、そういう人たちが、今40代になって課長クラス。
つまり今「実務のトップ」になっている。
僕は、彼らが頭がいいからちゃんと先を読んで動いている
と思っていたけど、単にその場しのぎとか、
単なる縄張り争いで落としどころを探ったら今の位置だった・・・
とかあるのかもしれない。
だとしたら、頭いいやつらに陥れられるより100倍恐ろしい。
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医者という人種は、私益が公益に優先する。
おかしな言葉に聞こえるかもしれないけど、
公益が私益に優先してしまうと、
医者のインテリジェンスはたいてい悪い方に働くと思う。
だって、公って誰かが作ったルールのことで、
ルールは解釈次第でどうにでも破れるものだし。
たとえば研究。データなんてどうにでも解釈できる。
データは玉虫色でもちゃんと体裁が整った論文なんて、
雑誌を読めばいくらでも載っている。
ルールに沿って、最小限の努力で最大の効果を!
なんて、医者にとって一番簡単なこと。
でも、医療とまじめに向き合うほど、
治療をまじめに悩んだりするほど、
そういうやり方と対極に向かうようになる。
全力を出して、その先のプラスアルファを夢見てしまう。
昔の自分の仕事振りより一歩でも先にいけて、はじめて
自分をほめてやれるようになる。
どう自分の全力以上を出し続けるかが問題になる。
そうなったとき、医者の私益は、
患者さんの利益と確実につながる。
だって、僕は私生活で苦労したり楽しんだりしていても、
全部精神医療からしか考えられなくなっているし、
私生活のもろもろが、自分の医療における考え方に還元されないといやだし。
自分の「私」が豊かになるほど(金じゃないよ)、
たぶん、患者さんたちへの還元は上がると思う。
患者さんたちに対する公益を第一に考えないと
不真面目だというのは絶対に間違っている。
「公共の利益を最優先」と強制されたとき、
強制されてまでプラスアルファを求める医者はいない。
最小限の努力で最大の効果を求めるほうにシフトする。
医者の頭の中をみることは出来ないから、
行動とか出てくる数字をみるしかないけど、
事務系の人たちにわからないようにごまかすなんて、
そんなにむずかいしことじゃない。
情熱を医療以外に傾ければ、それは本当に簡単。
でもそれじゃ誰も幸せにならない。
だって、僕らは僕らなりの夢を描いて暮らしてて、
その実現のために社会で仕事をして金を稼ぐけど、
金を稼ぐためじゃなく、仕事に夢をみたいじゃない。
仕事が夢なのか、稼いだ金で違う夢を描くのか、
それは人それぞれだろうけど・・・
まあ、とにかく、公益が私益に優先しちゃう病院、
そのへんのことがわからない事務系の人が多いところは、
すごく医療の質が落ちるんだと思う。
もっと上手に僕らを使ってくれれば、
今よりさらに馬車馬のように、質も上げながら働くのに。
・・・ただ、現状を徹底的に肯定するなら
今は医者が最低限の努力で、
最大の効果を目指す時代とわりきって、
公益の範囲内で生きることが大切なのかもしれないけど。
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医局にあった「精神医療」という雑誌を読んだら
発達障害についての座談会が載っていた。
チラチラ読んでみると、とても面白かった。
「発達障害」というラベルを患者さんに貼ることで、
その実状がかえって見えにくくなるという話。
なんでもそうだけど、ラベルとして成立している概念は
その中核群は本当に特殊なもので、
「発達障害」というしかないものなんだろうけど、
それがブランド化すると、色んなものをその概念の中に巻き込んでいく。
で、ちょっとおかしいんじゃないかという時に、
原点に返って考えてみようというのはわかる話。
じゃあ、原点ってなんだろうというときに
座談会に参加していた精神科医じゃない人が
日本的には「おくれ」って表現してたんじゃないかって。
ああ、そういう見方っていいなと思った。
人によっては侮辱的な表現ととるかもしれないけど、
その人の属する社会の中にちゃんと位置づけられる。
ラベルを貼るとは、「違うもの」として整理すること。
「おくれ」というのは伸びを待とうという意味で、
社会からその人をはじき出さないと思う。
座談会の中でも語られていたけど、
朝青龍のことは、本当は相撲協会の中のお話。
それを解離とか衰弱とか精神科医がラベルを貼ることで、
その社会の秩序を揺さぶって、そのつけは本人にも及んでしまう。
あの騒動は色んな思惑が絡んで微妙に落ち着いたけど、
相撲界や本人に及ぼした影響は、
これからはっきりして来るんだと思う。
精神科医じゃない人は、ラベルを貼りすぎることで、
その社会の秩序が揺るがされる!
(本人が疎外されるしかない!)と言っているのに、
やっぱり精神科の先生のいうことは
「ラベルの中身をちゃんと規定しないと」。
あくまで社会からじゃなくて、個人から見ている。
精神科医としてはそうあるべきなんだろうけど。
僕としては、「おくれ」の子達が少しずつ伸びていくのを
見守ることが当たり前であった社会が、
何故障害としてラベリングしないとすまなくなったのかを
わかりやすく話してほしかった。
座談会の最初の方に少し書いてあったけど、
そういう子達を支えていたのは教育・福祉・医療で、
それが産業構造の変化で影響を受けてこうなったとか。
その辺の話もよくわかる話で十分面白かったけど・・。
発達障害ラベルも、本当は「おくれ」という言葉同様、
「その子の伸びを見守る必要がありますよ」
というラベルであるべきなんだろう。
「これは異質なものです」ではいけないんだと思う。
でも社会では、けっこう異質なものというラベルで
使われていることが問題というところか。
「伸びを待つのが当たり前」という状況に
シフトするためには、何が必要なんだろう。
現状を肯定するなら、発達障害とラベルされた子達を
特殊教育で支えていくのをどんどん後押しすべきなんだろうけど、
特殊特殊とやってもあんまりみんな幸せになるような気がしない。
特殊を特殊として支え続ける余力は
社会になくなってきているように感じるんだけど。
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