最近になってやっとわかってきたことがある。
今まで精神科医ってプレイヤーだと思っていたけど、
実は、シナリオライターであり、演出家なんだと思う。
もちろん、舞台に上がってプレイするんだけど、
自分のプレイが自分のシナリオから外れていないかどうか、
ライターや演出家の目で常時チェックしてる。
精神分析とか、認知行動療法とか、薬物療法とか。
環境調整とか、家族療法とか、支持的アプローチとか。
患者の認識を変えるための手段はたくさんあって、
いろんな偉い先生が本に良いことを書いているけど、
それぞれの手法の本当に大切な部分は、
それを使うとどういうシナリオになるか、
ある程度規定されるところだと思う。
「恋愛もの」とか「ホラー」とかシナリオの大枠が決まると、
「お約束の流れ」というものがあるので、とっても書きやすい。
経験をつんだ精神科医はいろんな手段を組み合わせて
自分の得意なシナリオを書き、自らそれに乗ってプレイする。
だから患者にとって大切なのはそのシナリオ。
個々の技法は問題じゃないんだと思う。
いいシナリオは患者に無理を強いずに、かつハッピーエンド。
・・・シナリオというと、ちょっと誤解を招くかもしれない。
要は世の中の厳しい流れの中に、もうひとつ
患者さん中心の流れ(世界)を創るということ。
みんなが住んでる世界から脱落したのが患者さん。
脱落して自分の頭の中の世界で闘いを続けてる。
頭の中から出てきて、現実の世界で闘おうよ(やりとりしようよ)
といっても、厳しい世の中にはちょっと出にくい。
だから世の中の流れの中に、もうひとつ
「患者さんが中心の世界」をつくっちゃう。
これが僕の言うシナリオ。
人間はどこまでいっても自分を肯定する中でしか生きられない。
もう一度現実で頑張ろうと思うには、自分を認めることからはじめるしかない。
だったら、患者さんを中心とした世界=状況を設定して、
その世界を世の中の流れに近づけていくことが
一番治療的なんだと思う。
大学で研修医の指導をしていたころ、
治療の流れを指導していたことがあるけど、
あれこそ監督業だと思う。今だったらもっと上手くできると思う。
研修医が役者として大根なのか、演出が下手なのか、シナリオが駄目なのか、
ちゃんと判る気がする。
ちなみに僕はシナリオはいいけど、演出が並で、大根なので舞台を壊すタイプ。
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宇和島の徳州会のはげた先生のお話。
病気腎の移植をしたから、罰をうけるとか。
アホらしくてやってられないだろうなと思う。
精神科臨床している立場からは、あれは「あり」。
倫理云々じゃなくて、「病気腎」の立場に立って
考えればわかるはず。
元の体では実力以上に酷使されるから
「病気腎」となるしかないけれども、
無理して働かなくていい状況なら、
「弱った腎臓」としてそこそこ働けてもおかしくない。
だいたい、腎臓が単体で悪くなることがあるのだろうか?
病気腎を腎臓だけで病気になるかのように騒ぐのがおかしいと思う。
病気の腎臓・・・それを摘出しなきゃいけないほど
実体が歪むということは、そこに「酷使」という状況があったはず。
人体は繋がりあって、全体として脳が統括しているのだから
腎臓は、肝臓や腸や血管や血液やいろんなものと絡み合っている。
元の体には腎臓の機能がゆがむほど
酷使してしまう構造(繋がり)があったと考えるべき。
機能がゆがむから実体も歪んでいくのだから。
もちろんデータには出ないけれども。
宇和島の先生は、そんな状況の病気腎を摘出して、
腎不全の人の体に入れてあげた。
腎臓が「働かないことが当たり前」の体に入れてやれば、
周囲から無理を強いられることがない分、
弱った腎臓としてふつうに機能する可能性は十分にあると思う。
これを否定することは、精神科の入院治療を否定するのと同じだから。
精神科の患者さん。
会社や学校に行けなくなって、うつっぽくなって、
それでもしばらく家にいたら、「うわー」とか言って暴れだす人はたくさんいる。
そういう人を入院させる(摘出する)経験って精神科医なら
誰でもあると思うけど、これを患者単体の問題としてしまうと、
あまりにかわいそう。
患者さんなりの頑張りは絶対にあったはずだけど、
周囲の要求とかみ合わないうちにどんどん追い詰められて、
そこにいるだけでは「病気人」となるしかなかった。
父親や母親や兄や教師や上司や登場しない友人や
いろんなものとの目に見えない繋がりの中で、
自分の頭が本来の実力以上に酷使されるという構造があったはず。
でないと勝手に「うわー」とはならない。
入院でこういう人がよくなるとしたら、
それは薬で沈静するという以上に、
無理して動かないで当たり前という状況にいれたから。
無理に働かせない環境で動かし、新しいつながりをつくれたなら
きっとそれは「病気人」ではなく「弱った人」として機能できるはず。
たしかテレビで、病気腎を病気の人に入れてよくなるはずない
という論調があったと思うけど、そんなこといったら
精神科なんて、患者さんを患者さんの集団の中に
ぶち込んで様子を見るのだから、そっちのほうがひどい話。
そうじゃなくて、酷使して使い物にならなくなった腎臓を
「弱った状態でいいから働けるようにする」
「本人のもてる力を発揮させる」
そういう意味の治療なんだと思う。
だから、あの宇和島の少し頭のはげた先生は
論理的に正しいことをしているし、海外で評価されるのも当たり前だと思う。
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患者の内面に配慮しない精神医療。
そんなものはないけど、
医療がビジネスと同一線上で評価される昨今、
昔かたぎのやり方では廻らなくなりつつあるのも事実。
生産性を上げないと飯を食っていけない。
だから最近読む本はビジネス関係の本。
精神科の本よりよっぽど面白いと思う。
ビジネスの世界の方が医療より先に足場が崩れた。
終身雇用の安定化した世界観が壊れて、リストラの嵐。
アメリカ型の成果主義の会社に生まれ変わらないと
生き残れない、そんな世界。
先日読んだ会社のマネージメントの本。
新人教育は3年目まで。
3年やって駄目な人間はさっさと会社から
戦力外通知を出したほうがよいという話。
終身雇用の頃は、直属の上司が新人を
わかるまで手取り足取り教育するのが普通だった。
夜は飲みに連れて行って、愚痴を聞いたり聞かせたり。
でもそういうのって、夢に一般性があった頃の話。
今は個性化の時代。
そもそも会社に求めるものが多様化している。
だから上司は、「一緒にやろう」とするのではなく、
新人の多様化した価値観を認めてやる作業と、
「成果を出せるかどうか」判定する作業の
2つをやるべきらしい。
上司が部下と一緒に生きていくという選択枝はない。
結局会社では、その人の人生はしょえないという
当たり前の事実。
その人の価値観を認めるという美麗字句のもと、
その人なりのあり方をほめてほめてほめちぎって、
成果が出せるかで評価する。出せなければ首。
ある意味極めてフェア。
なるほどなあと思った。
世の中そこまでいっているのか。
病院にもシビアな成果主義の流れがくるのかも。
病院職員に対する成果主義はもう来てるけど(軽く)、
医療の中身もそれで測られるようになるのだろう。
だとするならば、生産性を高めるために
相手の価値観まで手を出すことは出来なくなる。
治療目標も、社会復帰とか、その人なりの生き方を模索とか、
そんなあいまいなものは駄目になって、
設定可能な目標―症状の消失を目標にすることに。
症状は消えるけどいつまでも社会復帰できないとか
いくらでもありそう。
その人の価値観に口を出すことは、治療上
とっても大事なことだと思っているんだけど、
ビジネスとして考えたら、それは間違っているんだね。
まあ、10年後本当に焼け野原になったあとなら
成果主義もありと思えるけど、
今はまだそこまで割り切れない。
でもたしかに、「その人なりの価値観」に
口を出すところを医者が一人で手作業でやっては
産性があがらない。
なんとか生産性を挙げるために
集団療法でパッケージしたりとか、
周囲の病院と連携して一緒にやるとか、
いろいろ考えているけど、何かいい手はないかな。
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精神科の講演会とか研修会とかで偉い先生の話を聞いてよくわからないのが「チーム医療」。
1人の患者に5人も6人もいろんな専門家が集まって情報を分析したり方針を立てたりすることが大切って・・・ どこにそんな時間や資源があるのだろう。 考え方としては正しいんだろうけど。 チームという考え方と「それを運用すること」は別なんだと思う。
現場って真面目に働いていれば、慢性的な人手不足。1人に必要以上に手間ヒマかける余裕はない。「患者さんのために頑張ろうよ」・・って、1人に手間をかけたら他の何十人かはその10分の1くらいの手間しかかけられなくなる。純粋に時間配分の問題。患者は山ほどいる。
だから、現場でチームを運用しようとしたら、患者1人を5,6人がフォローしようと考えるのではなく、患者60人を5,6人でフォローすることを考えたほうがいい。
集団を集団でフォローする体制を目指す。
よく偉い先生方は、各専門職種が専門性を発揮して・・・という話をするけど、それは当たり前の話。チームを運用するためには、それぞれの専門職種が専門外(ほかのメンバー)の視点を学ぶことが一番大切なんだと思う。
いわば、サッカーでオシム監督が要求していたこと。
ジーコの頃は極めて有能なタレントが多くいたので、「それぞれ専門性を発揮して、ひとつのボールに関われ」でなんとかなった。でもオシム監督は、そこそこのタレントで勝ち抜くために、選手にポリバレントを要求した。自分の専門職(フォワードとか)以外の職を体験させて、一人が2つ3つのポジションを出来るように。
僕はこれが集団対集団を勝ち抜くための大事なポイントだと思う。
僕らは万全の体制で患者に向かうことなんてまずない。患者の変化は、どこでいつ起きるかなんてわからないし、そのイレギュラーなものに、医者が気づいてパスを出すまでみんな動かないんではちょっと厳しい。医師しか基点になれないのでは、チームで集団が捌ききれない。
だから、みんな(看護師や心理士、ケースワーカーなど)医者の視点を知るべきだし、医者は彼らの視点を知るべき。
おたがいの視点をどこかにもっていれば、一人一人はそんなに優秀じゃなくても、ボールが来れば一人が動き、ほかが合わせることが出来る。そうやって、イレギュラーに対してみんなが連動して医療の「形」が作れれば、チームとして(個人では不可能な)レベルの高いサービスを提供できる。
たぶん、意識の高い超優秀な人は、全体の中での自分の役割が明確にわかっている。彼らが専門性を発揮するといった場合、他職種の視点が十分にわかっているからすぐにチームにあわせられる。一流選手とはそういうもの。でも凡人がチームで戦おう(運用しよう)と思ったら、専門性を高めるだけではなく、専門外(チームの他職種)の視点を高めることが必要なんだと思う。
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