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鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
「政治も教育も必要悪である。優れた政治家になるほど、
政治が必要悪である自覚を持つ。ところが理想に燃える教師ほど、
教育を必要悪ではなく、『善』だと思ってしまう」とのこと。
呉知英さんの言葉らしい。
これって、集団を相手に一つのルールを作り上げる仕事は、
(善を志向していても)必然的に善というカテゴリーに
とどまることが出来ないということだと思う。
その評価を下すのが集団の一人一人であるかぎり。
精神科の医療・・というか、医療も全く同じだと思った。
僕らは診察では1対1で患者さんに関わるけど、
全ての人にオーダーメイドの治療を!なんて、偉い老先生の戯言。
現場は毎日凄いスピードでフル回転しないと廻らない。
感覚的には「患者集団を相手に仕事する」気分。
そこでは、どんなに頭を使ってもオーダーメイドにはならない。
やっぱり自分流の進め方で通して、
それに合わない患者さんが手からこぼれ落ちる。
精神科は認識を扱う仕事なので、
合わないでこぼれる人の治療は失敗ということ。
で、問題は失敗した人の治療ばかり覚えている自分。
もちろん、それが自分の能力を高めてくれるのはわかっているけれども、
忙しくなって一日に診る患者さんが増えるほど、
こぼれる患者さんが増えていく。フォローしきれない。
「あの人に善いこと(治療)ができなかった」
これが結構、ダメージになる。
大学病院時代は、重い患者さんばかり診てたけど、
実は自由になる時間がたくさんあって(昔だが)、
1人の患者さんにこだわることができた。だからほぼ
オーダーメイド。こぼれることはほとんどない。
だから「善いことをしている自分」に自信満々だった。
でもなあ、贅沢が許されたから、
こぼれることが悪いことのように思うのだろう。
幼稚な正義感。医療も本質的には必要悪!
医師として自分が研鑽した「医療」を
患者さんに提示していけばそれでいいんだと思う。
それが患者さんの思いにあわず、反発されたり、
拒絶されたりするんだろうけど、それはそれで意味がある。
ちゃんと大きな声で、医師が一つの基準を示せば、
それを悪と捉えられても意味がある。
その規準を患者さんが踏み台にして、見方が広がる可能性があるから。
何も無いところには、変化・成長は現れない。
昔、自閉症を扱ったマンガを読んだ。
成長した自閉症児が自分の過去を語っていて、
「軍隊のような幼稚園」で厳しく躾けられたことと、
「やさしい先生の保育園」で自由気ままに学んだこと
が対比して書かれていた。
軍隊幼稚園は酷いところ!といいたかったようだが、
どう考えても自閉症児が本が書けるほど立派になったのは
構造化された厳しい訓練があったためだと思う。
だから僕らの声は大きくないといけない。
それは、そういう役どころだから。充分な研鑽を積んだ声は、大きいだけで意味がある。
まあ、僕らが示す基準が、医療パッシングの為に
控えめにならざる得ない現実もあるわけだが。
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思春期から青年期の患者さんを診ることが多くて、
ふと自分の診かたの変化に気がついた。
医師になって4、5年目のころ。
患者さんの診方に少し自信がついて、
自分なりの方法論っぽいものを考えたりしてた。
当時は「崩し方を教える」やり方。
患者さんには、自分のルールが凝り固まっているせいで、
現実に適応できずに神経症圏になっている人がたくさんいた。
そういう患者さんに「ほら、こういう崩し方もあるんだよ」
とか教えて「いい加減にやる方法」を学ばせていた。
でも、このやり方は、病気の人しか通用しない。
大学で診療していた頃は、選りすぐられた病気の人を診ていた。
民間病院にきてびっくりしたのは病気の人がほとんどいないこと。
正確には、大学病院で病んでいたレベルの人がいない。
大半が病気と診断されることをすぐ受け入れてくれる。
「いいんだよ、頑張ったじゃねえか、無理すんなよ」
そんな言葉をぜんぜん受け入れない人たちを
少しずつ崩していくのが治療だと思っていたけど、
民間ではその言葉をひたすら待っている人ばかり。
これは本当に医療なのか、本当は福祉とか、
ケースワークのレベルの話ではないのか。
とも考えたけど、やっぱりこれも医療・・・・
現状は徹底的に肯定しないと駄目。
で、今やっていることは「頑張ったじゃないか無理すんなよ」
は同じでも、崩しは目的ではなく、コネクトするための手段。
崩しは導入。本命は生活の形を崩させずに粘ること。
病気を喜んで受け入れて社会から撤退する人は
自宅でもきちんとやるべき課題・果たすべき義務を設定すべき。
昔は、思春期の子が適応障害で親が頑固な堅物だと
「親を変えなきゃ」と思ったものだが、今はまったく違う。
昔は、学校を休むなんてとんでもない!と怒り出す親と
けんか腰でやりあうなんてよくあったけど、幸せな治療だったと思う。
今は親が頑固な堅物だと「ラッキー」。
頑固な堅物もこっちでやらないといけないのは大変。
自分の中に基準があって、自分に苦しむ患者を
社会に適応させるべく治療するのはたやすい(わかりやすい)。
基準が無い患者に基準を作りつつ治療するほうがずっと難しい。
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研修医に新患の診かたを教えていたころ。
優しくて真面目な子ほど患者の生活歴を読めなかった。
「虐待」があれば悲しい目にあった可哀想な人。
「いじめ」を受ければ辛い目にあっている被害者。
自分の主観でストーリーを組み上げてしまって
客観的な視点を失いがち。
RPGを結構やるようになって、
今なら昔よりは上手に教えられるかも。
新患は、医者の前にレベル29くらいでやってくる。
思春期の患者さんならレベル18くらいか。
どちらにせよ、戦士か魔術師か、賢者か、踊り子か。
キャラクターとしての方向性はだいたい定まっている。
生活歴を読むということは、患者さんが
自分自身をどうプレイしてきたか見るということ。
レベル1から始まって、経験値をためてレベルを上げる。
レベルが上がった時、ポイントをどこに振り分けたのか。
攻撃力か防御力か。
=社会で自分を主張する力か整える(守る)力か。
物理か魔法か。
=身体的能力を使ってか、頭を使ってか。
「虐待」という事実を見たら、
その経験値を何に振り分けたのか診ることが大切。
生活歴が現在の病状の理解にぐっと役立つようになる。
普通、防御力(痛みを感じないスキルとか)に振るから、
そこが特化されて魔法防御主戦型のキャラに
なることが多い。
思春期の患者さんを診ていると、
親の存在の大きさを感じる。
患者さんがどういうキャラを志向するかは親の影響。
親はたいてい魔法攻撃主戦型になってほしがるが、
その時々の子どもの気持ちを考えず、
攻撃力ばかりにポイントを振ってしまうと、
打たれ弱さが目立つようになる。
だったら、闘いでは後列に配置して、
前列に出ないようにしなくてはいけないのに・・・
病院にやってくる不登校やらうつの患者さんたちは、
みんな最前列で魔法を使おうとするから、
囲まれてボコボコにされてやってくる。
患者さんというキャラに、
親や患者さん自身は何を求めているのか、
それがどうポイントを振るかに繋がって、
キャラの肉付けをするのだと思う。
生活歴はそういう風に読むと面白い。
*ちなみに魔法攻撃主戦型は、論理攻撃タイプと感情攻撃タイプに分かれる。論理タイプの上級職は賢者(エンジニアや医師)、感情タイプの上級職は魔術師(商社マンやマスコミ関係)などである。
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前から思っていたことだが、
多動、衝動性、不注意がある成人男性は、
世の中結構な割合でいるんじゃないだろうか。
というか、この競争社会で生き残っている男性って
多かれ少なかれその傾向を持ってる気がする。
先日ある女性の診察の中で、
常時仕事で走り回っている彼氏について相談を受けた。
「なぜ彼は、一緒に花見に行ったりして余暇を楽しむことが出来ないのか?」
彼女にしてみれば、彼女の為に花見に付き合うことはあっても
自分で楽しむことの無い彼がわからないのだという。
彼はいつも動いていて、やることなすこと唐突過ぎると。
結構高学歴の、頭のよさそうな彼氏。
2人で旅行に行くときも、空いた時間は仕事の書類を何気に読んでるらしい。
話しながら思ったのは少年ジャンプ。
うけるマンガのポイントは、努力・友情・勝利。
最近は友情のポイントが高くないが(孤高もオッケー)、
努力と勝利の戦いを延々と繰り返すのは変わらない。
たぶん、この彼氏の構成要素も同じもの。
というか、僕も同じなので人のことは言えない。
勝つ勝たないは別として、ずっと戦っていかないと落ち着かない。
バトルマニア。
その女性の相談にのって、うーん仕方ないよなあと思った。
その女性の構成要素は、愛情・庇護・安定でできているから、
いわばマグロとマンボウが一緒にすごすようなもので、
マグロに安定を求めたら、マグロをやめないと死んでしまう。
で、本題はマグロってADHDといってもいいじゃないかってこと。
ジャンプに出てくる主人公達はみんな衝動性の塊。
今の30台はジャンプ大好き世代で、300万部とか売れたのは、
みんなジャンプ要素を持っているからだと思う。
だから、本来ADHDという概念は、社会化の問題なんだと思う。
どの程度自分をわかって、どの程度社会にあわせることが出来るのか。
多動や衝動性の程度から考えるとたぶん間違う気がする。
多動や衝動性の背後にある社会化の程度が問題。
なんちゃってうつ病と同じ。
この女性の相談に戻ると
彼氏がその女性に合わせることは難しいけれども、
マグロはマグロなりに、マンボウを必要としていると思う。
マグロは走ること自体が目的になりがちで、自分で何を求めているのか
わからなくなることがある。何が幸せなのか、
教えてくれるのはたぶんマンボウ。
だからその女性には頑張れといってあげた。
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精神療法をまじめにやればやるほど、
患者を1人で抱え込みすぎて、
集団の中に帰すのが怖くなった時期がある。
一人の患者の内面を考えれば考えるほど、
「弱いところ」が目に付いてしまい、
その弱さをどうカバーするかの方に頭が行く。
だから社会復帰を考えるとき、
「患者さんが耐えられるかな」と思うと胃が痛くなった。
例えば、思春期の患者さんがうつ状態と紹介されると、
担任教師と話す機会があるけれども、
感受性の強すぎる生徒をどうやって集団で見ているのか
どういう理屈で伸ばしているのか、不思議に思っていた。
きっかけは学校の教師の講演。なるほどと思った。
教師は一人一人のことなんか考える余裕はないとのこと。クラスにはいくつかの塊があるので、人を塊と見て、
こぼれないように塊を工夫するのだという。
だから学芸会や運動会や、いろんな催しが学校にあって、
いろんなパラメーターで塊が再編成される。
だから不登校は塊からこぼれる子なんだけど、
クラスで一番できない子(各パラメーターで最下位の子)
は不登校にならないとのこと。
こだわりがあって自分の役割というか、
役どころを演じきれない子が不登校になるらしい。
(このへんは意訳)
この話を聞いてから、弱い子は「弱い子」として
学校に返してやったらいいし、
仕事の遅い会社員は「できない人」として
職場に返すこともできるんだなとわかった。
集団のケツのほうの塊に紛れ込むのが目標。
要は社会での自分の役どころを受け入れられるか。
弱いところを何とかするのではなく、
弱いところを肯定できるようにすること。
ただ、最近思うのは、昔より患者さんが自分の役どころを
受け入れられなくなってきている感じがする。
抱え込んで相手の思いに寄り添うだけでは
一緒に迷走しそうな感じ。
夢とか目標が一般性を失って、
すべてが「個性的」になってきているせいだろうか。
学校の先生たちも同じ問題で悩んでいる気がする。
個性化というのは、ゴールの設定を難しくする。
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