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土浦の事件の犯人が、秋葉原の事件の犯人に対して、
「あれはただの八つ当たりだ」とかいっているのを見て、
お前がいうな(お前も同じだろ)と思う今日この頃。
八つ当たりだ!という表現の正しさを認めつつも
その余裕に満ちたコメントに納得いかない。
彼に対する死刑論議は僕の手に余るのでわからないけれども、
一方的な理屈で無関係な人を殺した犯人を、
法の中で個人として尊重し、個人としてさばくのってなんか変だと思う。
(裁くというのは、その個を認めることだと感じる)
個人として裁く前にやることがある気がする。
法曹界やマスコミは人権人権いうけれども、
まもるべきは個人の人権ではなく
日本の社会の一員としての個人の人権のはず。
本来個というのは、社会の歯車であることと
コインの表と裏の関係にあるはずなのに、
なぜ歯車としての側面を無視した犯人を個としてだけ扱うんだろう。
この犯人は社会の一員として罪を内在化してないように見える。
自分の中に罪を飲み込まない彼らを個人として扱っては、
どういう判決があっても逆に社会が踏みにじられる。
ちゃんと社会の一員としてあげないといけないと思う。
刑務所の中で、殺人者のコミュの中で、
殺人者同士とことん集団生活を全うしてもらって、
人と向き合うことを教えないと。
そこではたぶん最悪レベルで劣悪なコミュで
悲惨な現実がまっているんだろうけど、
八つ当たりで人を殺した彼らが所属できるコミュは
そこにしかないから仕方がない。
そこで働いて食って寝て、危険と隣あわせだけど頑張る生活。
一般社会と同じように、稼ぎが悪ければ食えないし、
ちゃんと弱肉強食が機能する社会での生活。
それを経たうえで裁かれるべきだと思うのだが・・・・
だって僕らはそういう世界で生きて、
みんなでそういう世界を作っているんから。そこの論理で裁くならば、
その一員になってもらわないと。
昔は社会という言葉に重みがあったから
犯人は生活していた元の社会を引きずりながら裁かれた。
だからこそ個人として償うことに意味があったと思うんだけど、
今は社会の規範、形そのものが崩れてきているので、
裁く場においてもその視点をいれたほうがいい気がする。
自分がやったことの意味を知る。
それは人として生きる上で真っ当なあり方ではないか。犯罪を犯すことで社会を超越したとかいう人を
個人として扱っていいのか?
社会を超越した先には、さらなる社会が待っているべきなのでは?
そんなことを考えながらニュースを見てた。
今回は専門外の話なので、僕の考えは間違っているのかもしれない。
あんまりおかしければ削除しますので教えてください。
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休みの間、剣術小説読んでてなるほどと思ったことがある。
技と術ってちがうんだってこと。
技って教えられるけど、術は自得するしかない。
技って「教えるため(伝えるため)の理屈」だけど、
術は「相手に勝つための理屈」。
技って誰にでも学べるものだけど、それは個々の条件を無視したもの。
術は勝つために個の経験を集積したものだけど、
そこには自分らしさが強く反映するから、簡単に教えられない。
小説読んでて自分の中の疑問がすこし形になった。
精神科の医療って、診断基準なんかはそれなりに整備されていて、
それを大学病院道場で一生懸命修行して、
「目録(指定医)」とか「免伝(学位)」とかさずかっていく。
学会では授かった人たちが幅を利かせているんだけど、
学会で聞くえらい先生の話は当たり前すぎてあまり臨床では役に立たない。
というか、どう考えても学会場の偉い先生より
自分のほうが強いとか思えてしまう。
たぶん彼らは人を斬るということより、
(斬って斬って勝ち続ける中で、「勝つための理屈」を探るより)
自分が教えられた普遍的な技を、上手に伝えることに本分をもつ
「剣術道場の道場主」なんだなと思う。
学会のスーパーバイズとか聞いていると、聞くに堪えないものが多い。
相手を斬ろうと思ったら、相手の変化を上回る運動性を
自分が持たなきゃいけないのに、自分を動かすという視点がなさ過ぎる。
まあ、僕が聞いた一部の先生方だけで、
他は立派な人も多いのかも知れないけど。
たぶん、臨床で毎日人を倒してる先生方は
学会を苦い思いで見ていらっしゃるんじゃないかな。
初心のうちは意味があるけど、目録が取れるレベルになったら
みんなバカらしくなって・・だからあまり参加しないのかなと思う。
今回読んだ峰隆一郎先生の本に
「人を倒すのは技じゃない。術だ。」と書いてある。
いや、そうだなと思う。
技で真っ当に闘おうとすれば、それで勝とうとすれば、
患者さんが自分の技に「あわせてくれないと」斬れない。
川べりでの果たしあいで、まっこうから唐竹割りをしようとしても、
相手が寝転んでごろごろ川に落ちてしまえばきれない。
むしろ、川の中から足をすくわれてこっちが斬られてしまう。
つまり、診察室で話しにあわせてくれなくなって
「先生は私の気持ちなんてわかってくれないじゃないですか!」
とかふいにやられて斬られて(治療にならない)しまう。
(まあ、それを斬られたと感じない幸せな医者も多いけど)
そうならないために、医者は経験的に「診察室」という場を大切にする。
それは患者さんに自分の技をくらってもらいやすくするため。
自分のテリトリーで道場剣法を全うするため。
ごろりと寝転んで「わかってくれない」とかごね出した患者は
道場からほうりだす。
自傷やら過食やら、大量服薬やら。
道場の約束事を守れない人は患者じゃない!とかやりだす。
でも、そういう患者さんをちゃんと斬れなきゃプロとして悲しい。
だからたくさん人を斬らなきゃいけない。
そして一人斬るたびに、そのなかに自分だけの術理を求めて、
次に切る一人にその術理をいかし、発展させなくてはいけない。
そうやって、自分の術をつくる。
いや創り続ける・・・というところか。
僕も上手くいかなくてへこむことは多いし。
もう少し書くと、術をえるためには勝ち続けないといけない。
へこんでも負けを認めちゃいけない。負けて学ぶものは何もない。
負けを認めたら、そこであきらめたら、それから学べない。負けたんじゃなくて、いったんインターバル。
インターバルからは山ほど学べる。
そこにはそうなる必然性が必ずあっただろうから。
僕は指導医に受けた指導はそんな感じだったなあ。
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僕は自分が関わった患者さんたちには、
病の治療が(症状が)ある程度治まってきたら、
防御(自分をどう守るか)を教える。
「少し人を傷つけて、少し自分も傷つく。
そういうやり方に慣れることが必要」
そうは書いたけど、慣れるためには時間が必要。
どう生きたって、やさしい人ほど傷つかずにはすまないのだから、
せめて身の守り方だけでも上手にならないと
「戦いを上達するための時間がとれない」
そう。大事なのは、対人関係の戦い方を上達することだと思う。
患者さんたちはみんな上手に生きられなかったから病んだので、
症状が治まったら治療が終了するわけじゃない。
それではなかなか病院から卒業できないし、
よしんば病院を離れてもすぐ再発しかねない。
だから僕は、疾患治療のゴールは症状がおさまるときじゃなくて「自分は修行中である」という意識をもつときだと考えている。
そして修行がすすめば病院から卒業できる。
もうちょっと具体的に。
退院するよ、会社に戻るよ、つきあってみるよ、結婚するよ、
そんな修羅場に飛び込んでいこうとする患者さんに
うるさいほど「うまくいかないとき」の受け方を教える。
そういうとき、僕のイメージでは受け技に2種類ある。
①一歩下がって相手の攻撃の届かないポジションに移ること
②その場にとどまって、上体をやわらかくシフトして
相手の打撃をかわすこと。
① は職場や家庭を離れること。いざとなったら入院。
厳しい攻撃の連続に無理して耐え続けないで、離れて仕切り直す。
これが一番確実な防御なんだけど、これはマイナスを0にするためのやり方で、
一歩踏み出すためのやり方じゃない。
② の踏みとどまる大切さ、を僕がしつこく書くのは、
そこからだと相手に自分の攻撃も当たるから。
当たって「殴り合い」の形になれば、それがしばらく続くなら
必ず戦いに慣れて、痛い思いをしながらすこしずつ戦い方が上手になる。
踏みとどまるのは、戦い方が、生き方が、
痛い思いをしながら上手になるため。
だから踏みとどまる目的は、絶対忘れてはいけない。と思う。
ひどい言葉をかけられたり、厳しい要求を突きつけられたり、
思いをわかってもらえなかったり、必要とされなかったり、
そういうことを今の立ち位置から下がらずに
踏ん張ろうとするなら、ただそれに耐えることを目的にしてはいけない。
いや今この場では、それを目的にしないと上手くいかないから
それでいいんだけど、 踏みとどまるというのは、
もっと意味のあることなんだといいたい。
ボクシングで例えるならば、ロープ際で倒れずに踏ん張っている状況。
さんざん打たれて立っていられるのはそれだけでスゴイ。
でも本当にすごいのは、それが自分の3年後、5年後に繋がるところだ。
耐えることだけが目的なら早く倒れた方が、次のラウンドに生きることもある。
そうじゃなくて、踏ん張っているのは、戦いに慣れて戦い方が上手になるため。
最初はパンチが見えないから、ひたすらに耐える。
たたかれているうち(ある意味の諦観とともに)に
少しパンチが見えてくるから、そのパンチに触れるところから始めて、
少しずつパンチにグローブをひっかけてロープから脱出することを学ぶ。
ロープ際を脱出する(追い詰められたところを脱する)っていうのは、
己をそこで主張することだったり、
いろんなものをあきらめることだったりいろいろだけど、
大事なことは自分が今、経験を積み上げているって自覚すること、
それを目的意識的に積み重ねることがすごく大切。
たぶん、そこが目的的に行えないと、病院から卒業しにくい。
目的意識的にそこを行って、自分の成長を感じないと、
自分で自分を支えられるような自信がつかない。
そんなことを考えながら日々診療してる。
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僕は打撃系格闘家あがりなので、
人間関係をスパーリングに例えて考えるくせがある。
関係を持つというのはスパー(拳を交える)することだ。
拳を交える。拳と拳が行きかう中を生きる。
これは意外と・・ではなく、すごく本質を突いていると思う。
チャンピオンに連載されてるバキという漫画で
バキのライバル?の天才モハメドアライJrが
「戦いとは打たせずに打つこと」「殺されずに殺すこと」
とかのたまっていたけど、あれは間違い。
だから漫画の中でもアライは瞬殺された。
打たせずにうつとか、倒される前に倒すとか、
当たらない位置で戦うとか、そういったことは
「戦いなれていない」人の思考だ。
現実の戦いってお互いの間合いに入って手足を振り回すことだから、
「打たれる」ことを前提にしないと始まらない。
テレビで見る試合は華麗だけれど、
きれいな戦いなんてよほど実力差がないとむり。
実力が伯仲するほどぐちゃぐちゃの戦いになる。
人間関係も「傷つけ」「傷つけられる」ことが前提。
自分の思いは通らない。甘い夢は破壊される。
患者さんたちは戦いなれていない、やさしい人たちが多いから、
(やさしい世界から厳しい世界に投げ込まれた人が多いから)
ひとりで描いていたきれいでハッピーな像を、
ぐちゃぐちゃの戦いに慣れた人たちに蹂躙される。
そして、蹂躙された残骸をひろいあつめて、また歩きだすんだけど、
傷つけないように気をつけて歩くと、またひどい目にあわされる。
たぶん、「傷つけないように生きる」とか
「傷つかないように生きる」とか、
打たせずに打つ、みたいな戦いのイメージは間違ってるんだと思う。
たぶん、正解は少し人を傷つけて、少し自分が傷つく。
そういうやり方に慣れることだと思う。
(続く)
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八百●はあると思う。
みんな鉄板でそう思ってるはず。
ただ、八百長って、外から見たら「ずる」だけれど、
内から見たらずるというより「必要悪」というニュアンスかもしれない。
あれだけおおっぴらに、暗黙の了解で展開していたのだから、
組織の中である意味「(ずるだけど)仕方ないよね」とか
少なくとも「ありだよね(当たり前だよね)」という空気があったはず。
あれを力士たち個人の責任に矮小化したら、いったんは鎮静化しても
すぐに元の黙阿弥になると思う。
まず客観的に考えて、1年間にあんなにたくさんの回数
ガチで相撲とっていたら間違いなくあっという間に体は壊れる。
勝負をする主体(相撲取り)をメインにものを考えるなら、
今の半分の量でも興業は多い。多すぎる。
ガチの勝負って、相手を殺す勢いでやるわけだから、
勝っても負けても無事に土俵を下りる方がラッキーのはず。
今の興業の数が、当の力士からでるわけがない。
技が荒れる。技が崩れる。本当の全力勝負から遠ざかる。
その条件下でいい勝負をするのがプロというかもしれないけど、
その条件下でする勝負は、確実にレベルの頭打ちを招き、
その条件下なりのレベルに落ち着いてしまう。
もっというと、相撲取りはプロでそれで食べてるわけだから
そして引退したらつぶしがきかないわけだから
1年でも長く相撲を取りたいと思うのは当たり前のことだ。
いや、ガチが尊重される=つぶれてもいいからガチを通すことが
誇りとされる世界なら、本物が評価される世の中なら
それはまた違うのかもしれない。
男なら馬鹿を通してもそれでいいかと思える。
すくなくとも若いうちはそう思える。
でも、場を仕切っているのは、プロの名のもとに
勝負をする人じゃなくて、勝負の周辺で食べる人。
金に換算してものごとを測る人。
その人たちはものごとを一般受けするように形をつくることが上手。
それはみんなにとって良いことだけれども
一般受けするほどに、専門性というか、プロの凄みというか、
「勝負」のレベルは落ちる。体裁を整えようと思ったら、八百長。
もっというと、金で測る人が仕切る以上、
ガチで潰れていく人は一顧だにされないはず。
だから僕は、悪いことだとわかるけど、
八百長をあまり責める気になれない。
責めることは天に唾するようなもので自分にかえってくるから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、裁判の問題。
裁判はいいんだけど、それを上から裁いて改善を促すって悪手だと思う。
本当はシステムの問題。
プロなのに、まじめにやったら早く怪我して路頭に迷うようなシステムの問題。
上から裁いても一時は良くてもその歪みは必ず別の形で出てくる。
こんな話をここで書くのは、患者さんの問題も同じだと思うから。
表面上、ヤオみたいに世の中から責められるような行動だって、
それがどんなに社会的にまずいものだったとしても、
それが形になってくるにはそうなる構造があるはず。
上から「そんなのだめだ」と罰したら、速攻で一見まともに変わるけど、
それは必ず歪みを助長させて、歪みを抑えてさらに歪ませることになる。
それが病というものを形成させるプロセス。
だから、八百長訴訟を見ていて、
糾弾する訴訟をする暇があったら(相撲協会がね)、
勝負をメインに据えた構造を作ればいいのにと思う。
病んだ人がいたなら、上から病みを云々するより(それは責めることにつながる)
少しでも病まずにいられる状況を、構造をつくればいいのに。
結局力士じゃなくて、力士で食ってる人が多すぎるんだと思う。
力士に正々堂々勝負すべきといいつつ、それをこじらせている
力士以外のメンバーが多すぎる。
力士が主役の舞台に脇役のはずの人がしゃしゃり出すぎ。
だから勝負を問いながら、出る結論は
決して勝負をまともに発展させるものにならない。
力士の勝負を金に換えるというのは、社会的には発展だけど、
発展するほど相撲の原点から離れて、
離れるほどに本質は失われるという例。
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やっと地獄のような忙しさから抜けることができた。
いや勝手に忙しがっている悪循環から抜けた。
どうも悪い癖なんだけど、僕は勝手に自分で仕事をつくる癖がある。
別に頼まれているわけでもないのに、
勝手に人の気持ちを推測して、あれもこれも
「自分がやらなきゃ」とか引き受けてどつぼにはまってしまう。
どつぼにはまっているときにどうしても出てくる言葉が
「頑張ってるのに評価されない」だ。
「こんなに頑張っているのに評価されない!」
と言ってやってくる患者さんがたくさんいる。
いやもちろん、病気がひどいときはそんなこといえない。
何がきついのかわかんないくらいきつくなるのが病気だから。
でもうまく山を越えることが出来て社会で頑張るとき、
もしくは病気一歩手前で社会で踏ん張っているとき、
頑張るほどに「評価されない」という現実にぶつかる。
障害児学級の先生がいう。
「こんなに子どものことを考えて動いているのに親が文句ばかり言う」
「学校にどこまでも期待するくせに、文句ばかりで自分は動かない」
会社の課長さんがいう。
「こんな過酷な現場なのに、上司はわかってない」
「丸投げしておいて、成果が出ないと私だけが責められるなんて!」
世の中、評価されないことだらけだ。
僕だって中間管理職になって、
本来の医療職以外の部分で山ほど仕事をかかえて
身銭を切って睡眠時間を削って西に東に奔走するけど、
そういう部分って一切評価されない。
しんどくなって本職のほうも上手くいかない。
やりたい医療からも少し遠くなって、嫌になっちゃう。
だから、現場を理解しない理不尽な要求のひどさは良くわかる。
世の中いろんな組織・・学校にせよ病院にせよ会社にせよ、
そういうものが「ある」のが当たり前になっているから
「その現場を支える人」が支えることは「当たり前」。
そこは評価されずに無茶な要求を上乗せして平気で「支える人」を消費する。
消費した人がつぶれてしまわないとそのありがたみがわからない。
でも現場の僕らは「つぶれて見返す」なんて悲しいやり方をしたくはないから、
ただうらめしく「消費する人たち」を見つめるんだけど。
・・・たぶん、おそらく、いやだからこそ、理不尽な要求を
理不尽と考えてはいけないのだと思う。
それを理不尽と捉えてしまうと、自分が潰されてしまう。
理不尽と捉えてしまうと、それと対極の「自分の思う正しさ」を
選んでしまいたくなるから。
学校の先生や僕からいうと「専門家としての正しさ」を
選んでしまいたくなるから。
学校の先生達は、親御さんたちからの
「あーしてほしい」「こーしてほしい」・・・・にとどまらない
「何故子ども同士のトラブルをちゃんと管理できなかったのか」
「(乱暴な)子どもが(やさしくてかよわい)他の子どもを叩いて
怪我させた責任は学校にある」とかそういった要求を受けている。
もちろん、起きてしまった事故を責めたい親御さんの気持ちはわかるにせよ、
先生達の自分が現場にたってみろよ、それが本当に可能かどうかわかるから!
といいたくなる気持ちのほうもわかる。
もっというなら、学校みたいに「守られた環境」なんて
社会にでたらあるわけない。子どもの将来を考えたら
社会の縮図として状況を設定して多少の毒は子どもに食わせていかないといけない。
視野の狭い親の求めるままに「管理」された「きれいな」状況ばかりを求めては
子どもの将来を考えたらマイナスにしかならない。
ふつうに教育を長くやったら、そういうスパンの見方が出来るから
親の度外れた管理要求は、「専門家の正しさ」からすると「間違い」。
でも、責められるほうの立場に立ってみても、いや立つほどに、
それを理不尽と考えてはいけないと思う。
親がおかしい!と思ってはいけない。
「そういうものだ」と考えて流されないと、
納得のいかない気持ちは自分を蝕んでしまう。
僕も現状について愚痴を吐いて、誰かのせいにして、
いらいらして荒れてみてわかることはやっぱり僕が間違っているということ。
なぜなら、僕も納得のいかない気持ちのままに無理をして
うつっぽくなってしまったから。
結局行き着く答えは現実と向き合うことだと思う。
自分の気持ちが強すぎて、自分の欲しい物を求めるほど
現実を生きることがきつくなってしまう。
いい医療とか、理想とか、そういったものを求めるのは自分の欲だ。
自分のそういう欲を大事にして、きれいでいようとすると
実は他人にしわ寄せが行くし、自分の首を絞める。
現場を理解してもらえない現実にぶつかったとき、
自分が磨耗してしまって、前向きに頑張れなくなってしまう。
ココロが動くのを嫌がるようになってしまう。
だから学校の先生達も、子どもの将来を考えて「専門家らしく」振舞うより、
クレームをつけてくる親を黙らせる対処を大事にすべきなんだろう。
(あえてクレームという言葉をつかうけど)
そうやって、学校という場を壊す理不尽な要求から自分達を守る。
守って、守る流れの中から、そのなかで出来る
子ども達の教育というものを考えるべきなんだろう。
(バトルというのは防御から入るのが鉄則!)
「専門家として」どんなにおかしい要求であっても、
現場で「専門的な正しさ」を追求してはいけない。
自分というものをどっかに棚上げして、
自分の求められている役回り、自分が「どういう歯車なのか」
という問題と向き合うべき。でないと行き詰ってしまう。
そうすれば、クレームはクレームでなくなり、
現場を無視した無茶な要求は、現場を壊さなくなる。
と思う(思いたい)。
僕の好きなカントの言葉に「自由とは必然性の洞察である」というのがある。
ここ数年、自分なりにその言葉の重さを実感してる。
社会の中の歯車である以上、どう己を由として廻るか、
それは自分の中の事情は関係なくて、自分の外の事情が大切なんだと思う。
自分の身の回りにある必然性の洞察。
身の回りにある「仕組み」をどういう深さでわかるか。
それを深く自分の中に取り込むほど、自由になれるんだと思う。
だから、思う。
「頑張っているのに評価されない」という思いは
自分の思う正しさに依存している。
自分の正しさは、たぶん正しいんだろうと思うけど、
世の中が正しいと思ってくれないことが往々にしてある。
だから世の中の正しさで、自分を修正していかないといけないんだろう。
専門家の視点からすれば、どんなにおかしいと思っても
その「専門」という概念が変わりつつあるのが今だから、
自分を曲げることがかえって不誠実と思える場面でも
自分を曲げて、できる範囲で誠実に対処すればいいんだと思う。
だって僕らはいつも患者さんに「真面目すぎるとよくないよ」とか言ってるわけだし。
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縁のある後期研修医が、やっかいなケースを抱えて右往左往してる。
実戦経験が少ないのだから仕方ないのだけれど、
そこで教科書や、雑誌を一生懸命読んでる彼は間違っていると思う。
それを奨励して「実戦経験を積めば何とかなる」
ってのたまう偉い先生もちょっと違うんじゃないかって思う。
実戦経験ってなんだろうって考える。
僕もいろんな先輩から「たくさん患者さんを診ないと
本物になれない」って言われた。
たしかにそうだと思うんだけど、たくさん診て、何が変わったんだろう。
その5年目の後輩はいいやつ。真面目だしたぶんIQは130くらいある。
僕よりずっとアタマがいいのに、
患者さんに振り回されてて、上手く症状が聞き出せない。
患者さんがしたい話をべらべらさせてて、
ただただそれに振り回されて、肝心のポイントが押さえられない。
聞いてて歯がゆいものがある。
たぶん、診療をたくさんやった経験は、場を上手に仕切るというか、
相手にいうことを聞かせるとか、
そういった「場の統括能力」に結びつくんだと思う。
研修医は知識は最新のものを仕込まれているけど、
大事な症状をつかみ出すような、場の仕切りが出来ない。
患者さんとやりあって、駆け引きをすることが出来ない。
結局、医者がいう「たくさんの患者さんに教えてもらえ」っていうのは、
病気を教えてもらうという以上に、
診療という名の患者さんとのバトルで、ちゃんと駆け引きをして
どう負けない戦いをするか学べってことなんだと思う。
負けないためには負けないシステムが必要。
病院という場のルールに従った、
負けないシステムを自分の中に作るということ。
世の中には、「経験を積んだら、薬の使い方のカンとかコツとかが
わかって自分独特の薬の使い方が出来るようになる」とかいう医者がいる。
たしかにそれは一面の真理なんだと思うけど、
出来るようになった人間のそういう言葉は何の役にも立たないどころか、
まだその「カン」とか「コツ」とかをつかんでいない初心の医者には
害にしかならない。
だってそれはその医者独特の患者統括の仕方であって、
薬理作用にその医者のキャラクター、影響力があいまって、
治療効果を生んでいるだけだからだ。
だいたい、検証不能な特殊な薬の使い方なんて、
それだけ取り出して論じれば、科学的ではないし。
だから本当は、そういう「カン」とか「コツ」とか言う偉い先生達が、
自分なりの患者統括の仕方をわかりやすく教えてくれればいいのに。と思う。
なのに、偉い先生ほど話すことは精神論で、
まるでプロ野球の長○監督が「こうしてググっと腰を入れれば
勝手に打てるはず」みたいな指導法が幅を利かせている。
真面目くさった「正しい治療法」なんて、
もはや学生じゃなくて前線に出てしまている医者に言うべきではないと思う。
すくなくとも、現場に出た初心の医者にとって意味がない。
もっと裏技を、場をどうやって仕切るかを、技術として継承すべき。
こんな話を書くのも、一昔前は大学にそういう裏技使いがいて、
教科書的な保守本流を歩むわけじゃなくて、
医局の端っこにいるんだけど、いざというときに
「悪いやりかた」「言うことの聞かせ方」を教えてくれてた。
そういう人が、偉い先生の抽象的なお話を、
「具体的な勝ち方」に変換して教えてくれていた。
今はそういう人がどこにいったんだろう。
それは一見くだらない、医学的には意味のないやり方だけど、
こと前線で戦うことになった新兵には大事な金言。
しょうがなから、振り回されて困っている後輩には
メンタルの問題以前にケースワーカーをかませて問題を散らせとか、
診察は個室じゃなくて、看護がいて人の目があるところでやれとか、
入院や転院をちらつかせつつ限界設定しろとか、
そんな姑息なアドバイスばかり送ってる。
教科書を読む暇があったら、生き残るための工夫をすべき。
でないと「カン」とかつかむ前に潰されてしまう。
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ちょっと暴走中。
精神医療においての不満。
それはゴールを示さないこと。
ゴールという嘘を引き受けないこと。
患者さん以上に、患者さんの家族に視点にたつならば、
患者さんの病で生活が大きく崩れるわけだから、
これがいつまで続くのか、どうしたら終わるのか、
そういったゴールを明示してほしというのは当たり前の話だ。
患者の立場に寄り添う医師は、
そういった質問には応えない。
「今の病状が良くなるまでどれくらいかかるかわかりません」
「少しずつ変化がありますから一緒に変化をみていきましょう」
そういった返答が恐らくは最良の精神科医の返答。
なぜなら、真面目な精神科医ほど患者に責任を持つから。
自分の言葉に責任を持つということは、
自分の言葉に間違いを許さないということ。
自分の行動に診断に言動に、間違いを許さない。
医者は真摯であろうとするほど、
患者の改善すら認めようとしない。
改善のちょっとした裏側の危うい要因に着目する。
社会復帰を止める。危ういから。
それは極めて正しい判断だし、
僕自身弱っているときは「正しさ」に寄りかかって楽をしてしまうんだけど、
今の世の中、正しいことなんてどこにもなくて、
するさや狡猾さが大事なこととみられてるのに、医者が善意で目指す正しさは
世の中で生きる上でどれだけ「正しさ」を発揮するんだろうか。
今苦しんでいる患者や家族にどれだけ正しさは機能するんだろうか。
本当は、家族に必要なのは、大まかな夢なんだと思う。
どういう状態になったら、もう大丈夫。
そういうのは、論理的には規定できるけど、
「人の顔色を気にして過剰適応してしまう」
「長年やってきた仕事を辞めてやることなくてうつっぽい」
そういう人たちに、そういう人を支える人たちに
「自己主張ができるようになれば大丈夫」
「仕事以外の生きがいが見つかれば大丈夫」
そういう答えは、真面目な医者ほど出しにくい。
あまりにも不確定要素が多すぎる。成功率はどうあがいても7割。
だから大丈夫ってさらっと言えるのは、ビジネスマンか、山師。
でもある意味山っ気がないといい精神科医はやれない気がする。
嘘でもいから夢を作って、夢に向かって自分もだまして
患者も家族も自分もそれに向かう生活(流れ)を整えること。
ある意味目的に向かう生活が整えられれば、それは治療の終結を意味する。
なんか、パラドックスみたいだけど、
混乱した生活を、一つの目的に集約することは
絶対に治療的だ。
治療のゴールを明示するなんて嘘だ。わかってる。
そんなものは明示できない。でも、嘘とわかって嘘を引き受ける人が
社会には必要で、僕らは嘘をひきうけることを求められている。