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夢枕獏の小説が好きで昔からよく読んでいる。
某小説が新装版で出ているのを図書館で見つけて読んだら
挿絵が漫画家の板垣恵介さんになってた。
この漫画家を昔すごく好きで、
グラップラー刃牙のオープントーナメントの頃なんて
漫画がきらきら輝いているようだった。
だから、その小説の挿絵をみてちょっとびっくり。かっこよく見えない。
絵そのものは、まさに板垣さんの絵。
でも漫画で見るのとぜんぜん違う。
絵は同じなのに受ける印象が天と地の差。
なるほど、漫画と挿絵は全然違うものなんだって思った。
漫画は流れで見せるんだと思う。
1回14ページ。
コマを積み重ねて、クライマックスでさまざまな前フリを回収してる。
最後の大ゴマは、単体の絵じゃなくて、13ページの厚みを持った1コマ。
そこにある情報は、1コマじゃない。
挿絵って、いってしまえば積み上げなしで
14ページを1コマで表現しなくちゃいけないんだと思う。
だからすごく抽象的な絵が多かったり、「雰囲気」でモノを表現したりしてる。
その前後の文章、文字に負けずに違和感なく存在感が示せる挿絵って
それはそれですごい技術けど、
漫画とは違う方法論を持ってるんだろう。
僕はいい外来治療は漫画だと思う。
初診からはってる伏線を、1ヶ月かけて回収して
診療の1コマ1コマがつながりながら最後の大ゴマを生かす。
漫画家と同様に、本来流れで勝負をかける。
だから僕は漫画であるべきだし、漫画的に診療をしたいんだけど、
最近はちゃんと読み続けてもらえない気がして、
そういう人には1コマでも成果を出そうと
抽象的なことでなんとか格好をつけようとしてしまう。
でも精神科で、1回の診療で結果を出すことは難しい。
1回で成果を出そうと思ったら、むしろ、占いの先生とかの方が上手。
スピリチュアルとか、なんとかの母とか。
でも僕らは漫画家に近いので、挿絵の注文は勘弁してほしい。
文筆業とか、テレビにでてる精神科の先生達を見てて思うのは、
彼らは1枚絵で勝負してるんだなってこと。
14ページの流れで勝負するわけにはいかないから、
1発でなにか気のきいたことを言わないといけない。
そこには挿絵を書く先生のようなすごい技術が必要で、
そこには明らかに才能が必要なんだけど、
それは僕がやっている臨床とはまた別物なんだろう。
そして、もとは臨床をしていたのかもしれないけれども
いつしかそれが「出来る」ように変化しちゃった先生方は
たぶん、臨床力は地を這うように落ちてしまっているんだろう。
一枚絵で、抽象度の高い絵で、わかりやすく
「とどめる」ことに長けてしまうと
流れることが出来なくなる。
流れることが出来なくなるというのは、
患者さんの変化に対応できなくなるということだ。
わからない動きに、わからないながらついていくという、
わからない変化に合わせるということが出来なくなる。
自戒を込めてメモ。
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人を信じられなくなった経営者は
どこそこに盗聴器を仕掛けるかもしれない。
職場で使われている院内メールのバックアップをとって
それを一生懸命みて調べているかもしれない。
アホか。と思う。
そんなのみたら自分の悪口が書いてあるに決まってるのに。
人の上に立って、組織を仕切るってことは
何でもいいから価値を一つ強烈に提示して、
みんながどう思おうが「これがいいんだ!」と貫くことだ。
一つの価値観を貫いてみんなに話し続けるってことは
みんなにそれが入っていくほどに
みんな自己正当するために上司の悪口を言う。
バカな経営者は職員の発言記録をチェックして
「こんなことをいっているとは!」と驚く。
本当にアホかと思う。
僕自身ずっと上のドクターをバカ呼ばわりしながら研修してきたから
上司の悪口を言わない部下がいるはずがないじゃないか。
僕が上司になったとき事務長からもらったアドバイスは
「これから先生に本当のことを言う人はいなくなります」ということ。
上に立って人事権を握ってしまうと、誰も本当のことはいわなくなる。
すごく当たり前のことだ。
だから上司が部下に陰口を叩かれるのはあるべき姿だと思う。
悪口を言われない上司は、組織をまとめきれないから。
それは人でも組織でも、自立するには背骨が必要であることとよく似ている。
べつにみんなが同じように考える必要はないが
みんなの中心に上司の唱える言葉(背骨)があって
それを真ん中におきながら、端っこで「あの上司はわかってない」とか
くさしながらも、全体の動きが上司の目指す方向に動くのが
正しい組織のあり方だと思う。
時々見る陰口を叩かれたくない上司は、
嫌われるのが怖くて決断から逃げる。
それはやさしさに見える一面もあるけど、
上司が「悪く思われる」のを忌避して迷走すると
組織そのものが駄目になってしまう。
誰にでも愛想をよくすると、集団の力を高めることは出来ない。
だからなあ・・・。
こっそり他人のメールをチェックして傷つく経営者はバカかと。
組織って、たとえば金を稼ぐために人を集めて
集まった人の力をプラスアルファまで発揮させるためにあるものだから
その中で働く個人が自分を保つって大変なんだよ。
主役じゃないのに、こき使われてアルファの力を発揮してるんだもの。
それなのに上からは「当たり前」としか思われない状況なんんだもの。
そんな自分が自己正当化しようとしたら、
上をくさすのは当たり前じゃないですか。
上司はもうちょっと、「部下は本当のことは言わない」という
厳然たる事実をかみしめてほしい。
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大学から民間の精神科病院に出て、
それなりに立場ができてしまって、
何が困るといって、
オーナー一族への対応が困る。
まあ、僕がいなくてもつぶれることはないと思うので
まじめに考えるだけくだらないことなんだろうけど、
現場を知らない人がたまにきて、
末端職員をもっと働かせろという話がきつい。
オーナーは金を出している人だから
(吸い上げている人でもあるんだけど)
経費を削って収益をあげることを考えるのは正しいと思う。
ただ、病院みたいな人件費が必要経費の大部分を占めるようなビジネスは
職員を大事にしないと、現場は腐っていく。
なんと言うか、バランスが大事だと思うんだけど、
夜遅くまで頑張ってくれる事務や
こちらのサポートのために
いろんな相手にアタマを下げてくれているコメディに
いつもありがとうって、ちょっとくらい気持ちを形にしたって
オーナーが浪費している経費に比べればビビたるものだろうに、
こまめな駄目だし(こんなやつらの飲み食いに病院の金を使うな)
がばかばかしい。
経費の使い方なんて一例にすぎないけど、
とにかく職員をパートナーとしてではなく、使用人としてしか見れない。
オーナーにとって民間の精神科病院を経営する旨みは、
利益がうんぬんより家の出費が全て病院の出費になるところにある。
要はオーナー一族のベンツやら飲み食いやら旅行やら日常の諸々が
病院の経費としてかぶさってくるから、
職員のために経費を使うと
「俺の金を勝手に使いやがって」という話になる。
すばらしい。
そのくせ美しい理想を語る理事長はかっこいいぜ。
腹でそう思っていても、
そういうのを表に出したら終わりだと思う。
病院って公的なもの、みんなのものだと思って就職したけど、
ただの個人商店だったとは。笑える。
医者はガキって言われるけどそのとおり僕はガキだった。
わかってなかった。いい病院にしたいとか、
バカなことを考えていたもんだと我ながらしょうもない。
私欲しかないオーナーと、現場の職員の間に入って疲れた。
ずっと、いい組織というのは、自分の上に組織が来るもんだと思っていた。
自分を一番にすると、みんなでいいものが創れない。
そういう、金以外の価値を作って上において
1で済むところに1.5の手間をかけるところに
確実性のあるいい医療があるんだと思っていて
そういうのをたくさんの職員でやってみたくて働いてみたけど、
末端の職員を大事に出来ない組織がいい仕事を出来るわけがない。
たぶん、数字にのこる結果だけをもとめて
末端職員を使い捨てながら病院は動いていくんだろう。
そういうものなんだと飲み込んで
現場とオーナーの間に入るのは疲れた。
先輩達がクリニックを開業して1人でやりたがるのがわかる。
誰か僕を雇ってくれる病院ないかな?
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夫婦は似るとかいうけど、医者と患者も似る(似てくる)と思う。
昔大学にいたころ、先輩のドクターが外に出るとき
必ず何人かの患者さんを引き継いだ。
患者さんはみんな面白いほど担当医に似ていた。
別に顔が似てるとか、しゃべり方が似てるとかじゃないんだけど、
なんだろう、雰囲気が似てるのだ。
距離の取り方、といってもいいかもしれない。
ねっとりして苦手な先輩の患者だった人は、
やっぱりもって回った話をするので、ペースを合わせるのに努力が必要で、
体育会系のサバサバした先輩の患者さんは、
あっさりしすぎて本人の困っていることを捕まえにくい。
僕は自分のことはわからないのでアレだけど、
僕の後輩は僕の患者さんとうまく関われなくて大変だったらしい。
精神科の医者はみんな、同じ病気には同じような薬を使って
同じような治療をしているようで、
当の精神科医の立場からすると、みんな全然違う治療をしてる印象がある。
それは、病気をどうとらえるか、どの治療法を選ぶかという以上に
患者さんにそれをどうわからせるか、どうすすませるか、
といったマネージメントの部分が全然違うからだと思う。
(これをマネージメントといっていいかわからないけど、プレーヤーとしての患者さんの能力を最大限発揮させるという意味においてマネージメントと書いてみる)
僕が大学にいたころ(10年以上前)は、
病気の捉え方からしてマニアックな先輩が生き残っていたから
引き継ぐのは大変だった。
干されていた准教授クラスの大先生が外に出るときは
病気の概念や治療法が前時代的であるのと、
助教授ということで患者さんがそれを信仰していたりするので
はるかに格下の僕の言うことなんてきいてくれない。
「大先生はどうやってきたか教えてください」
そんな風に患者さんにお伺いを立てながら
少しずつ今風のやり方を浸透させていったりしてた。
ただ、最近思うのは、大学で感じていたやりにくさを
今あんまり感じないってこと。
クリニックから紹介されてくる人がすごく治療しやすくなってる。
エビデンスで病気の捉え方や治療法が同じという面はあるんだけど、
積極的にマネージメントしなくなってるという面があると思う。
前の医者の「くせ」がついてないから、こちらの話がすんなり入る。
「積極的にマネージメントしない」の中身は、
必要な情報は提示するけど選択するのは患者さんということ。
どうわからせるか、どうすすませるかというところに出来る限り介入しない。
そこに自分が入っていくと、リスクが発生する(ような気がする)から、
クリニックでも病院でもそういうマネージメントがよしとされる。
「患者さん自身が選択できる医療」というのは
マスコミの人たちが美しく宣伝してくれるバラ色の医療だけど、
そういうのが浸透してくるのって、
いいことのような気もするし、そうでない気もする。
うん。それは正しい姿なのかもしれないけど、
患者さんと話していて、前の医者の顔が見えないというのは、
僕自身にとっては職人としての寂しさがある。
もうこれ以上、昔自分のあこがれた技術を磨いても
おそらくは世の中に必要とされないであろう実感。
まあ、それはそれとして飲み込んでいくべきだし、
現状を肯定して介入を最小限度にとどめつつ
最適を目指すあり方を模索していくべきなんだろう。
「医者と患者が似る」という感覚は、淘汰されていく感覚かもしれない。
でも一つだけそれでいいのかな?と思うのは、
患者に似なくなった医者は、まともに育つのかな?ということ。
なんだかんだいいながら、専門家(職人)というのは
対象に創られる部分が大きくて、10年かけて自分の頭が対象の構造に
見合ったものに創られるから専門家になれるわけなんだけど
「介入を最小限にとどめる」あり方で創られた医者って
薬を処方できるケースワーカーになるってことじゃないかな・・・
とか思ってしまう。
そういうのがこれからのあるべき姿なのかもしれないが。
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まじめな看護婦さん(内科あがり)の話。
突然上司に辞表を持ってきた。
患者さんが泣きながら
「どうして私だけ病気で苦しまなきゃいけないの!」とか
「どうして●●(病気の症状)をわかってくれないのよ!」とか
「そんなんだったら看護婦失格よ!やめちゃえ!」とか。
とか一方的に攻め立ててきて辛いことが続いたらしい。
もちろん、仕事を辞めるというのはきれいごとじゃないので
いろいろ家庭の事情とか、上司との軋轢とか
ドロドロしたものもあるんだろうけど、
もうちょっと怒りの扱いを教えられていればなあと悔やまれる。
自分を振り返ってみても、人間ってそんなに
純粋に相手を憎むとか怒るとかできないと思う。
家族が殺されたとかなら事情は別だけど、
病院で世話してくれるスタッフを純粋に憎むって難しい。
たいてい、自分の体調が悪くてイライラしてるとか、
目の前の相手に怒る前にほかの人にイライラしてるとか、
うまく自分の気持ちを表現できなくて余裕がなくなっているとか、
怒りをぶつける相手とトラブる以前に、
自分の中で怒りのベースラインがあがっちゃっていて、
相手とのトラブルは、最後の一線を越えるきっかけにすぎないことが多い。
というか、ほとんどそうだと思う。
だから現場で怒られることを、あまりまじめに受け止めたら
いけないと思うのだが、患者さんに怒りをぶつけられるのって
「なんとか助けたい」とか思う相手に切られるのは
相当痛いんだろうなとも思う。
もうちょっと書くと、真面目な看護師さんほど
というか、真面目な人ほど、目の前のトラブルの「原因」を探してしまう。
やばいよなあと思う。
原因が目の前に転がっているならいいけど、
とくにうちみたいな精神科は、怒る患者さんの原因は
そこにいない家族が原因だったり
そこにない学校や職場が原因だったりして、
その人が抱える問題と向き合えない中で暴発するものだから、
あんまり真面目に原因探しをしても、現場には怒りの原因は落ちていない。
結果「私が悪かったのね」とか自分に求めるしかなくなってしまう。
これは精神科に子どもを連れてくる親御さんと同じ構造だと思う。
原因探しがまずいってよくメンタル関係の本に書いてあるけど、
たぶん原因が目の前にないことが多いから、
見えてないことに無理に答えを出そうとすると
まじめな人は自分のせいといい、
不真面目な人は本人のせいといい、
どっちにせよ混迷を極めることになるからだと思う。
だから「わからんことはわかるまで棚上げする」ことが正解なんだろう。
僕もこの人はすごい!とか尊敬しちゃうようなスタッフは
みんないろんなことをすぐ棚上げしたり心配しすぎずほっておける人。
まあ、僕はそうなれないから、こんなふうにメモに起こして残すんだけど。
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家族面接をしていて一番困る質問は、
これは病気なのか?どこまでが病気なのか?という質問。
たとえば抑うつ傾向の強い患者さん。
好きなことはできるのに、仕事に行こうとすると元気がなくなる。
たとえば不登校の子ども。
家にいるときは元気なのに、学校にいく朝になると動けない。
それらの家族によく聞かれるのは「先生これは病気なんですか?」
この、病気なんですか?はいいかえると
どこまで厳しくしていいのか?その答えを求めてくる
というニュアンスが強い。
親御さんは、自分に課せられた役割を果たすことを大切に考えるから、
子どもが役割を放棄しているように見える。
「世の中のルールをきちんとわからせるべきじゃないか」
そういう感覚は、親御さんの思いとして十分理解できるものの
そのスタンスで働きかけると相手をがんじがらめにする可能性が高い。
うつっぽい人でも、不登校の子でも、本人にしてみれば
好きなことだけやっているのは、そう見えるだけで、
その内実は「はまってしまって抜け出せない」でいて
「あがくほどに足をとられる」ような状況で、
自分を何とかしようとして動いているだけという場合がほとんどだ。
それは、はたからどんなにいいかげんに見えたとしても、
本人なりの「自分の整え方」であることが多い。
そうやって気持ちを逃がして、自分を保つ。
落ち着きのない子どものところでも書いたけど、
親が社会でうまくやれるようにと子どもを指導することは大切だけど、
親って俯瞰してものを捉えることができる分、
すぐに答えが出せてしまう。
「こうすべき」「こうあるべき」答えを提示されると、そこに至る解き方がわからない子は止まる。
だから、おかしな言い方になるけど
すぐに答えをもとめちゃいけないと思っていて、
その辺のことが上手く親御さんに説明できなくて困る。やっぱり、原則どおり、落ち着きなく動く子は、
(学校に行けずにゲームしてる子は)
のせてのせて、さらに動かす形で働きかけるのがいいと思う。
「私ばっかりどうしてこんな目に・・・・」
「誰も私のことを評価してくれない・・・・」
そんな心の動きに満ち満ちているからゲームに没頭する子どもに
「ゲームばっかりするもんじゃない」と止めに掛かるからこじれる。
そこは「本当にあなたのせいじゃないのに」
「前向きにやろうとあがいてるんだね」
「何でこんな試練みたいなことになるんだろう!」とか力説していくべき。
ちゃんと気持ちに焦点を当てて、その人中心の世界をつくるべき
動ける世界を作って、どんどん動かす。
動かす中でこたえを探していく、そんな感じ。
人間は主役としてタイトルコールを任されたとき、
はじめて回りの人間との協調を考えるんだと思う。
最近、「止める働きかけと動かす働きかけ」
というのを意識して仕事をしてて、
まとまらないけど、忘れないようにブログに書いてみた。
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先日、長い付き合いの患者さんのお孫さんを診た。
かわいい4歳の女の子。
診察の最後にはすっかり懐いてくれて、
ニコニコかわいい笑顔で見つめてくれたりして、
すっかりメロメロになってしまった。
長い付き合いの患者さんは、家で落ち着きがないとか、
発言に不安を感じるとかいっていたので、
予約を入れてみたんだけど、どんな子だろうと思っていたら、
たしかに落ち着かずに部屋中走り回っていたけれども、
周りを見ながら頭を働かせている様子がよくわかった。
アタマのよい、かわいい子。
なんだかしらないけど、保育園とかで発達障害ブームとかで
いろいろ吹き込まれることがあるみたい。
発達障害とかの概念をくさすわけじゃないけれども、
落ち着きのないあの子を児童精神科医とかに見せたら、
「落ち着いてすごせるように、部屋の中を構造化して・・・」とか
「指示は短く、わかりやすく!」とか
「視覚的に入りやすいから、書いて指示を出して」とかいわれそう。
僕は、僕の同僚の児童精神科医のそういう話に疑問を持ってる。
それは決して間違ったことは言ってないのだろうけど、
動き回る子を止めようとしても、上手くいくことはない気がするから。
動き回る子は「もっとすごい動き」に感動して
まねしようとすることはあっても
動き回る子は「止まること」には感動しない。
もちろんしつけは必要。
4歳から5歳にかけて、社会性の原点ってやつを教えていく上で、
動いてはいけない場面を教えていくことは大切。
ただ、子どもへの教育の鉄則は、快から。
快を通して向き合った相手のいうことに耳を傾けるのが子ども。
すごい動きに感動する子どもは、ばっちり相手と向き合うことが出来る。
だから僕が診察でやったことは、
部屋の中でパタパタ動いている女の子を外に連れ出した。
花が咲いてる斜面を一緒に登ったり降りたりして
「これたんぽぽ?」とか言いながら、きゃっきゃやった。
そしたら最初は登れなかった斜面を1人で登れるようになったので、
「すげえ!!」とか大騒ぎしたら、女の子がのりのりになって、
次々発展して、やっぱり子どもは面白い。
さらに遊ぶ中でしつける(止める)ところまでやってみたかったんだけど、
平地で転ぶようになって、足腰が限界っぽかったので、そこまで。
まあ、部屋に帰ってからは僕の声に耳を傾けてくれて、
いうことを聞いてくれるようになったのでまずはよし、かと。
僕も医者だからわかるけど、
医者は商売柄、部分(問題)からしかものが見れないので
落ち着きのない子を「診て」といわれたら止めようとする。
不用意な発言をする子を止めようとする。
でも本当は逆だと思う。
あの女の子は、でっかい公園に連れて行って、
遊具で狂ったように遊ばせるべき。親も一緒に走り回るべき。
子どものイメージを超える動きを親が見せるのは、
決して難しいことじゃない。
4歳の女の子。
最後に抱っこをすると満面の笑みをぶつけてきてくれて、
僕はこの子が成長していく姿を、すごく見てみたいと思った。
長い付き合いの患者さんには感謝されたけど、
むしろこちらが感謝したい。
子どもを動かすつもりが、すっかり自分が動かされて、
酒ばっかり飲んでる場合じゃなくなったので。固定リンク | コメント (5) | トラックバック (0)
まあ毎日飲んでるわけで。
飲まないと寝れない自分がいたりするわけです。
というか、普通に寝るのが怖かったりする。いろいろ考えすぎて。
当直以外は毎日飲んでて、当直がなかったら体がやばい。
実はガンマーが400を超えてる。
酒がおいしくない日も飲む。
毎日酒で帳尻を合わせないと、一日が終われない。
人生そういうものだと思えばどうということもないのだが、
ふと書いておこうと思ったのは不眠のお話。
不眠の患者さんはたくさんいる。
実は僕も同じだから、あまり綺麗な生活指導ができない。
寝るって、自分の一日を終えるってことだから、
心がそこで満たされないと、
自分の一日をそこで終えてもいいよなと満足がないと、
満足まではいかなくても肯定できないと、
未練たらしくうじうじその一日を捨てられないと、
寝れない。
だから僕の場合、アルコールが必要になる。
ちょっとぼけさせて、
ときどき浴びるほど飲めば強制的に眠りに引き込んでくれる。
自分で切れない一日を、酒が切ってくれる。
誰かに、何かに切ってもらう生活というのは一面楽だけど、
楽に溺れると、体がきつくなって昼間の仕事でうまくいかなくなって
悪循環を引きおこしちゃう。
だから、飲まずに寝ないとなあ・・・と思うけど、
なかなかそれができないわけで。
むかし、師匠筋にあたる人が、
「夜寝るということは死ぬことに似てる」と言ってた。
「おれの年(60過ぎ)になれば、寝たら明日起きれるか怖くなるときがある」
「だから、寝るときは自分のすごした一日を大切にして、
よくやった、えらいと自分に暗示をかけて寝るんだ」
「そうすれば、よく眠れる」といわれたことがある。
たしかに。
自分をほめることができれば、褒められるように一日を生きれれば、
よく眠れるのかもしれない。
だから寝ることだけ治そうとしても難しいのが不眠の問題だと思う。
昼間の満たされ具合の問題だし、自分の選んだ昼間の生活の問題だから。
でもまあそれも自分だから、折り合いをつけながら、
破たんしないように生きれればいいかなと思ってる。
ガンマー400は破たんしかけているけど。
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ニュースを見てたら元厚生官僚が殺された話がやってた。
テレビでは年金関係のテロか?とか言われていたけど、
それはちょっと納得できない。
年金問題で人が殺せるのだろうか?
人を殺すという行為は、自分の社会的な死とセットだと思う。
損得勘定で考えれば、得になる場合は少数派のはずだ。
だから実行するにあたって、自分がそのあと直面する苦難を
忘れられるだけのテンションの高さか、
忘れなくてもやらずにいられない激情か、
いずれかがないとできない。と思ってた。
八つ当たり殺人はまだわかる。いや、わからないなりにわかる。
そこには虐げられて爆発する激情があるから。
ただ、本当にぶつけたい相手に向き合えないから
やつあたりをしているだけで。
あれを「社会に対しての不満」とかいう人がいるけど、
そんな高尚なものではないと思う。
メインは社会じゃなくて「人と向き合えない」ということ。
でもこの事件は、ちゃんと相手を特定して、
向き合って、自分と相手をつなげたうえで殺してる。
だからよくわからない。
たぶん、ニュースから受け取った情報が
すごく偏っているからかもしれない。
もしいうとおりテロの意味合いが強いとすれば
それはやつあたりで殺す人間よりよっぽど怖い。
よほど強いイデオロギー教育を受けて、
偏った信仰レベルの精神が出来上がっている感じだ。堅く。
「(許せない)制度を作った人間」を殺す。
そんな抽象度の高い対象に向かって感情を滾らせることができるなんて、
そして、直接自分自身で手を下すことができるなんて、
今の日本でどうやってそうなったのか、
と考えるとちょっと想像がつかない。
オチは何らかの別の事情とか、
一昔前のオウムみたいな集団も考えないといけないのかな。
たぶん、答えはテロとは違うところにあるんだと思う。
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