私と宗教とのかかわりは、おととい、「疲れています」先生からいただいたコメントのように、傍観者なのかもしれません。
しかし、20代のころの私は、もっと傲慢で、宗教的なにおいのするものすべてをきらっていました。
存在するかどうかも分からない神を信じることの胡散臭さ、とでもいうのでしょうか。宗教にそういうものを感じて、あまり近づきたくないと思っていたのです。
ただ、30代、40代と年を重ねるにつけ、人の心は理屈では支えきれないものがあるのだと、しみじみ感じるようになりました。
その結果として、宗教の存在を、大切なものとして考えるようになったのです。
もちろん、私は特定の宗教の信者であるという意識はないので、あくまで傍観者ということになるのかもしれません。
外科医として、自分なりに懸命に修行をしていた時期がありました。
しかし、医局という大きな組織の中にいて、必ずしも自分が正しいと思うことが通せないことが多くなり、医師としての将来をどうしていくのかについて、悩んでいたことがあります。
ちょうどそのころ、持病が悪化する一方で、入院治療などを受けているうちに、医師としての将来という以前に、医師の仕事そのものを続けていけないのではないか、という思いにかられたのでした。
私にとって、医師という職業は、特別な意味があります。
他の人から見れば、たいしたことないじゃない、と言われるかもしれません。
しかし、私自身は、生まれ持った病気と共存しながら、とにかく医学部に合格することを最優先にして、10代に経験しておくべき様々なことを犠牲にしても、ただただ勉強していました。
いつ悪くなるかもしれない健康状態ということが常に目の上のたんこぶでした。
だから、元気な時にがんばれるだけがんばっておき、急に具合が悪くなったらあきらめて治療を受ける、ということの繰り返しでした。
まるで、急発進と急ブレーキを交互に繰り返しているような状態。
そうしてやっと実現した夢を、そう簡単にあきらめるわけにはいきません。
いや、医師としての私は、私自身のアイデンティティーそのものであり、医師でない私は私自身ではなくなってしまうのです。
そのような思い入れのあるこの職業を、やめてしまわなければならないのだろうかと悲観していたころ、思い立って西国三十三ヵ所をめぐることにしました。
必ずしも札所の番号通りには行かなかったので、いわゆる「巡礼」などといえるものではありませんでした。
最寄りの鉄道の駅からは必ず徒歩で寺まで行く、というルールを作り、駅からひたすら歩いたのでした。
背負ったリュックサックを通して真夏の日差しがじりじりと照りつける中を、えんえんと続く一本道を黙々と歩いた日。
果てしなく田畑が広がる田園風景の中、私はまるで芥子粒のようでした。
凍えるような寒い日に、落ち葉の降り積もった山道を登ったこともありました。
そうしてたどりついた山寺の本堂で、仏像の前に座する時、悲観にくれた不安定な感情が、一瞬でも癒されるのです。
日常の生活に戻れば、また心はざわざわとして落ち着かず、不安にからめとられそうになるのですが、ただその一瞬の癒しのために、寺を訪れて仏像の前に座して、そうして心を静めていました。
宗教的空間に身を置くことによって得られる精神の平安というものが、しみじみとありがたいものでした。
宗教の存在する意味は、人それぞれに異なるかもしれません。自らが信じる宗教を大切にするあまり、それを信じない人を傷つけたりするのであれば、それはやはり宗教ではないような気がします。
みなさんは、どう思われますか?
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
コメント
コメント一覧
自分のうつ状態が8割がた治りました。大変感謝しています。そのあいだに、いろんな宗派の仏教の勉強もしました。もう心情的には仏教徒です。医療としても、癒しのすべとしても、仏教はすばらしいです。
西国巡礼にも、次は挑戦しようと思っています。
はまあるき
コメントありがとうございました。
四国の巡礼は、私もいつか行ってみたいと思っています。うらやましいです。でも、西国三十三ヵ所も今のところ中断しているため、そっちが先ですね…
先生はうつ病でいらしたんですか?
お互いに、日々平穏な気持ちで暮らせるといいですね。
それを何に求めるか、人それぞれです。「宗教」「医療」「科学的真実」「遊興」「無関心」etc。
コメントありがとうございます。
古い山寺を訪ねて仏像を見ることは、私にとって、生きていく中で遭遇するいろいろな困難に耐えていくための大切な方法になっています。
それは、たぶん人それぞれ、千差万別なのでしょうね。
コメントを書く