最近、母方の祖父が中国へ出征していたことを知りました。
医大を卒業し、大学の助手と勤務医を経て、大日本帝国陸軍の軍医予備員に志願し、3年後には臨時招集され中国へ出征したようです。
祖父が残した書類の中に、昭和12年当時の、地域の医師会からの通知がありました。横長の用紙1枚に、「防毒救護講習会開催ノ件」「兵役関係者ノ届出ニ関スル件」とあります。
防毒救護講習会開催ノ件
本年四月二日防空法九月二十八日ニハ同防空法施行令ガ公布セラレ、法第六條及施行令第四條ニヨリ医師薬剤師等ハ特殊技能ヲ有スルモノトシテ必要に応ジ地方長官ヨリ防毒救護其他防空ノ実施ニ従事ヲ命ゼラレ尚指導員トシテ統監ノ指揮ヲ受クル事ト相成居リ候ニ就イテハ今回県当局(統監)ノ依嘱ニ基ヅキ本会並県薬剤師会連合ニテ左記ノ通リ緊急ニ講習会ヲ開キ防毒救護ニ関スル知識ノ普及徹底ヲ期シ万遺憾ナキ様致度候間御多用中御迷惑ナガラ特ニ御繰合是非共全会員御出席相成度此段御通知申上候
一 日時 昭和十二年・・・・
一 場所 ・・・・
一 講師 中部防衛司令部 ○○軍医大尉
・・・・・
兵役関係者ノ届出ニ関スル件
左記ノ通リ兵役法改正セラレ兵役関係者ハ同附則ニヨリ十二月二十九日迄ニ本籍地ノ市町村長ヲ経テ本籍地ノ連隊区司令官ニ届出ヅルコトト相成候間此段御通知申上候
・・・・
(旧漢字は新しい漢字に直しています。「・・・」の部分は文章を省略しました。)
化学兵器によって攻撃を受けた時は、医師や薬剤師が専門家として救護に当たるように、ということだったのでしょうか。
現在では考えられないような講習会が、地域の医師会によって開催されていたなんて・・・
祖父は、赤鉛筆で「兵役関係者ノ届出ニ関スル件」のところに二重丸をつけており、法令に従って届出をしたのでしょう、その、軍医予備員志願書の下書きも残されていました。
形は「志願」となっていても、実態は徴兵されていったのだと思います。志願しなくても、いずれは徴兵されていたのでしょうから・・
昭和15年臨時招集応召記念、のメモとともに、出征直前の祖父と家族の写真も残っていました。
さらに、アルバムの中に、軍服を着た祖父が「呂1640部隊」と表示された門柱の前で立っている写真がありました。
この部隊名は、陸軍における通称号といわれるもので、部隊の名称を秘匿するために使われたのだそうです。
自分なりに調べてもどこに派兵された部隊なのかわからなかったので、防衛省防衛研究所の図書館資料室に問い合わせてみました。
ひょっとしたら、当時の活動を記す日誌なども残っていないかと期待もしていました。
でも、研究所から届いた返事では、呂1640部隊は漢口第二陸軍病院の部隊名であり、昭和21年7月2日に上海を出港し、7月10日に博多、12日に浦賀に復員したことのみ記録が残っているそうです。
大日本帝国陸軍病院の記録は一切残っていない、勤務者名簿も残っていない、という簡単な返事でした。
復員した祖父は郷里で開業したようですが、健康に恵まれず、自ら身を滅ぼすようにして他界したのだそうです。
その後女手ひとつで三人の子供を育て上げた祖母の苦労は、大変なものであったと聞かされました。
祖父が中国でどのように過ごしていたのか。
全くそのことは祖父自身も書き遺しておらず、家族にもほとんど語らなかったようです。
病院というある種守られたところでの派兵だったでしょうから、最前線で戦った兵士の方々と比べれば、恵まれた環境にいたのだろうと思います。ましてや、無事に復員していたのですから。
でも、戦争がなければ、祖父は、本当は医師としてもっと充実した日々を送っていたのではないだろうか、と思うと、心が痛くなります。
これまで、先の大戦は、わたしにとって教科書の上のことのように思っていましたが、このような事実を知ることになって、戦争が自分のほうへ、現実のものとして引き寄せられた感じがしています。
今日は終戦記念の日。
戦争が私の心にいっそう強く迫ってきます。
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